Isidora’s Page
古雛の家

 ●親馬鹿ちゃんりん蕎麦屋の風鈴●         2004年2月6日 

 先日、金原瑞人氏のお嬢さんが芥川賞を獲得した。
 作品を読んではいなかったけれども、「あの人のお嬢さんならさぞかししっかりとした文章を書くのだろう、娘の文章を添削するとか、きちんと面倒を見ているに違いないから」と言ったところ、礒崎編集長に、「そんなことはきっとしていないと思いますよ、石堂さんのような親馬鹿ばかりじゃないんですから」と言われてしまった。
 うーん、そうだろうか。たとえ添削をするほどの親馬鹿じゃなくても、たぶん金原さんだって大いに親馬鹿なのではないだろうか。つまり、さすがおれの娘、などと今、思っているのでは?(そんなことはない?) ほとんどの親は、やっぱり馬鹿だろう。

 二人の子供たちが高校一年と三年、16歳と18歳になり、そろそろ精神的に自立を始めようかという年頃になってようやく、「これは私の育てた子だ」と自覚するようになった。成長した子供に対する責任を、今になって感じ始めたのだ。
 子育ては多くの人間が体験することで、ごく当たり前のことと考えられているし、大げさに問題にするようなことではないようだが、現実的には、子供を育てるということは、これからの世界を決めていくということでもある。教育が世界中で問題にされる由縁である。殊に日本のような経済的に恵まれた社会では、親の力は相対的に大きくなる。
 だが、今ここで書きたいと思ったのは、そこまで大きな話でもない。子供は親の鏡だと言うけれど、子供は親の歪んだ鏡像なのだということだ。また、親の思った通りには子供はまず育たないが、つまり親にとっての理想が実現している子供ほとんど存在しないが、親が育てたように子供は育つ、要するにそれなりに育つ、ということだ。
 もちろん幼稚園・学校を含めて社会環境も影響するが、それは先にも言ったように、今の日本は比較的恵まれているので、経験的にみても、親の意識次第でかなり変わるだろうと思う。
 私にしても親の役割は大事だという自覚が無いわけではなかったが、それでも、かなり無自覚な子育てをしてきたと思う。そのことを否定的に考えているわけではないし、良いことだと思ってもいない。というよりも、いろいろな家庭環境の中で雑多な子供が育つのだから、緻密だろうが雑駁だろうが、どんな子育て(虐待の揚げ句に殺してしまうようなのは子育てとは言わないと私は考える)も価値判断の対象とはならないと考える。
 ただ、そう育てたように、子供たちは育ったのである。子供らを見ていると、まさに、私が育てた子供なのだ、と思うのだ。
 よく親たちは「一人で大きくなったような顔をして」と言う。私自身のことを考えても、親の影響下に育ったことはある程度認めるにしても、現在の自分を作ってきたのは、私自身であると確信している。私の親は亡くなって久しいので、彼女に私のことをどのように考えているのか確かめてみることは出来ないのが残念だが、親にとっては、いつまでも「わがままに育ててしまったヒステリーの娘」であったのではないだろうか。私の子供たちも一人で大きくなったような顔を、時々している。やがてさらに精神的に成長して、経済的にも自立すれば、自分を作ったのは自分だと感じるようになるだろう。(このとき、自我形成における社会的要因等は問題とならない。そうした影響をどう自覚して受け止めていくかも、自分自身が対処していくべきことだからである。)だが、私は自立した彼らも、自分が育てた子供たちだと意識せずにはいられないように思う。
 これは要するに、子供の責任を親は終生負ってしまうということなのだ。「親の顔が見たい」とは、しつけの悪い未成年の子供に対してのみ使われる。大人になったら、当たり前のことだが、親は関係ないのである。自立した人間は自分のなすことに自分自身が責任を負うのであって、親が責任を問われることはない。それが世間的な認知、常識というものだろう。しかし、親の感覚は常識を超える。自分の子供のすることはいつまでも自分に返ってくることであって、自分は関係ないとは言えないのだ。
 例えば、成人した子供が犯罪を犯したとしたら、それに責任を感じない親は少ないのではないか。具体的にこのような育て方が悪かったとかいうことではなく、どのようにしろそれを生み育てた存在として、責任を負うのだ。子供の方は親に対してそういう感覚を持つことはない。順繰りにそういう関係となっているので、私も子供の立場ならそうなるのである。
 子供はいつか親離れをする。世間的には経済的な独立を果たすとき。自分の家庭を作るとき。精神的には、この世に生きている責任をすべて自分自身で引き受ける確かな覚悟の出来たとき。あるいは自分を作ったのは自分だという確信の出来たとき。
 だが親は子離れするものだろうか? 子離れとは、国語辞典に拠れば、親離れの類推から出来た言葉であって、親の庇護下に子供を置かないことだという。とすれば、経済的に子供の面倒を見ている親は、子離れしていないのだ。(家を継ぐなどという行為はすべて親離れしていないとも考え得る。だが、話が複雑になるので、面倒なことを考えるのは止そう。)精神的な面では、親が子の庇護者であることを抛棄することということになるが……そんなことは果たして可能なのだろうか。
 こんなことを書いていると、「子供を溺愛している親馬鹿の石堂藍の自己弁護」と言って嘲られるのであるが、どんなにバカにされても、可愛いものは可愛い。出来の悪いところには目をつぶって、何とまあ素晴しい子だろう、などと思っていたいのである(このような精神構造を親馬鹿と呼ぶわけだが)。
 所詮、人間などというものは大した生き物ではない。人間の歴史は醜悪そのものだし、マスとしての人間は地球の害悪だし、個々の人間も欠点だらけである。私もまたそのような人間の一人であって、自分を無条件に肯定できようはずもない。子供たちも、冷静に考えれば、そのような人間の一人である。自分を無条件で肯定できはしないだろう。愚かな親ぐらいはせめて、無条件で子供を肯定してやってもよかろう。とやっぱり自己弁護にかまけてしまうのであった。


*親馬鹿ちゃんりんというのは「おやまかちゃんりん」という歌のもじりなんだそうだ。しかし、この歌を私は知らない。どんな意味だかよくわからないまま、調子がいいからそう言うのだろうというぐらいのことで、「親馬鹿ちゃんりん」と言ってきたのである。いやはや。