Isidora’s Page
古雛の家

       ●私的批評論●           2003年1月7日

 批評という言葉には共通理解がないと私は思っているが、ここでは書かれたもの(書物や論文や作品)の評価に関わる言説というふうに捉えておく。書評は基本的に読者に向けて書かれるものであり、作品内容を紹介するという場面ではとても制約の多いものだとすると、批評には制約がなく、内容に踏み込んで具体的な指摘をしつつ、その文章の相対的な位置を示すことができる。その本を読みそうな読書人を読者として想定しておらず、その本の批評を読みたいという特殊な読者のために、つまりは特に読者を想定することなく書かれている。批評はしかし評論ではないので、作品をダシにして言いたいことを言うわけではなく、あくまでもその作品について語るものだと思う。批評は、ある意味では商売ではない。もしくは商売として成り立たない。つまり需要が無いものではなかろうか。
 例えばここで、ミステリの批評家というたいへんにわかりやすいものを考えてみよう。ミステリでは、その作品を評価するときに、当然トリックとか伏線、犯人の動機に触れないわけにはいかない。もしも書評をするとしたら、これは言ってはいけない、というラインが絶対的にあり、価値判断をどのように下したかを具体的に示すことは決して出来ない。というよりもしてはならない。しかし、批評をするときにはそれが必要である。最近は、文庫のあとがきでさえ「トリックに触れています」形式が多くなって、あたかも批評が成立しているが如くである。しかし文庫の後書きは、所詮、提灯持ちである。たとえば、「今度の作品は、著者の作品の中で一番の愚作で、全体のレヴェルから見ても平均を上回っているとは思えない、なぜならこのトリックはあまりにも古い手だし、サスペンスという点から見てもいまいちだ」などと思った場合にも、決してそれを書くことはできないからである。もちろん良い作品もあって、本音で書ける場合もあるだろう。しかしそれは幸運な例外に過ぎない。
 そして本音で書けない場合、結局それは批評ではない。
 また読者も、もし未読の読者なら、トリックや犯人について書いてある批評は読みたくないだろう。もしも読んでおもしろかったなら、たいていの場合は、褒めてある批評が読みたいものではないか。たぶん、自分がおもしろいと思ったものをつまらないとけなされたら、バカにされたような気がすると思う。また、いまいちだった、つまらなかった、と思う場合は、自分の考えを追認してくれるような、批判的な批評が読みたいだろう。合理的で適正な、ミステリ史を念頭に置いた評価なんてものは、読者は誰も求めてはいないのだ。
 そして批評を掲載するメディアも、新聞のように大きいものは、基本的に批判を好まない。褒めておけば、広告をくれる出版社にも、何か書いてもらうことになるかもしれない著者にも、そしてたいていの読者にもさしさわりがないからである。一般の雑誌は世間で評判になっているものを取り上げればよいという傾向がある。残るのは専門誌だけだが、専門誌のミステリ批評は、ミステリ作家の目には最も触れやすいため、出版社も批評家もそれほど大胆にはなれないのではあるまいか。だいいち、専門誌を出すところは、ミステリ出版社でもあるから、その社の本をきちんと評価するなどということは、会社にとっては迷惑このうえない場合が多々あるだろう。
 簡単に言って、文芸の業界はたいへんに狭い。ミステリ業界と言ったらさらに狭く、批評家はもしもプロになれるほどなら、作家とも知り合いになっている。作家が知人友人、という状態で、批評をするのはつらい。本当に率直になったら、友だちではいられまい。また、そういう率直さは、日本では、メディアもあまり好まぬものだ。歯に衣着せぬ批評が売り、などと言われている場合も、キャラクターの過激さ、威勢の良さやケンカっぷりの良さなどが受けているに過ぎない場合がほとんどで、別に批評眼の正当さが高く評価されているわけではないのだ。道化芸のようなものか。
 きちんとした批評にはどうにも居場所がない。
 例えば、ミステリの批評家は、誰よりもミステリをたくさん読んでいるだろう。ミステリの歴史に詳しく、ミステリ文学史をよく学んでもいるだろう。トリックにも精通しているに違いない。そしてたぶん、ミステリを誰にも劣らず愛している。自分はこういうミステリが好きだ、という嗜好もかなりはっきり把握しているだろう。彼女の批評は、だからこそ客観性が高く、適正なものになる可能性が高い。同時に彼女は、ミステリに甘くもあり、ここは救えるから救ってしまえと思う。一方、ミステリの理想は高い高いところにあるから、これもダメあれもダメとも思う。そのバランスで、良い書評を書くことはできるかも知れない。しかし、彼女が真剣に批評をしたいと思ったとき、公のメディアでそれが出来るだろうか。
 ミステリだけてはなく、いわゆる純文学でもSFでも時代小説でも、状況は変わらない。本を選ぶときの手助けになる書評は求めているかもしれないが、誰も批評は求めていない。作家はもちろんのこと、メディアも読者も。そのように批評は無理でも、評論だったらできる。作品の根源的な価値には触れず、おもしろいところや良いところだけをすくって書けるからだ。
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 本を評価すると言っても、純粋に客観的な評価があり得ない以上、客観の振りをして作品に優劣をつけるのは、似非批評ではないかという意見もあるにちがいない。ある程度のアバウトさは避けられないのは確かだが、純粋客観ではないことが即主観だということにはならない。厳密すぎることを求めなければ、文学史を背景とすることで、妥当な評価判断は下せるものだ。現在では、文学の正典といった考え方はなくなって、規範はないという考え方が浸透しているかもしれない。文学史もまたいつでも書き換え可能だし、絶対的な価値はないのも当たり前という状況だ。しかし、現実には規範もあるし、また、これまでの文学的営為の積み重ねが消え去るわけではないのだから、それらを無視して批評することはできない。
 批評家の客観性を支えるのは、まず、文学史的パースペクティヴのもとでどれだけ読んでいるか、ということだ。それも当然、自分の趣味嗜好にあったものだけを読んでいたのではダメで、さまざまなジャンルの多くの作品を読んで、しかも文学はこのように生れて発展してきて、このように時代の影響を受け……といったことをある程度理解したうえで、初めてある程度の客観性が保証される。
 それでも個人の文学観は容易には動かしがたいので、その点からは批評の不確かさが明らかになる。例えば、ミステリで雑駁に考えてみると、トリック至上主義というか、驚くような新規なトリックが欲しいということを第一義に考える人と、まずプロットが大事、伏線には気をつけて欲しいという人、犯人の動機など心理がそれらしく描かれているかが重要だと考える人、などと分かれる。それらをすべて加味して判断するのはまちがいないとしても、どのように評価の上でバランスを取るかについては恣意的なものにならざるを得ないから、正確無比な批評はしがたいわけだ。だが、まったくの中立的立場などはあり得ない。生きている時代を誰も超越できないし、生まれ育った環境(これまでの読書体験も含む)の影響を受けずにいられるわけではない。だいたいそれではなんら言うべきミステリ観を持っているということにはならなくて、批評をしようという動機すら曖昧になってしまうだろう。
 小説家とは違って、批評家は〈寄生人種〉だと思われていて、それは18世紀ぐらいから変わっていないと思うが、立場そのものは昔と違って大変に弱くなっている。万が一文学史に照らしてシビアーな批評をしてしまえば、友達はなくすし、出版社からは声が掛からないし、批評家としては生きていけない、というふうになってしまうのではないだろうか。私はやったことはないから、本当のところはわからない。だが、最近の、作品への評価が甘い傾向を見ていると、そうとしか思えない。専業批評家は、たとえ本人はきちんとした批評をしたいと思っていても、ままならないということも大いにあるのだろう。生業は別に持って、それとは関係なく批評をやるということも考えられるが、批評家は、上記のように考えると、結構たいへんな仕事なので、片手間にやると言っても限度がある。大学の文学の先生というのが理想的かもしれない。とはいえ、メディアもそれを好まないとすると、その批評行為はあくまでもプライヴェートなものにとどまるのではないかとも思われる。
 偉そうに文学史的背景とか何とか言っても、最終的な評価は、ネットの一般の読書家による評価とそんなに変わらなかったりするじゃないか、と言われそうだ。まあそういうこともあるかもしれなくて、趣味の合う人の読書日記ページを見つければ、変な書評を読むよりもずっと頼りなるのは確かだろう。一般人にはしがらみはないから、駄作を駄作と言えるしね。
 批評は一種の特技ではあるのかもしれない。だが、要するに、今の時代、おもしろきゃいいじゃん、みたいな時代、一方ではしがらみのために本音も自由に言えないような時代には、必要とされることもない存在であるのだと思う。