Isidora’s Page
古雛の家

       ●文芸●           更新日2002年1月7日

 毎日新聞の12月11日夕刊では、川村湊・富岡幸一郎による対談の形でこの一年の文芸を振り返るという企画を催していた。端書きにいわく「ベテランから若手まで、時代と歴史を見据えた大きな作品が目立った。テロと国際情勢の不安と経済の不振にさらされながらも、文学はほんとうにリアルなものをめざして、ゆっくりと、しかし着実に営みを続けているように見える。」そして挙げられているのが次の作品。

富岡選
岡松和夫『無私の感触』
古井由吉『忿翁』
島田雅彦『フランシスコ・X』
野坂昭如『文壇』
平野啓一郎『葬送』
村上春樹『海辺のカフカ』
大江健三郎『憂い顔の童子』
水村美苗『本格小説』
藤沢周『紫の領分』
リービ英雄『ヘンリーたけしウィッキーの夏の紀行』

川村選
川上弘美『龍宮』
星野智幸『毒身温泉』
高井有一『時の潮』
吉田修一『パーク・ライフ』
若合春侑『海馬の助走』
村田喜代子『雲南の妻』
倉本四郎『往生日和』
大道珠貴『裸』
宮内勝典『金色の虎』
瀬戸内寂聴『釈迦』

 「文芸」というのは、「いわゆる純文学」のことで、ジャンル小説、エンターテインメントと見なされているものは入らない。この言葉の使い方からして、実に興味深いものがありはしないだろうか。文芸とはつまり literature のことだから、エンターテインメントやジャンル小説は文学じゃないということにもなる。もちろんこれは酔っ払いの言いがかりに近い発言ではあるけれど、こうした言葉の使い方からして、日本の「文芸界」は古いと思わざるを得ない。
 さて、私は全二十作のうち、たったの六作しか読んでいない。読んでいないのにこんなことを言うのは、批評家の態度ではないが、「時代と歴史を見据えた大きな作品」というのは、ほとんど信じがたい。歴史小説を書いたからといって、時代と歴史を見据えているとは限らない。せせこましい内面だけにかかずらっている場合が多い。著者の見識を問われるこのようなタイプの作品が、本当に私の読んでいない中にあるのだろうか。
 新聞は大きなメディアだ。私も稼がせてもらっているから、その原稿料の破格であることは良く知っている。(もちろん、文芸誌の書評と比較しての話である! 絶対的に割が良いという話ではない。)そして、新聞社は出版社から広告をもらっているわけだし、基本的に取り上げる本は貶さないという方針である。いわゆる時評では、褒めてばかりもいられないが、お金を稼ぐためには褒めないわけにいかないのだ。ベスト10を挙げろと言われたら、挙げて褒めねばならん。「今年もロクなモンがなかったっすね、ハハハハ……」てなわけにはいかないのだ。
 だから、10はむりやり挙げて褒めはしたが、今年もいまいちだったなあと思っているかもしれない。例えば、大江健三郎も十年一日で……なんぞと言うわけにはいかない。彼には文芸界で勢力がある。「集大成」的な作品と言わなくっちゃね。……でももしかしたら、本気でこういうのがいいと思っている可能性もある。対談はそのように読めるから、恐ろしい。
 川村さんの挙げた作品を私は『龍宮』しか読んでいないので、このリストについてはたいして言うこともない。『龍宮』は東雅夫が推している作品だが、私はパス。どうも作品世界も文体もうそっぽく感じられて入り込んでといけない。これまでの作品よりは多少重みも加えてきたという印象はあり、頑張っているのだろう、とは思うが、その点以外を敢えて評価したいとは思わない。『毒身』『パーク・ライフ』は確か冒頭を立ち読みして買うのをやめてしまった本だ。『裸』の大道はこの前の作品を読んで、少しおもしろいと思ったが、それだけで、二作目を読もうというほどにまではならなかった。『釈迦』は最初から絶対に読むまいと決めていた作品。宗教者を描く小説は、避けるに越したことはない。
 さて、富岡氏の方は、半分は読んでいる。『忿翁』は古井さんの中では普通の出来だと思う。良い、というほどではない。『フランシスコ・X』は、こんなものを書いていてはダメじゃないかと思った作品。『葬送』について、「辻邦生の作風を思い浮かべる」と富岡氏が言うのに驚いた。いや、全然違うと思うが……。川村さんが『釈迦』とともに挙げて壮大な歴史をとらえる本格的な小説と言っているのにもびっくり。『釈迦』は知らないけど、『葬送』は古くさい(つまり、書いている作家の意識を反映したような古典的な)芸術家小説であって、時代はおろか、芸術そのものの変革のうねりも描かれていない。ジョルジュ・サンドの家庭内の話とか芸術家の愚痴とかサロンのうわさ話とか。また、長ければ本格的なのか? だいたい本格という概念はすでに壊れていて現代には意味をなさないと思うし、時代に寄り添うとか逆らうとかいったことは、二人がしきりに口にするポストモダン下では、まったく意味をなさない言葉だろう。『紫の領分』は高校生の頃の私なら書いたも知れないような内容の小説。大江作品はもはや読む必要を覚えない。『海辺のカフカ』は富岡氏によれば、世界の行方に対して自覚的な作品だそうで、それに対して川村さんは判断保留と言っている。私の評価は前にも言った。駄作。

 ここに挙げられた二十冊の本は、今年の収穫なのだろうから、これらを読めば、今の日本のいわゆる純文学の状況がわかるということだろう。この二十冊を愉しめるような人が日本の純文学の読み手ということか。私はならば純文学読者ではないにちがいない。

 余談だが、「ほんとうにリアルなものをめざして、ゆっくりと、しかし着実に営みを続けているように見える」という言葉には、まったく唖然とさせられた。いったい何が言いたいのだろうか。現実が不安定だと、リアルなものがつかみにくいのにその努力をしているということか? 作家は、純文学の作家ならなおのこと、常に自分にとって「ほんとうにリアルなもの」を書こうとするものだろう! 現実感がないと感じるのなら、その現実感の無さがその作家にとってはリアルなのであり、表現すべき課題となるはずだ。妄想でも空想でも、また日常生活にきざす思いでも哲学的思想でも、あるいは言語の感触でも何でもかまわないが、それが自分にとっての現実なのだというものを描かずに、何を描くというのだろうか? たとえエンターテインメントの作家でも、自分にとってのリアルを描けなくなったら、それはもう金を稼ぐ作家としてただのルーチンワークをこなしているに過ぎず、良い作品が書けようはずもないだろう。どんな駄作も、作家にとってはリアルなものを描こうとした結果だ。だから、貶されれば怒るのだ。

 さて、最後に二人の肩書きを見て、そうなっていたんだなあと感心。川村さんは法政大学教授、富岡さんは関西学院大学助教授。実はちょっと前に批評に関する駄文を書いていて、書きながら、大学の先生はいいなあとちょっと思っていたんだよね。次のページにそれを載せるので、読んで笑ってください。