Isidora’s Page
古雛の家

 ●学問におけるヒエラルヒー●         2002年6月28日 

 今や旧聞に属するだろうが、ソーカル事件というものが合衆国で起きた。ソーカルという物理学者が、数学や物理学を援用した哲学的文書のパロディを書き、科学論などをよく掲載する社会科学の権威ある専門誌に投稿したら、そのまま掲載された。そして、あとから、あれは冗談文書で、わざと数学や物理について間違えて書いてあるんだよ、と暴露したのである。この事件は「サイエンス・ウォーズ」と呼ばれる事件に発展し、例えばソーカル&ブリクモン『「知」の欺瞞』のような、哲学者等のまちがいをあげつらう本などが書かれることになり、そして、科学論なんぞというものは愚にもつかない……といった、「ハード」な科学側からの攻撃がなされるようになったらしい。
 この事件であらわになったのは、どうやら数学や物理学に対して人々は畏怖の念を抱く傾向にあるということだ。そして権威主義者が時としてその心理を巧みに利用するらしいということ。そして数学や物理をやっている人間は世界で一番自分が賢くて偉いと思っているらしいということである。
 数学者の思考経路が、常人とはちがうのは明らかだろう。数学用の頭をしていないと問題が解けないとは思う。しかし、例えば日本の有名な数学者たち――森毅とか秋山仁がテレビや本で喋っているのを見ても、頭がすばらしく良いという感じなど全然しないではないか。普通の人、せいぜい、少しはできる人という感じである。いわゆる「頭の良さ」と数学は特に関係がないのであって、数学ができることは賢いことでも何でもないのである。
 いったいどうして数学が出来るのがそんなにエライということになったのだろうか。おそらくは、現代文明がかなりの程度数学に頼っているからで、これほどの豊かな社会を生みだしたもとは数学や物理学であると人々が感じているからなのだろう。実際にそういう側面はあるかもしれないが、経済学にはうといので、はっきりとしたことは言えない。
 しかし一方では、「数学と円周率」でも触れているが、文系の人々にとって、数学は排除すべき対象であったり、憎むべき対象であったりもする。畏怖されるものは同時に憎まれるものでもあり得るから、納得出来ないことではない。結局のところ、現実を離れたところに立ち上がったイメージしか持たないので、そのようなことになるのだろう。崇めるにせよ憎むにせよ、根にあるのは過大視である。
 例えば言語はあらゆる学問の基礎である。これが使いこなせないと人文科学でも社会科学でも話にならない。だが、言語の研究者が偉大だとみなされているふしはない。数学もまた科学の基礎学問であって、高等数学は出来ないと話にならない場合もある。だがきわめて高度な数学(例えばフェルマーの大定理を解くというような)は、その他の科学には必要がないし、専門化され特化された純粋数学の世界の研究者は言語学者のような存在だと考えていいと思う。にもかかわらず、ほかの科学者からも数学者がヒエラルヒーの最上階にいると見なされ、物理学がそれに次ぎ、以下化学・地学・生物学……と続いていくと考えられていて、それを疑う者がいないようだ。
 数学者に言わせれば、人文の研究者の言うことは数学者に理解できるが、数学者の言うことは人文の研究者にはわからないから、数学の方が高度であるということのようだ。数学者は生物学でも何でも理解できる。でもその逆はない。それを言うなら数学はピアノのようなものだ。ピアノは幼い頃からの修練を要する。人文科学は歌だ。誰でもすぐに歌える。だから歌手よりピアニストの方が偉いのだろうか? 数学を解くためには数学的思考が要る。それは通常の世界の見方とは違うし、それを培うための修練がいる。そしてもうひとつ、数学には独特の数学用語がある。そしてそれは一般的ではない。「非線形」という言葉は「元型」のようにポピュラーに使われるようにはならなかった。つまり数学はマイナー・ジャンルなのだ。大衆が難しいことを理解しないからではなく、数学者の言葉がアピールしなかったからなのだ。アピールしたものは、カオスのようにポピュラリティを得ているのだから……。
 要するに、数学や物理学が高等な学問だというのはとんだ勘違いというべきだろう。しかしその観念はなかなかに根強いものがある。ロンダ・シービンガー『ジェンダーは科学を変える!?』(工作舎)という本を読むと、そのことがよくわかる。科学でなされてきた(なされている)女性差別を概観する本だ。物理学や数学に従事する女性の数の少なさについて論じているところでは、特にこれらの分野には男の聖域的雰囲気が強く、女性排斥傾向が強い様子が見てとれる。科学の最高峰で理性の牙城だから女みたいに論理的でないやつを入れるな、というわけだ。そして、著者の方も女性には数学的能力がないとする一般的見解を打ち消そうと躍起である。ここで引いてしまうと、女性の科学分野への参入が厳しくなるからである。
 しかし、数学なんてそこそこ出来れば物理学以外の科学をやるには問題ないだろう。ヒエラルヒーの上の方だと思うから何となく躍起になるので、台形の土台だと思えばそんなにむきになる必要もないだろう。脳の機能については本当はよくわかっていないが、もしも万が一それが解明されて、数学は一般には女性の脳向きではないとわかったところで、女性の科学への参入がきわめて大事であることは、本書の生物学や人類学の項目を見ても一目瞭然なので、数学にそんなにこだわることもない。とはいえ、私も女性は数学が出来ないという括りは、あまりにも大雑把だと思う。ジェンダー問題の本では、どうしても女性一般というような見方になってしまうが、性差よりも個性差の方が大きいのだから、非常に数学に優れた女性もいるだろう。個人個人で判断すれば良いことだ。もしも何かグループで考えるならば、ユダヤ人がこんなにもたくさんの優れた数学者や物理学者を輩出している理由を調べたほうがまだ実りが多そうだ。だが、そんなことも本当はどうでもよかろう。要するに、偏見を持つな、ということだ、なにごとにおいても。