Isidora’s Page
古雛の家

       ●本の価値2●           2002年12月3日

 例えば映画を観に行くとする。新宿界隈では女性の場合、水曜日には千円で観られる(ところが多い)。で、なるべく水曜日に映画を観に行く。千円だと、かなりひどい映画でも許せるものである。つい最近では『サイン』というのが世にもひどい映画だったが、何とか我慢もできた。『少林サッカー』とか『プロフェシイ』とか、千円でそこそこ面白い映画が観られた時は、得したような気分になる。
 千円と千八百円の差とは何か? どうして千円なら許せるのか? 単に気分の問題ではないかという気もするが、二時間弱の娯楽として、その値段ならそう悪くはないだろう、と感じるのだ。千円でそのひどい映画を観る価値があったとは言わない。ただ、許せる範囲だということだ。
 本の場合はどうだろうか。許せる範囲があるだろうか。私は書評家という、きわめて特殊な職業なので、本当のところはよくわからない。タダで読んでいる本もたくさんあるし、本を買っても、それはいわば経費になるから、本に関する金銭感覚が麻痺しているようなところもある。だが、書評家であるからまた、本の値段はものすごく気になるのだ。普通の読書家の人とは感覚がずれているかもしれないけれど、本の値段について考えてみたい。
 私が東京新聞でやらせてもらっている本の紹介の仕事は、新聞社の文芸部記者が本を選んで送ってくるというシステムになっている。出版社は新聞社にはよく献本をするものらしく、私のところに回ってくるのもおおむね謹呈本だけれど、記者自身が書店でおもしろそうなものを買う場合もあるという。どちらにしても、送られてくるのは、記者が著者や帯などを見て、おもしろそう、紹介したらどうだろう、と思うような本であることはまちがいない。実際に読んでから送ってくるわけではないので、たまにはひどい本も入っていて、表題と惹き句だけで騙されるのは私だけではないのだと思わされる。
 それはさておき、この仕事を通じて年間百五十冊ほどの本を読んでいる。自分の趣味嗜好からすれば絶対に読まない本がほとんどである。知見を広げられるということは、それはもう確実にある。特にノンフィクション系の書物では教わることも多く、仕事としてはたいへんにお得な感じがする。しかし、どの本なら自分で買うか、ということになるとはなはだ怪しいものがある。つまらない本ではなくても、ただ楽しみのためだけにこれを買ったろうか、と考えれば、買わないにちがいない、と思うのだ。私は基本的には物書きなので、その仕事に資するため、本を買うということがほとんどである。それは楽しみのためとは言い難い。勉強のために本を買うのはどこか邪道である。
 東京新聞では、もちろん文芸書も読む。送られて来る本には記者の好みがおのずと反映されている。以前の担当の方はどちらかといえば文学好きの方で、翻訳小説や時代小説、ミステリなども多く選んで寄越した。あとで直木賞を受賞したような作品や〈このミス〉などでも上位に入ったような作品を選んでいたのはさすがだと思う。今の担当の方は、どちらかと言えば社会派で、ノンフィクション以外でも、風刺的な作品とか社会派の文学を選んでくる。作者の無名さなどには頓着していないところがよくて、案外とそういうものがよく書けていたり、おもしろかったりする。しかしこうした本のどれを取っても、自分で買ったろうかと考えると、答えはほとんどがノーである。こちらはノンフィクションとは違って、断固としてノーだと言える作品が圧倒的に多い。自分で買ったかもしれないと思うのは、この数年の累積のなかでほんの数冊で、しかもすべてが幻想文学。もしかして、『幻想文学』をやっていなければ、買わなかったか? と考えると、その数冊のうちの半分くらいが消えるので、結局二冊か三冊が残ることになる。
 もしも、ものを書かなくなったとしたら、どのくらいの本なら許せると考えるのだろうか。こと小説に限って言えば、一年のうちで、買っても良いような本(新刊)というのは、十冊もいかないのではないかと思う。その一冊が三千円でも、私は高いとは思わない。場合によっては五千円でも。しかし一万円となると考えてしまう。
 内容を期待して買った本がひどかった場合、たとえそれが千円でも許せるような気がしない。というか一冊五百円の文庫でも、ひどい内容なら許せない。だから多分、無差別に読まなければならないような現状を脱したら、私は小説などはよくよく吟味して、めったなことでは買わないに違いない。
 千円のひどい映画と千円のひどい小説。たぶん時間つぶしとしては、小説の方が長く時間をつぶせるだろう。だが、ひどい小説を読むのは苛立たしく、腹にすえかねるできごとだ。それは、小説への理想化の度合が高いせいではないだろうか。映画の場合は、自分が好きそうなものを選んで観に行っているのだから、どんなにひどいものでも、どこかしら見るところがなくもない。ほんの少しは愉しめる箇所があるものだ。と、要するに寛大になれるが、小説の場合には寛容の精神などはどこかに吹き飛んでしまう。小説の場合には、非合理なことだとはわかっていても、常に絶巓を求めてページを繰る。その期待に応えないどころか、問題外の愚作だったりすれば、愉しめるところもあるよね、などと思えるどころか、そういうところまでが却って不愉快に思えてしまったりする。
 さて、私は、bk1というオンライン書店でも書評を書いている。ここでは本のセレクトは私に一任されているが、ほかのライターとはかぶらない本でしかも文庫以外というということなので、本を選ぶところから苦労してしまう。本を買ってもらうための書評なので、つまらない本を選びたくないし、すぐれた本でもあまりにも高価ならば気軽には勧められない。どんな価格のどんな本なら読者はリーズナブルと考えるのかは、本当のところはよくわからないのだけれども、自分ならどうだろうかということをいつも考えて本を選んでいる。
 例えばコニー・ウィリスの『航路』は上下で三千六百円、映画にして二本分だが、それだけのおもしろさのある本だと思う。私などは、主人公が擬臨死体験で行く通路の描写だけで、三千円出しても惜しくないと思う。一般の人がどう考えるのかはよくわからないけれど、これだけ上質なエンターテインメントはなかなかない。あるいはジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果実じゃない』も、値段と内容を考えて、勧めるに足る本だと思った。
 しかし、一方では、そんなに悪くはないが、買ってまで読む本だろうか、というようなものもある。一度読んだらそれきりの読み捨ての小説の類。それがハードカバーで比較的高価で売られている。値段と本の内容がしっくり来ない例は、最近よく見かけるようになったのだが、翻訳小説のことが多く、版権の問題が大きく関わっていることと思われる。
 このそんなに悪くはないが……という本も、私なら、仕事でもなければまず読みたくないと思う。もちろん読んでみなければわからないので、それを買ってしまったとしよう。読んでみて、そんなに悪くはないが、すごくもなければ好みでもなかったというとき、いくらまでなら許せるのか。バカ丸出しの設問だが、敢えて答えてみるとやはり千五百円以下までという感じである。映画一本分より高ければ、許せない、という感じになるのは、やはり、本に対しては厳しいのだろうか。