Isidora’s Page
藍の細道

●『買売春と日本文学』●      (2002年6月28日)

 フェミニズムは私が生きていくうえで支えの一つになる思想である。ではフェミニズムとは何かということだが、女性性・男性性は歴史的に作られてきた概念であり、文化的な規制に過ぎないということを認識するということだ。フェミニズムは女性の数だけあるものらしいから、これは私自身にとってのフェミニズムがそういうものだということだ。
 しかし文学批評の場でフェミニズムに忠実であろうとすると、きわめて索漠とした感じのものしか私には書けないような気がする。文学は、あまりもあたりまえのことだが、文化的規制を強く受けるものであり、フェミニスティックな視線で文学を読めば、男が書いた作品ばかりでなく、女が書いたものでも、「性差別を助長する」としか読めないものがきわめて多いからだ。
 フェミニズムは現実の場でこそ有効に機能させるべきものではないか。だが、文学が文化の一端である以上、フェミニスティックでない文学を野放しにすることは、フェミニズムが現実に機能することを妨げるのである。だから、本来なら私もフェミニズム批評を展開するべきなのかもしれないが、『買売春と日本文学』のようなフェミニズム批評のアンソロジーを読んでいると、到底ここまで毅然とした態度はとれないと思うような評論にぶつかったりして、とても力の及ぶところではないと思ってしまうのだ。
 この評論集は、買売春の出てくるテキストを古代から現代に至るまで数多く取り上げて、個別の論者が批判したり肯定したりするものだ。売春行為をめぐる歴史や是非論のような抽象的論考も含まれている。
 例えば高良留美子の「眠れる美女」批判は、少女殺しという文脈で川端康成の女性への権力的な態度を批判したものだ。「眠れる美女」は、三島由紀夫やガルシア=マルケスなど、ファンの多い作品だが、高良は、三島の「眠る女の個性を描き分けている」というような評価をちゃんちゃらおかしいと切り捨てて、女のオブジェ化に嫌悪を隠さない。「眠れる美女」のような作品を書いた川端が変態じいさんだったのはまちがいないだろうし、フェミニズムの文脈から見れば、この作品がおぞましいのは当然のことである。しかし、文学というのはフェミニズム批評だけではすくえない。三島が褒めたのも、少女をフェティッシュに描く川端の絶妙な筆さばきだったのだろう。すぐれた詩人である高良がそのようなことに意識的でなかったはずはないから、戦略的にそのような美の表現の問題は切り捨てたのであろう。あるいはそのような美なら要らないと否定したのである。私にはそこまで思い切ることができないので、とてもフェミニズム批評のような、ある意味で一面的であることに開き直らざるを得ないようなものはできないと思うのである。
 もちろん作品によっては、私も過激なフェミニストであることを強いられるかもしれない。男が手前勝手に描いた女のありさまに、作品全体の出来などとは関係なく、怒り心頭に発することもある。
 ところで、この本では商売としての売春をどのように認めるかということを問題にしている部分もある。売春をセックス・ワーカーとして認めようというのは昨今のフェミニズムの趨勢である。フェミニズムは、極端にラディカルであり得る思想なので、あらゆることは文化的規制に過ぎないから、何でも自由だという立場にも立ちうる。援助交際についてもほとんど腰砕けということが多い。自分の身体は自分のものだからどのように使おうが自由である、人に迷惑をかけなければ何をしても自由である、といわれて反論できないことも多い。
 自分の身体は本当に自分のものだろうか、という論の立て方もあるだろうが、父、夫、子に従うべしと言われてきた女性たちにとっては、身体が他者に所有されているという感覚は切実なものであるため、自分のものだと言い切れることは一種の進歩だ。だから、そちらの方向では難しいものがある。論理的には、身体は私たち自身であって、誰にっても、たとえ自分自身によっても、所有されるようなものではない、という大局論でしか対応できないので、虚しい。  私自身は、このように情報の発達した社会で、日本のような国で、売春を職業として選びとるのであれば、それでかまわないのではないかと思う。望まない少女売春をさせられている世界中の子供のことを考えれば、自分で売春を職業として選べるというのは実に幸福なことであるわけだし。
 援助交際については、子供がセックスを商売にするなどというのは問題外だとなぜはっきりと言えないのだろうか。親に養ってもらっている身で、好き勝手に生きていけると思ったら大間違いである。親の許可を得てからセックスを売り物にするのならばすればよいだろう。たいていの親は子供がかわいいから、身体的・精神的に傷つくリスクが大きいそんなアルバイトは禁止するだろうが。
 自由を手に入れるためには、先立つものがまず必要なのである。奴隷は自分の身を買うだけの金を持たなければ奴隷のままであるというのが、モダン社会なのだ。親に養ってもらったまま好きなことをしたいというのはただのわがままでしかない。でも若い方が商品価値がある、今なら高く売れると中学生が考えるなら、そのように言って親と交渉してみたらどうだろう。ジャリ・タレが稼ぐのと一緒だよ、何パーセントかを家に入れるから……と言ったら、このご時世である、許可する親もいるかもしれないではないか。私たちは金銭によって行動の自由を手に入れるが、同時に金銭の奴隷なのである。
 ところで人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというのが、最近の風潮であるらしい。現代日本では、ほとんどの人が普通に生きているだけで人に迷惑をかけているのではないだろうか。私たちの生活は、下位の人間を搾取することで成り立っているのだから。最底辺にいても保護を受けることで、社会的に迷惑をかけているのだ。生命全体を見ても、誰かに迷惑をかけて、そして誰かから迷惑をかけられつつ生きているものだろう。私たちは別に一体にならなくとも、つながっているのだ。
 迷惑をかけなければいい、というのは、自分の目に見えるところだけを見て自分を納得させる方便に過ぎない。「実害は出ていない」といってこてんぱんにたたかれたみずほ銀行の社長のようなものである。彼がそう言った時点では、確かに誰かの預金がどこかへ消えるということもなかったし、事務処理の遅れの問題に過ぎなかったにちがいない。そういった文脈というのは充分に理解できる(その後処理が長引いたことであからさまな実害が出てしまったので、それは弁解のしようもない失言となってしまったが)。だが、そうした〈実害〉ではないにしてもなんらかの害が出れば、例えば騒ぎが起きたということだけでも、やはり実害があったというのである。
 売春が、誰にも迷惑をかけない商売かといえば、やはりそうではないだろう。たいていの商売と同じだ。そして、子供が売春をしていると知った親は傷つくだろう。親に迷惑をかけているのは確かだ。迷惑をかけてなどいないと言い逃れるのはやめて、迷惑をかけていることを自覚するべきなのであって、自覚せずに迷惑をかけていないと言い張ることは、責任を逃れようとすること、みずほの社長と同じことなのだ。
 しかし、本当はこんな御託はどうでもいい。買売春は、世界的に見れば、悲劇の温床である。ダメなものはダメだと言えば、それでいいではないか、という気分になる。いや、本当のところは、他人の家の頭が空っぽな娘などどうなろうと知ったことではない。運悪くひどい男に当たって死んだって、自業自得である。彼らがヤクザの食い物になって、さらに悪を広げるというのでもないかぎり、勝手にやってくれ。買売春について肯定的な発言をする人も、きっと自分の娘がエンコーしたいんだけど……なんて言ったら、烈火のごとくに怒るんだろうしね。

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