Isidora’s Page
古雛の家

       ●評価すること●           (2004年2月7日)

 去年の夏に出た『世界と日本のアニメーションベスト150』(ふゅーじょんぷろだくと)を購入した。アニメーション作家を中心に138人のアニメ関係者にベスト・アニメ20のアンケートを実施し、それを得点化してベスト150を決定している。なんとノルシュテインの「霧に包まれたハリネズミ」がぶっちぎりの一位。次いで三位以下を大きく引き離して同じくノルシュテインの「話の話」、三位、四位、五位が「ファンタジア」「木を植えた男」「やぶにらみの暴君」で、わりと拮抗している。
 一覧して、えーっ?!という感じ。SFMが究極のベストSFで一位が『夏への扉』と『果てしなき流れの果てに』になったときのような気分。素人が選ぶんじゃないんだからさ、かりにもプロ(といっても評論のプロじゃないけど)がこの選択で良いのか?……。
 日本ではノルシュテインは神格化され過ぎなのではないだろうか。ノルシュテインは日本が好きで、アニドウの並木氏の言によれば「ほとんど阿佐谷に住んでいるんじゃないか」というくらいなので、作品もよく知られているし(テレビにだって出演したことがある)、日本人の受けは良いだろうとは思うけど、別にぶっちぎりの一位でなくたって。結局、みんながその存在を認めざるを得ないほどノルシュテインの技法や表現はユニークだということなのだろうか。しかも作品数が少ないから、ベストに選ぶなら、まず上の二つに絞られる。みんなが20位以内のどこかで挙げれば高得点が取れる、そんな仕掛けか。
 このベスト150というのは、順位をつけているから奇妙な感じがするので、それを取り払い、さらに監督でまとめれば、それなりに世界のアニメの代表作は網羅できているという感じがすると思う。私の好きなポヤールもレン・ライも、あるいはガリバル・ディンだって入っていないが、こういう形式ではそれは無理か。925ほど作品が上がっているので、その中にはちゃんと含まれている。150位以内で知らない作品はなかったが(観ていないものはあった)、925の中にはさすがに観ていないどころか知らない作家の知らない作品があり、それだけでもこの本には価値があると思った。
 ムックとして、ただのベスト・アニメの羅列じゃ面白くないから、こういう順位形にする、という編集部のやり方も、編集者としてはよく理解出来る。角胴氏らの座談会による順位への批評もついていて、この順位を相対化するように努めている。だから、この本自体を悪いとは思わない。でも、やっぱり、こういう結果は、往々にして独り歩きするものだし、神格化を助長するように思われてならない。もちろんアニメの評価なんかはどうでもいいものだ。ノルシュテインが必要以上に持ち上げられても大勢に影響はあるまい。だが、やはり、何となく気になるのである。
 前にも書いたが、評価は固定されていくという傾向がある。一旦固まったものを解きほぐせるのは時間だけだ。こんなふうに、今、祭り上げられたものは、しばらくその地位を降りない。時として歴史的傑作になってしまったりもする。そして固定化した評価は、先入主を抱かせるため、作品を素直に味わう機会を観る人から奪う。というよりも、世間の人が、このような評価を目にした後に作品を観て、本当はどう感じたかもよく吟味できないままで素晴らしいと思い込んだり、よくはわからないけどこういうのがすごいんだと思ってむやみに感激したりするのが、見苦しくていやななのだ。
 本来私は、固定化した評価、つまり既成の文学史を嫌って、幻想文学という世界に入っていったはずなのだ。だが、現在のように、歴史的価値がまったく無視されるようになってしまうと、それはまたそれで居心地が悪い。そこでは、誰かカリスマが祭り上げれば、根拠も何も持たないつまらない作品が、傑作としてまかり通ってしまうという現実があるからだ。どっちにしろ、先入観=外部情報の方が、自分自身の感覚よりも信じられているということではないか。信ずるに足る感覚を持つためには、経験とその内省が必要だが、たぶん、そういったものを蓄積することは、現代では軽んじられているんだろう。
 アンケートの中では古川タクが順位づけには興味はない、アニメはナラティヴなものとノンナラティヴなもの、面白いものと面白くないもの、長篇と短篇があるだけだと言っているのがいかにも作家らしい意見だと思った。面白い面白くないは主観だから、その主観を訊いているのに、こういう答えをするのだ。いっぱい面白いものはあるから答えたくないと言ったほうが素直だが、こういうところも古川タクらしさなのかな。私はベスト20に彼の作品を入れるかどうかわからないけど、面白いとは思う。
 面白い面白くないと好き嫌いはどう違うのかという話は前にも「大火通信」でしたことかあるのだけれど、面白いものは理性的な判断を伴うのに対して、好きなものは思考とは関係なく、絶対的と言っても良いほどに好きなのであり、批評的なあらゆることはあくまでも後付けであるというところが異なると思う。私にとってどうでも良い作品でも面白く観ることは可能だ。ほとんどつまらない作品であっても、どこかしら面白いと思って観ることが可能なのである。しかし、それを好きとは決して言わない。好きだというのは、私個人の内部ではかなり最上級の評価になる。しかしそれは、客観性のある作品の評価(客観は不可能だというつまらない哲学的議論は止しにしていただこう)とはズレる場合もある。好きの度合が高くなればなるほど、判断が危うくなる。
 アニメの場合は、アニメの批評家たらんとしているわけではないので、この作品の完成度はどうだとか、ここは新しいとか古いとか、テーマがどうだこうだとかいったことを、吟味しながら観なくてもかまわないのがよい。まあ、そういうことは自然と思いながら観てしまうものなので、より正確には、そうして観ている自分を分析しなくてもかまわないということだ。つまり、自分がそう判断したことに対して、客観的な妥当性があるかどうか、アニメの歴史的な流れや技術的な諸問題への理解、製作者の位置や特色、先人によるさまざまなアニメ評価といったアニメに関するあらゆる知識を総動員して、再吟味しなくても良い。これこそが仕事ではなくて、趣味だということなのだ。
 小説を読むときは、常に自分が抱いた感想なり判断なりを、再検証して、例えば、第三者からその判断についての「証拠」のようなものを求められたとき、提出できるように理論構築しておかねばならない。理論構築そのものが恣意的だと言えるだろうが、批判的な他者を自分の中に用意することで恣意性は減ずる。だいたい、強引な論理の時には、自分で恣意的な論理だとわかるものだ(と思う)。そういうことが出来ない、内省度の薄い人は、本質的に批評家向きではない。私がいつも言っている「評論家」向きなのである。
 いつも同じ話ばかりしているようなので、アニメの話に戻す。
 私が好きなアニメ作品の一つに、ポヤールの「ライオンと歌」という短篇の人形アニメがある。私が生まれた年に作られた作品で、15分程度のものだ。芸人が寂しい砂漠で動物たちに一人二役のダンスと音楽を披露するというもので、一人二役の不思議さが、いかにも人形アニメらしい表現で、みごとに美しく描かれている。音楽もすばらしいし、デザイン化されている人やライオンもすばらしい。話の展開は他愛ないが、無情と切なさに満ち、死と生の意味を考えさせもする。この作品は、アニメでしか表現できないものを持っている。ファンタジーとも共通する象徴性である。リアルには描けないことを、象徴的な形で描き出しているのだ。同じことを実写ではできない。同じテーマや内容ということでするにしても、もっと別の形にせねばなるまい。アニメでしか表現できない、何か独特のものがあるという点が、アニメ作品として私が愛する由縁である。
 ポヤールの「ナイトエンジェル」も良い作品だと思うが、これは、人間の演技でも不可能ではない世界だ。もちろんポヤール独自の表現を用い、人形アニメならではの作品に仕上がっているのだが、実写ヴァージョンでも、美しい作品を作り上げることが可能だったろう。そして、この作品ならば、分析的に評価することもできそうな気がする。したくはないけど。
 だが、「ライオンと歌」を観たときの、胸がつぶれるような感じを分析できるとは思わないし、その感じを言葉で伝えられるとも思わない。観てね、とは言いたいけれど、それを観た人が私と同じように感じるとは限らないし、感動を共有できるとも思わない。知人の中では渡電くんがこの作品を観ていて、やはりかなり良い作品だとは言っている。でも、同じような感動をもって観ているのかどうかまではよくわからない。
 実のところ、こういうものの良さがわからない人間と映画の話ができるか、などと考えたりするのであるが、それは所詮、趣味の領域の話なので、そのことをもって、こいつはアニメ(映像作品)の見方もわからないやつ、と考えたりはしない。立っている場所が違うのだ。
 では、趣味ではない小説の場合はどうなるのか。まあ似たり寄ったりではあるのだが、少し違うところもある。というわけで、次にはその話をしよう。