Isidora’s Page
古雛の家

       ●詩の翻訳●           2002年12月3日

 神秘文学の特集では、『幻想文学』ではあまりないことなのだが、詩の翻訳がいくつも載ることになった。本当は南條さん翻訳による『エレウシニア』を冒頭に置くはずだったのだが、「無理」という言葉が一ヶ月ぐらいしてから返ってきた。63号でも、詩の翻訳は出来る時は出来るが、出来ない時は出来ないと言って、とても厳しい判断基準を設けているように見える。出来ないのはどうして? と訊いてみると、「うまく出来ないのにはいろいろな理由があるけど、意味的にも音的にも日本語にうまく訳せる言葉が無いとだめなことが多い」とのこと。音の響きというのは重要なもののようだ。
 今回スペイン語の翻訳をしてくれた田邊さんも、音が伝えられないから、意味だけを移すとあまりにも論理性が勝ち過ぎの感じになっていやになる、というようなことを言っていた。スペイン語の好きな人は、あんなに音の美しい言語はないと言い、日本語での伝えがたさを力説する。
 フランス語の好きな人もまた同じように思っているに違いなく、詩の翻訳の難しさということを考えさせられる。だが、何となく詩に漂う雰囲気を伝えられるということはあるのではないだろうか。
 翻訳を通しても伝えられるものというのは何なのだろう。私のように外国語の出来ない人間が考えても仕方ないのだが、とても気になる。私は自分の出来ない言語の詩人や小説家がとても好きだし、翻訳文学によっても私の感性やら世界観やらは培われているように思うからだ。
 横山さんは翻訳で文体もある程度移すことは可能だとおっしゃるのだが、それはどういう形でなのだろう。もっとも鏡花のような特異な文体では翻訳しにくかろうと言うのだが、それは何となくわかる。
 南條さんの話によると、相性の問題ということがあるようで、彼我で似たような文体を持っていれば、移しやすいらしい。でも似ているって、こんなに言語の形が違うのにどんなふうに?
 どうも具体的にはイメージできないので、私などは、例えばオクタヴィオ・パスの「詩の翻訳は不可能である」という言葉に飛びついてしまう。詩の創造ということを世界創造にも比すべき重いものと考えているパスにとっては、一度書かれた詩を他の言語に変えるなどというのは許しがたいことだ。けれども、詩を読むことをその詩の創造の一環として捉えているパスは、翻訳を詩の再創造であると定義づけることによってそれを許すのである。
 この考え方ならばわかる、あるいは納得できる。簡単に言えば、私が詩を読んでいるとき、私はその詩人なのである。その詩の情感を、思想を再び生きるのだ。日本語の詩を読む場合にも起きることで、私はそのとき詩の世界に入り込んでいる。入っていけないような詩は、たとえ読むことは出来ても、味わったことにはならない。翻訳においても、その味わいが、パス風に言えばポエジイが、再現できるような日本語に移せばよいのではないだろうか。そのとき、翻訳者は自らが詩人とならねばならない。
 だが、果たして本当にそれでいいのだろうか。音の響きもうまく移せなければ……と南條さんが言うからには、さほど単純なことでもなさそうだ。
 私は詩という文学形式が比較的好きだが、暗誦がものすごく苦手である。篠田真由美さんなどは、どんなときでもすらすらと詩や短歌を暗誦してみせるので、ただもう感心してしまうのだが、逆立ちしてもそんなことはできない。私の場合は好きな詩人の詩について思いを馳せるときも、まず浮かんでくるのは映像であり、言葉の感触であり、その詩から受けた印象や衝撃であり、そうしたものがしばしばいっぺんに来るが、決してその当の言葉の流れは浮かばない。私の中で、その詩を思うとき、一個の宇宙が出現するのであって、その宇宙には言葉そのものは断片しか漂っていない。英語で詩を読んでも事態は同じことで、言葉よりもまずイメージが立ってしまう。言葉の響きなどは二の次三の次。というよりも押韻などはむしろ邪魔に思うことの方が多かったりする。人一倍耳は良いほうで、自分で言うのもなんだが、音感はたいへんによいし、音楽は繊細に聴くことができるのだが、詩の音楽性にはどうも鈍感らしい。そのような人間には、翻訳は再創造である、というのが最も耳に快い言葉だというだけのことであって、本当は別の翻訳の仕方の方が理に適っているということもありそうだ。
 詩の言葉というのは不思議なものである。少ない言葉で多くを語る。そのためには、縁語や掛け詞のようなものを駆使するし、日常は使わないような特殊な言葉も使う。そのような複雑な言語の絡まりあいが大きな効果を生む場合がある。一方では、ありふれた言葉だけで大きな感慨を引き起したりもする。そのメカニズムは、いまだによくわからない。だから、もしかすると、ポエジイを移すというようなことではなく、わりあいと素直に逐語訳するようなことが、詩の翻訳としては相応しいのかもしれない。そうして対応する彼我の言語を求めていったとき、どうにもうまく対応するものが見つけられない、あるいは個々の言葉は何とかなっても、最終的に全体を眺めると奇妙なものになってしまうということがあって、それが詩の翻訳の難しいところなのだと言えるかもしれない。
 多田智満子さんがエッセイの中で「ひぐらし」に当たるフランス語がなくて、自分の詩を翻訳出来なかったと書いているが、「ひぐらし」という言葉がないということは、それに伴う情感(晩夏の夕暮れのどこか寂しい感じ。あるいは郷愁をさそうような感覚。あまりにもぎらつく陽が沈んだあとのほっとしたような、気の抜けたような感じ。などなど)もまたフランスには存在しないということであって、それは確かに翻訳不可能だろう。多田さんの「ひぐらし」には言葉遊びの要素もあるが、そうしたことを除いたとしても、翻訳が出来ないということは確かにあるのだ。
 考えれば考えるほどわからなくなってくる。実際に詩を読んでみるとまた別の考えも浮かぶ。私に辛うじて読める外国語は英語ぐらいのものだが、詩の翻訳を読んでから原文を読むと、全然違う、と思うこともあり、逆に英語の詩を読んでから翻訳を読むと、どうしてこう訳すのかまったく不可解ということもある。もちろん文法の問題などではなく、言葉の選び方や置き方の問題である。もしかすると、詩を読む人は、百人が百人、そのように考えるという可能性もある。もしもそうなら、詩の翻訳はやはり詩の再創造であって、読者の数だけ詩の翻訳は存在することになる。実際、たくさんの翻訳のある詩を読めば、その感触が違うことに驚かされる。しかし、どの翻訳が良いのか、誤訳はともかくとして、いったい誰に決められるのだろうか。
 とはいえ、そのように多種類の翻訳がある詩を眺めてみると、伝わるべきところは伝わるのではないか、という気もしないではない。核になるような部分は損なわれない。その核をいかによりよく伝えられるかどうかという問題だけのような気もする。と思うそばからそれは「だけ」などという問題ではなくてそれこそが重要なのだというふうにも思われてくるが、しかしとりあえず翻訳では、核となるものさえ伝わればよしとすべきではないのか。所詮まったく異なる言語なのだから。そしてその上に、南條さんの要求するような、詩の良い翻訳のレヴェルが存在するのではないだろうか。
 こうして書いていても、語学の知識がないのにデタラメなことを言っているという気分が増すばかりだ。ちゃんと答えられる人がいたら教えて欲しい。
          *
exercise
ライナー・マリア・リルケ

嘆き(富士川英郎訳)

おお なんとすべては遠く
もうとっくに過ぎ去っていることだろう
私は思う 私がいまその輝きをうけとっている
星は何千年も前に消えてしまったのだと
私は思う 漕ぎ去っていった
ボートのなかで
なにか不安な言葉がささやかれるのを聞いたと
家の中で時計が
鳴った……
それはどの家だったろう……
私は自分のこの心から
大きな空の下へ出ていきたい
私は祈りたい
すべての星のうちのひとつは
まだほんとうに存在するに違いない
私は思う たぶん私は知っているのだと
どの星が孤りで
生きつづけてきたかを――
どの星が白い都市のように
大空のはてに立っているかを……


なげき(生野幸吉訳)

ああ すべては なんと遠く
ひさしく過ぎ去っていることか
わたしがいま そのかがやきを
受けているあの星は
何千年のむかしから死んでいるとわたしは思う
いま過ぎていった舟のなかで
不安な気配がかたられるのを
聴いたようにわたしは思う
家のなかで
時計が鳴った……
どの家だろう……
わたしは自分の心からふみだして
大きな空のしたに立ちたい
わたしは祈りたい
すべての星のうち どれかひとつは
まだほんとうに存在するにちがいない
どの星が いまも
孤独に永らえているのかが
わたしには判ると思う――
その星は 白い都のように
ひかりのむこうのはての 大空の奥に出ている


歎き(星野慎一訳)

おお みんな なんとはるかに
遠い昔に 過ぎ去ってしまったことか。
今光を投げている
あの星も
何千年もの昔に死んでしまったのだろう。
かたわらを滑ってゆく
ボートのなかに
「不安」を語っている声がこきえるようだ。
家のなかで時計が
時を打った……
どの家だろう?……
心のなかから歩み出て
大空のもとへ行ってみよう。
すべての星のなかの一つくらい、
未だほんとに存在しているにちがいない。
どの星が
生き残っているのか、
わかるような気がする。
それは 天国の光の端[はて]に
白い都のように立っているのだ……


 私はドイツ語は出来ない。原詩を読んだことはない。前者は新潮文庫のもので、中学生の頃に初めて接して感動したものである。後二者はその後に触れたもの。詩人でもある生野訳は全集で、星野訳は岩波文庫。どの翻訳が良いと思われるだろうか。また、どの詩からも同じように伝わる核のようなものがあるだろうか。
 この詩で最も意味が取りにくいのは最後の二行で、リルケの信仰について考えるなら、星野訳のようにはっきりと天界を思わせる言葉を出すのが良いのかもしれない。それではイメージの限定が過ぎるというなら、生野訳がよいということになるだろうか。星野訳はもしかすると意訳が過ぎ、「祈りたい」というフレーズを落として、リルケの抱いた感慨を正確に伝えていないのではないだろうか。この三つの詩を読むと、私は生野と富士川訳のよいところを足して別の訳詩を作りたくなってしまう。
 あるいは翻訳とは、演奏に近いものなのかしれない。楽譜が原詩、それを演奏するのが翻訳者である。楽譜を越えることは出来ないが、解釈によっても伎倆によってもその演奏は異なってくる。例えば楽譜を書いた人が演奏するとすれば、正確な演奏が出来るだろうが、最も良い演奏とは限らない。しかし楽譜の書き手でなくとも、まったくはずれた音になってしまうということはあり得ない。
 とはいえ、時にはまずい演奏はあるだろう。あまりにも恣意的なリタルダンドのつけられたような演奏とか。私のように翻訳でしか読むことのできない者は、翻訳文学として日本語そのものを味わうと同時に、原作への想像力も忘れてはならないだろうと思うのである。