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藍の細道

●川嵜克哲『夢の分析』●      (2005年2月2日)

『夢の分析』川嵜克哲著(講談社選書メチエ)を読んだ。
 古神道の家系に生まれたシャマン体質の女性の夢の分析をしながら、近代(的病理)を超える心性を獲得するのを夢見る本。内容はまあどうでもいいです。ただ、本書を読んで気付いたことがあったので、今更、とか、そんなことも知らなかったのか、と言われるのを覚悟で書く。
 精神分析とかセラピーとかする人たちが、「夢」を分析するとかいう時の「夢」というのは、「夢の語り」「夢の記述」ということだったのだ。夢は伝えるために語らねばならないから、語った夢になるんだろうと単純に考えていたのだが、夢をどのように語っているかということも分析対象であって、つまりは「見た夢」が問題にされているのではなく、「語られた夢」が問題にされているということなのだ。
 なるほど、それで夢を分析するということには意味があるのか。夢は圧倒的に視覚情報が多いので、夢を記述しようとすると、膨大な手間暇がかかる。だから、夢の記述は、いつだって夢の一部、見た夢のごく一部であるはずの覚えている部分のさらに一部であって、だからこそ、語り手の無意識みたいなものが現われるのだ。もちろん、それを聞く人は、実際の夢を知らないから、何が略されているのかはわからない。しかし、少なくとも、見た夢をどう把握し、何を重要視しているのかというパターンは理解できる。だから分析が成り立つのだろう。
 とするとそれは、文学作品を精神分析的に分析するという現代の批評の一つの形を、非常に強く支持するということになる。ただし、パターンというものが完全に調べ尽されていて、説得力を持つもので、妥当だと認められれば、であるが。例えば、本書では「私はいかだの上に乗り、海を漂っている。」と「海。広い海だ。いかだの上に私はいるようだ」という表現の差異に注目し、前者は自己というものがある近代的な感覚、後者は外界の中に自分が溶け込んでいる古代的な感覚だと言う。確かに表現上は、前者の堅さに対して、後者のゆるくほどけていく感じというのがある。しかしそれを近代・古代と決めつけられてもかなわない。こうした批評はおのずと、きわめて図式的にならざるを得ないし、その図式が多数派の読者の共感を得なければ、まったく成立しないと言ってもよい。
 夢の分析については、フロイト派なりなんなりの蓄積があるのだろう。本書にはトイレで用が足せる―個室―近代的自我というような図式も紹介されているが、私のようにやたらめったらにいろんな夢を見る人間は、そうですか、としか言いようがない。トイレにだっていろいろあるのである。
 「文学を読む」を書いた時に多くの参考書を読んでいて思ったのは、記憶とか言語とかについて研究している人たちは、記憶や言語に豊かなものを持ってない人たちなんじゃないかということだった。唯一チョムスキーだけが、言語そのもののイメージの広がりについて語っていて、それでとても信用できる感じがしたのだったが、多くの言語を問題とする人たちは、言語が喚起する種々雑多なイメージについては、問題にしていなかった。言語哲学の本などを読むと、言語のことが何にもわかっていない、と感じざるを得なかった。記憶にしても、イメージのことを扱う本もいろいろとあったけれど、ただ言語的にしかとらえていないような偏頗なものも存在した。そんな記憶の本なんて、何の役に立つだろうか? 夢にしても、夢の分析などと言っている人は(夢そのもの、明晰夢などの研究はまた別だろうと思う)、夢なんてあんまり見ない(覚えてない?)んじゃないかと思ってしまう。滅多に夢を見ない(覚えていない)人にとって、たまに見る夢の経験は強烈だろうが、そういう人と、夢を見るのは当たり前の自分のような人間とでは、夢に対する感覚がずいぶんと違うと思う。
 脳研究の方でも、夢は記憶するものではないので、できても一晩の中で最新の一つだけというような「科学的説」が唱えられることもある。いくつもの独立したように思える夢は、じゃあ一つの眠りの区切りの中で見た夢だったのか。こんな、絶対に検証できない(夢の確認のために途中で起こしたのでは実験の意味をなさない)ことを言われても困るのである。しかし、いくつも夢を見ているような人ならば、こういう学説を出してはこないように思う。すべての研究というものも、そのように個人的な体質に左右されるところ大なのではないだろうか、と考える。
 そうして、私が属していると思われる文学の世界でも、それは同じなのだろうと思うのであった。

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