Isidora’s Page
古雛の家

       ●やおら●           2004年2月7日

 言葉は生きている。発された言葉が独り歩きをするという意味もあるが、年月を経ると変化するという意味もある。
 この数年、あるいは十数年かも知れないが、気になってならないのは、「やおら」という言葉である。おもむろに、そろそろと、しずかに、そっと、時によっては、徐々に、というような意味で使われる古語である。平安時代から使用例があり、今でも文章中では使われることがあるのだが、この言葉は、「そろそろと、そっと」という意味では使われなくなっている。むしろ「唐突に、いきなり、急に」と反対の意味で使われる。なぜそうなったのかはわからないが、ある調査によれば、二十代、三十代では六割以上が、四十代でも五割以上が、「唐突に」という意味で使っているという。五十代でも半々で、六十代に至っても三割は反対の意味にとらえているというから、総数から考えたら、既に意味の逆転した言葉と言ってしまっても良いだろう。日本語にはほかにもそういう例があるので、それを「間違った日本語」として単純に否定することには意味がない。
 だが、しかし、確かに大方の人にとって意味が逆転した言葉ではあっても、文筆家にとってはどうなのだろうか。本をよく読む人、またものを書く人は、言葉に関する知識において、一般人と同等に考えてよいものだろうか。こうした世界に属する人々の統計を取ってみると、「やおら」についてもまた違った統計結果が現れるかも知れない(「やおら」に限らず、いろいろな言葉の意味についてそれが言えるにちがいないと思う)。では、「やおら」という語が文章の中に現れたとき、読者としてはどのように読めば良いのだろうか。考えようによっては、一般人でもまだ三割から四割は「やおら」の古来からついこのあいだまで使われてきた意味で取っているのである。文筆をなりわいとする人なら、半分以上はもともとの意味で使っているというようなことはないのだろうか? まあたぶんないだろうな。須永朝彦さんに御意見をうかがったところ、古典の素養の無い方はみなさん新しい意味でお使いでしょ、ということだった。ちなみに山尾悠子『ラピスラズリ』にも「やおら」は出て来るが、これは古来の意味と思われる。冲方丁『マルドゥック・スクランブル』にも出て来たが、これは確実に新しい意味だった。倉阪鬼一郎も多用するのだが、たぶんこれは新しい意味なんだろうな……彼のは曖昧なこともある。
 文脈に添って読んでも、果たしてどちらなのかわからない、ということはしばしば起きる。どちらでも理解が可能な動作につけられる言葉だから。たぶん「急に」という意味だろうと思うが、もしかすると……などと考えるのは、面倒なものだ。
 間違いだということがすぐわかる言葉は、まだましだ。執筆者を日本語を知らない無知な人間だと思えば良いだけのことだ。しかし、変化しつつあることがはっきりとしている「やおら」のような言葉は、まったく始末に悪い。
 ところで、このページを読んで下さったあなたは、「やおら」をどの意味でお使いですか?