Isidora’s Page
古雛の家

       ●本の価値1●           2002年12月3日

 書店に行くと本があふれている。たくさんの本が世に出ては消えていく。売れている本、話題の書物、知り置きの著者によるものなどを除いて、棚差しになっている(背のところだけを買い手に向けている)一冊の本をたまたま手に取るのは、どんな契機によるものだろうか。平積みになっている本を手に取らせるには、装幀の力が大いに与るだろうが、背だけの場合はおおむね本の表題だけが頼りであろう。結局のところ、興味のおもむくところでおもしろそうな本ということになるのだろうか。それではいつまでも自分の枠から抜けられそうもないが、なにがしかの限定付けをしていかなければ、人は生きてはいけまい。
 私は本の紹介の仕事をしているわけだから、私の駄文によってその本の存在を知り、読んでみようと思う人もいるだろう。東京新聞での書評は、評価はほとんどしないただの紹介文なので、そういう分野に興味がある人には情報として役立つだろうし、なにげない紹介文でも心惹かれる場合もあろう。時には、これはみんなに読んでもらいたいということから、「傑作」とか「感動的」というような言葉で評価することがある(見ていると、ほかのライターの人もそうしているとおぼしい)。そういう本はうまく読者に届いているだろうか。
 私も東京新聞の同欄を読んで、時折おもしろそうな本だから読んでみようと(どうしてこの本を私に送ってこないのか? と、実に勝手なことながら、むっとしつつ)思うことがあり、そうしてみると、自分の書いたものもそのように思われることもあるということだろう。
 しかし、東京新聞にしても、取り上げる書物は一年間でせいぜい二千冊といったところだろう。年間に出る書籍の数パーセントだ。もしかすると、すごい作品が埋もれていても、埋もれたままに終わり、届くべき所に届かない、ということがあるかもしれない。だが、そんなことは果たしてあるだのだろうか。すべての書物を読めるわけではないので、漏れてしまうものは多々あるわけだが、その中に、真に驚愕すべきものがあったろうという感じは抱いていない。時折送られてくる自費出版物を読んだり、何かの賞の下読みをしたりすることが、この感覚を補強する。
 つまるところ、人と本との出会いもまた縁であって、出会うべきものには出会えるものではないかと私は思う。
 人生は短い。いや、充分に長い。どちらにしても読める本の数は限られている。私のこれまでの読書量は、すでに日本人が生涯に読む本の量の平均値をはるかに越えているが、多読には意味がない。出会うべき本に出会えばそれで充分だと思う。
            
   本の紹介をしているとは言っても、漠然と、読むべき本、読む価値のある本は何か? と問われても、答えに詰まる。なぜなら、読書はきわめて私的な体験だからである。普遍的な価値を持つ書物はこの世にはない。
 私と同じ本に価値を認める人が誰であるのか、どうやって知り得ようか。その読者個人の読書傾向や性格を知っていれば、この本をおもしろいと思うだろうというぐらいのことは私にもわかる。しかし、その人にとって読む価値があるのかどうかは、わからない。その本を実際に読んでみなければ、その人にさえわからないのだから。
 本は、その個人にとってしか価値がないのであって、しかも価値があると思えばあるし、ないと思えばなくなる。
 私が「この本は読む価値があった」と思うことは主観的なことに過ぎない、というよりもむしろ主体的にそう思うことが、本を価値あるものにする。
 その人にとって価値のある本は、それがその人の人生をささやかなりとも変えたから、価値があるということなのではないだろうか。さらに考えれば、本というよりも読書体験そのものに価値があるということではないか。それは生きていることに価値があると思う思わないと比定できることだろう。あらゆる生にまつわる出来事は無駄であって、価値などというものとは無関係であるというのと同じように、すべての読書は無駄だとも言えるだろう。
 本は、幻から生れて形になる。そして、読者に幻を紡がせる。あたかも現実そのもののように不安定で、関係性の産物という感じもする。そしてその客観的な価値は、ただ売れることのみによって保証されている。現実的に金銭をやりくりして本を作っている人々は、その本を作ることの意味を、書籍の存在意義というものを常に問い続けずにはいられないものだと思う。作れば売れるというようなものなら、商売だからと割り切ることもできよう。だが、売れないよね……とため息をつきながらも、本を作っている大勢の人は、いつもその問いを抱えているものではないだろうか。
 『幻想文学』のように売れないものを作り続けていくためには、自ら何らかの価値があると信じるほかないだろう。しかし、繰り返すが、価値などというものは、あるようで存在しないものだ。私自身は『幻想文学』そのものに価値があるとは思わない。私にとっては大事なものではあるけれども。もしも『幻想文学』には価値があると言えるとしたら、それは、『幻想文学』には価値があると思う読者がいるから、という理由以外には考えられないのである。そしてそれはあらゆる書物について、あるいはこの世のすべての出来事について、言えることであるのだろう。