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藍の細道

●歯と記憶/歯と自我――――津原泰水「黄昏抜歯」と川上未映子の「わたくし率イン歯ー、または世界」をめぐって●      (2010年11月30日)

 

 某日、2ちゃんの津原泰水による川上未映子批判をまとめたサイトで次のような記述を見た。

〈「イン歯ー」は「黄昏抜歯」とアイディア、エピソード、物語の流れなどいくつもの類似点がみられ、偶然とするには不自然〉

 これは津原泰水の「黄昏抜歯」(02年3月初出、原題「かわたれ抜歯」)と川上未映子の「わたくし率イン歯ー、または世界」(07年10月『早稲田文学』に初出)の類似に注目したもので、要するに作品の盗用を疑うということである。
 このような指摘は、盗用を疑われた川上未映子はもちろんのこと、津原泰水にとってもマイナスである。客観的に見て、両作は似た作品とは言いがたいからである。津原側からこの件を指摘すれば、言いがかりだと川上側は言うことができる。また、どちらかしか読んでいない読者は、両作品が似たような作品だと思い込んでしまうかもしれない。いずれにせよ、津原にとっては不幸としか言いようがない。
 そこで、ここでは、両者がどのように〈類似〉しているのか、また両者がどう違うのか、ということをめぐって、簡単な分析を試みたい。
 作品はあくまで客観的に読んで判断をしたいと思うが、力の足りないところもあるだろう。私は「黄昏抜歯」を含む『綺譚集』の文庫版の解説も書かせてもらっており、津原作品にはそれなりに詳しいが、川上作品については、本作の載る単行本と『乳と卵』を読んだことがあるだけで、よく理解しているとは言い難いからだ。
また、当然のことながら、ねたばれを含んでいる。どちらもどんでん返し風の展開なので、読書の楽しみを味わいたい方は、直接原典にあたられたい。自分で読めば、類似度と相違がわかるはずだ。


 まずは「黄昏抜歯」と「わたくし率イン歯ー、あるいは世界」のあらすじをたどってみる。「黄昏抜歯」は30枚くらいの短編で、「わたくし率」は100枚ほどの中編である。

 陶子は口の中が激しく痛んでいた。だが、このところ関係がこじれてきている婚約者との会食の約束があり、それをすっぽかすわけにはいかなかった。店には行ったものの、結局、口中が痛くて満足に食べることが出来ず、婚約者を不機嫌にさせただけだった。翌日、陶子はその夜タクシーに置き忘れた携帯電話を受け取りに行きがてら、自宅からは遠く離れた町で歯医者にかかる。口中の痛みは親知らずの歯肉炎だということで、親知らずを抜くことになった。麻酔をかけるのに舌が邪魔にならないように、反対側の歯に舌を這わせた時、陶子は歯をなめる癖のことを思い出す。そして歯の中に籠められている記憶のことも。かつて、婚約者には恋人がいたが、彼を奪うために、陶子は未必の故意によって彼女を植物人間にすることに成功したのだ。歯の感触と共に記憶を蘇らせた陶子は、その歯を抜いて、と医者に頼む。


 〈わたし〉は幼い頃から歯を磨いたことがないが、健康この上ない歯を持っている。そして〈わたし〉の本質的な部分である〈私〉は歯に詰まっている、と考えている。デパートで化粧品の売り子をしていた〈わたし〉は、歯医者の助手求む(経験不問)という求人広告を見て、面接に行き、歯医者に勤め始める。〈わたし〉は中学時代に知り合った青木と交際しているが、彼は忙しくて、会えない日が続いていた。〈わたし〉は青木と電話で話したり手紙を出したりして会いたい気持ちをなだめている。そして歯の詰め物が取れたという青木に、私の勤める歯医者においで、と誘うのだった。一方、〈わたし〉は、未だ存在しない未来の我が子に語りかける形式の日記をつけたりもしている。歯医者では、恐ろしい三年子(みねこ)という見習い医師に難癖をつけられたりしているが、ともかくも〈わたし〉は歯医者の助手の仕事が気に入っており、三年子の脅威にも負けているばかりではない。そうこうするうち、いきなり青木が歯医者に治療に訪れる。久方ぶりに青木を見た〈わたし〉は、外へ出てはならないという三年子の忠告を振り切って、思わず青木の後を追ってしまう。たどりついた青木のアパートには若い女がいて、青木に〈わたし〉が誰かを詰問する。すると青木は、中学で一緒だった子だと思うけど、名前もよく覚えていない、と言う。青木との関係は〈わたし〉の妄想だったのだ(あるいは〈わたし〉の語ることはすべてが妄想だったのかもしれない)。悲惨ないじめを受けていた中学時代、青木は〈わたし〉と普通に話をしてくれた。そして『雪国』の冒頭の文章には主語がない、と語って〈わたし〉に強い印象を与えていたのだった。自己の本質=〈私〉について語り合おうと青木に迫る〈わたし〉だったが、女に罵り倒され、追い出されてしまう。〈わたし〉はひどく傷つき、胸が痛む。本当なら、痛みはすべて奥歯に集まるはずだのに、心が痛んでしまう。〈わたし〉は、遠くの町の歯医者に行って、〈私〉であるところの奥歯を抜いてもらう。



 この梗概は、外面的なところだけをざっとまとめたものだが、両者の「物語の流れが似ている」とはとても言えないだろう。実際に読んでみればすぐにわかることだが、まったく違う物語なのである。
 「黄昏抜歯」は男に対する複雑な女心を描いており、緻密な構成を持った、非常に洗練された作品である。うまくいかない男との交際が歯の痛みを伴奏にして語られていき、最後の方でようやく、その裏に恋敵の謀殺という犯罪があったことが明かされる。この作品は、幻想小説ではなく、どちらかといえばミステリに属しているが、やはりいきなり別の場所へ引きずり込んでしまう津原ならではの感覚がある。そしてまた、津原の短篇としてはわかりやすく、凄惨な描写の多い『綺譚集』の中では、誰にでもすっと入っていける作品ではなかいと思う。
 「わたくし率」は妄想小説で、最終的にどこからどこまでが妄想なのかよくわからない作品になっている。青木の女の罵り言葉の中にある、〈わたし〉の異様な外見がその通りならば、〈わたし〉はおそらく引きこもりかなにかで、すべてが妄想だとも読める。また、その妄想を本気で信じているわけではないのは、青木に対して中学時代の思い出を持ち出してそれを認めよ、と迫るところで明らかである。詰まるところ〈わたし〉は、空想の中に閉じこもって自分をごまかしつつ、時にストーカーをする女なのだ。この小説は、いじめ体験から抜けられない孤独な女性が、〈私〉という意識をもてあましてあがく話、ということになるだろう。テーマは哲学的な「自我」のようにも見えるが、この部分の突き詰めは甘く、自意識への忌避感覚という軽い程度のものでしかない。按ずるに、テーマは孤立の哀しみであろう。構成は、こうした妄想と現実の境目を描く小説としては、非常にルーズで、無駄が多い。女と妄想を描いた先駆的な作品の一つ「不意の声」(河野多恵子)などと読み比べてみれば、その弛緩ぶりがはっきりとする。
 上で見たように、「黄昏抜歯」と「わたくし率」は、扱っているテーマも世界も違う。もちろん文体もまったく異なる。川上のルーズさと津原の洗練・緻密さとは対極にあるとさえ言える。だが、共通するところはある。それは、モチーフが「歯」で、歯が物語の推進力となっていること。そして、作品の中で決定的に重要なアイディアが、自分の一部が歯に存在する、だからその歯を抜いてしまう(自己の一部を消去する)、というものであることだ。類似点は〈エピソード、物語の流れ〉ではなく、モチーフとそれに関わる重要なアイディアなのだ。ただし、そのありようには違いがある。
 津原の陶子は言う。〈記憶というのは本当は、脳で憶えるものなんかじゃなくて、三十二本の歯にやどっているのだ〉と。陶子にあっては、それぞれの歯がすべて、記憶を宿す物となっている。また、中学生の時に、父親が女を作ったため、母と共に家を追い出された陶子は、虫歯の親しらずを、〈痛いのはここ、痛いのはここ〉と舌先でさわりながら、心の傷から目を背けた経験を持つ。陶子は記憶を歯に委ねたばかりではなく、心の痛みも歯に引き受けてもらったのである。
 川上の〈わたし〉は、記憶などの付属物を除いた、〈わたし〉を〈わたし〉たらしめている本質〈私〉が詰まっているのが奥歯であり、あるいは思考の主体が奥歯である、と言う(このあたりは説明が重ねられるほど曖昧になってゆく)。ともかくも、その〈私〉は誰にも傷つけることができない自分の核だと。〈わたし〉にとっての歯は、三十二本すべての歯ではなく、奥歯だけだ。そして、実は中学時代にずっといじめに遭っていた〈わたし〉は、は誰にも傷つけることのできない〈私〉を入れた奥歯に〈痛みの全部を移動させてぜんぶ閉じ込めて来た〉、歯は痛くなったことがないのだから、痛みをそこに入れてしまえばどこも痛くないはずだ、というふうに自分をごまかしてきたのだ。
 陶子も〈わたし〉も、そのような、自分の代替物としての歯を、抜いてしまおうとする。陶子はたまたま行った遠くの町の歯医者で、忌まわしい記憶を蘇らせて、抜くことを決める。記憶を捨て去るために。一方、〈わたし〉は抜くことに決めてからわざわざ遠くの町の歯医者まで行き、歯医者で過去の真実を思い返しながら、抜歯に臨む。〈私〉を捨て去るために。なお、陶子はたまたま歯医者に行ったため、保険証を携行していないのに対して、〈わたし〉は保険証を持って歯医者に行ったということが律儀にも書かれてある。
 この歯を抜こうとするところ、抜くところは、いずれの作品でも心情的なクライマックスになっている。陶子は歯を抜いてくれたら〈何でもする〉と歯医者に言うのだが、ここのシーンのエロティシズムのせいで、私は解説を書くために再読するまで、陶子と歯医者とが関係を持ったと過って記憶していた(実際には可能性が読み取れるだけ)。一方、〈わたし〉は麻酔をかけずに歯を抜くのだが、抜歯の痛みと共に描かれる〈わたし〉の意識は、やはりクライマックスを形作っている。
 比較からはいささかずれる話だが、〈わたし〉が麻酔をかけずに奥歯を抜こうとするのはなぜなのだろう。歯を抜くことの痛みと、奥歯に詰められている過去の心の痛みとを同一の物とみなし、その過程で〈わたしも私も混ざって〉昇華されるというのが、クライマックスになっているのはわかる。しかしそれは小説的要請というもので、〈わたし〉の内的な動機としては弱い。ここで、〈わたし〉は痛みを自分に取り戻し、過去の記憶と向きあって、それを乗り越えるために肉体的な痛みを必要としたのだろうか? この痛みと自我との関係をめぐっては、作中の説明に矛盾を感じるところもある。上の解説には、歯に〈私〉を詰め、かつ痛みもそこに詰めたと書いたが、これは津原作品との類似を示すためにそうしたわけではなく、作中にそのように書かれているのだ(方言を省いた文章に変換している)。実のところ、これでは、論理が破綻しているのではないだろうか? 決して痛むことのない歯に痛みを隔離する、という発想なのであれば、その歯に本質的な〈私〉を詰めておくには及ぶまい。また逆に、本質的な〈私〉を決して痛むことのない歯だと観ずることで自分を守るということであれば、本質ではない心(胸)に痛みを引き受けてもらえばよいだろう。あるいは、いささか滑稽ではあるが、奥歯と言ったって何本もあるのだから、右下には自我、左上には痛み、の方が安全だ。それとも誰にも傷つけられない〈私〉であるから、わざわざ痛みを全部引き受けてもらったのだろうか? まったく奇妙きわまりない。
 ここでさらに要らぬことを付け加えると、歯を抜くことになる歯医者はこの奥歯を〈親知らず〉だと言っている(〈親知らず〉という言葉はこの一箇所だけに出てくる)。全体がどうしようもなく荒唐無稽なので、どうでもいいことかもしれないが、歯医者は麻酔をかけずに親知らずを(いや、とれかけている歯以外ならどれでもだろうが、親知らずのように問題の多い歯は特に)抜くようなことは、絶対にしないだろう。ショック死しかねない。このあたりは鏡花の「外科室」的乗りにも見える。
 ともあれ、このように細部はさまざまに異なっており、両者の発想も完全に同一というわけではない。しかし、モチーフが歯であることは等しく、歯にまつわるアイディアが類似のものであるのは疑えない。

 そして借用をめぐる結論としては、ありきたりに過ぎるが、確かなことは何も言えない、ということになる。モチーフが同じで、それに関わる重要なアイディアが似ていても、文章も物語もテーマも違うのだから。川上未映子は「黄昏抜歯」を読んで、そのアイディアを使わせてもらったのかもしれないし、読んだけれども忘れてしまって無意識に使ってしまったのかもしれない。川上はブログで津原作品のいくつかを読んだことを公言し、また作品を褒めていたこともあるということなので、蓋然性は高いように思われる。しかし、「黄昏抜歯」は読んでいない、という可能性もまた、否定できない。それ以上のことは何一つ言えないし、また川上が読んでいないと言えば、それで終わりになってしまうようなことだ。上で述べたような、歯と痛みに関する不自然さや、〈奥歯〉が〈親知らず〉になってしまったりする唐突さは、傍証にはなるまい。遠くの歯医者へ行くという類似と保険証のある無しのことさらな対比、歯医者の待合室での類似、また〈かちかち〉という奥歯を鳴らす音の類似などにしても、やはり傍証とするには弱い。医者の待合いでの出来事はもともと似たようなものだろうし、〈かちかち〉という音にしても、津原は考えてこの効果音を巧みに使っているが、川上は〈いっつも奥歯を鳴らしてた〉と言いながらも、その音はおざなりにしか使っていない、そして歯を鳴らすときの擬音として〈かちかち〉を使うのはちっとも不自然ではないだろう。そもそも両作は「歯」がモチーフになっているわけだから、歯を磨く磨かない、歯石を取る取らない、歯が生まれつき丈夫、歯の詰め物にトラブルがある等々の歯に関わる事項が似ていたり対照的だったりするのは、ある意味で当たり前なのである。
 むしろ二階堂奥歯の筆名から思いついた、とか川上に言われても私は驚かない。歯が自我だというアイディアが何もないところから生まれたというよりもよほど自然だから。
そして、たとえアイディアを借用していたとしても、まったく別のアプローチによって、別の作品になっているならば、その点をあげつらっても仕方がない、と私は思う。最終的には、それが優れた作品になっているのかどうか、ということが最も重要だと私は考える。
 津原作品にしても、アイディアのみで勝負しているわけではあるまい。あくまでも作品全体として評価されているのだ。たとえ、津原のアイディアで別の作品が書かれるようなことがあっても、津原作品の輝きが失われるわけではない。

 ついでに言っておけば、「わたくし率」は、いろいろなところでオリジナリティというものに乏しいのである。まず、いじめからの逃避が妄想に発展するという道筋も、妄想から現実へのどんでん返しも、今やありふれたものに属するだろう。その明かされ方もどうということはない。(ちなみに、その明かされるシーンでは、メタな視点から〈わたし〉批判が繰り出されるが、そのナマな感じはほとんど読むに耐えず、この部分は、この作品の中でも最悪の部分であろうと思う。)また、おそらく〈わたし〉の脳内産物であろう三年子は、その存在も語り口も笙野頼子作品を若干想起させるところがある。テーマとしても津原作品よりは笙野の前期作品に近い。私は、下降しきった者が上昇へ転ずるという逆転を鮮やかに象徴化した傑作「アケボノノ帯」などを思い出した。もちろん内容的にはまったく違うものだ。また、川上独自のイメージも確かに感じられるところはあって、例えば歯医者の診察台を一枚の舌にたとえているところや、歯医者の診察を口の中に医者の頭が入ってくるようなイメージで捉えられているところなどがそうであると思う。最終的に、「わたくし率」は全体としては川上作品と言えるようなものになっているだろう。
 私は賞関連の事情については不案内だが、そもそも川上はその文体が最も評価されたのではないだろうか? 「乳と卵」は思春期の女性の意識を扱ったものとしては、信じられないくらいの陳腐さであるが、一応、純文学の賞を取っているからには、内容やテーマではなく、文体とその醸し出す雰囲気が評価されたのだと考えるよりほかない。「わたくし率」も、細部のあれこれよりも、全体として評価されたのだろう。私自身は、ここまで無駄に弛緩した川上の文体が良いとは思えないし、変に条理が通らないために読み通すのに多大な苦労を要する小説を評価する、その基準というものがわからないけれども。純文学の文壇は、謎に満ちている。



  アイディアの借用やパスティーシュについて云々することは、現代では厄介きわまりないことである。いったいどこまでが許される行為なのか、明らかな基準がないからだ。私自身、アイディアを借用した作品と関わりがなかったわけではない。『幻想文学』ではパスティーシュ作品に賞を与えてしまったこともあるし、また澁澤龍彦の盗作問題を山下武が指摘して、関連する特集を組んだこともある(『幻想文学』50号《特集◎澁澤龍彦1987~1997》1997年7月)。『幻想文学』の立場は、作品がすべてであり、それがもとの作品と別物になっていれば、また作品それ自体として優れていればかまわない、というものだった。現在の私自身もほぼ同じ立場を踏襲している。従って、たとえ川上未映子がアイディアを借用して作品を書いたとしても、その行為を否定しようとはまったく思わない。ただ、もしも「黄昏抜歯」を読んだことがあるのなら、礼儀として、インスパイアされたとどこかで言っておくべきだった。また、読んだのに忘れてしまって無意識に使ったのなら、指摘されたときにそうと言えば、それで済む話だ。そのように考える。
  そもそも、法律的にはアイディアは保護されない(保護される著作権の対象ではない)。盗作(著作権の侵害)には〈他人の作品をそのまま自分の作品として発表すること〉という明らかな定義があろうが、その余は曖昧なのだから、個々人がそれぞれに判断するほかない。文章の丸写しを部分部分に使うような明らかな剽窃をコラージュだとかサンプリングだとかと開き直る人間もいるし、オマージュとかパスティーシュとか称せば何をやってもいいと考えている者もいる。またこっそりといろいろなものからパクっている者だっている。ずらりと並んだ参考文献の中にはない書物から抜き取りをしている、というようなことは珍しいことではない。あるいは逆に、誰もが知っているはずの有名な文言の引用を効果的に使った、と自負して、特に断りを入れない場合もあるはずだ。この最後の例などは、文学的教養が破壊された現在では、時に滑稽だったり時に悲惨だったりする状況を生み出し得る。
  総じて、パクリ論争は不毛だ。まず、様々なパクリ行為を見分けるのが、非常に難しい。私にしろ、あるいはその他の批評家や編集者にしろ、すべてのテクストを読んで覚えているなどというわけにはまったくいかないのだから、端的にパクリを見つけることが困難である。しかも、これだけテキストが溢れているのだから、たまたま似てしまうことは否応なくあるだろう。偶然と故意との判別は付きがたいことが多い。また、盗用かどうかの決め手は同じ文言の使用率なのだが、それがない場合には、たとえ内容が酷似していたとしても、本人がパクリを認めるのでなければ、手の打ちようもない。
  そんな中で、盗用疑惑が起き、『文藝』の新人賞が取り消される、といった事態が起きた。これはどの程度の盗用なのか、詳細がまったくわからない。新聞の記事に拠れば、〈選考委員から「モチーフは面白いが、なぜ膨らませて展開しないのか」「モチーフの描写が足りないのはおかしいのではないか」という意見が挙がった〉とのことなのだが、その点からしてよくわからない。どうしてそんな作品に賞を与えようとするんだろうか? モチーフとはもともと書き込まれるからモチーフなのだ(モチーフだとわかる、と言うべきか)。それをきちんと描いていないものを授賞対象にすること自体がおかしいだろう。私のモチーフ理解が間違っているのだろうか?
  一方、同じ記事に拠れば、〈高木れい子編集長は「テーマに深くかかわるアイデアを[他者に・筆者注]依拠するのは、作家の態度、姿勢として問題だと考えました」〉と言ったようだ。ここではモチーフではなく、〈テーマに深くかかわるアイデア〉だとしている。では、モチーフではないのだろうか? ともかくも、モチーフであれ、テーマに深く関わるアイデアであれ、それを借用するのが〈作家の態度、姿勢として問題〉なのだ、という見解である。これは、その作品で伝統ある純文学の賞を受賞してデビューしようとしている新人だから、特に問題になっているのだと私は考える。エンターテインメントを長年書いてきた作家が同じことをしても、問題になるとはとても思えない。繰り返すようだが、アイディアは借り物でも、もとの作品より遙かに優れているなら、その作品が書かれた価値はある。
  しかし、実際にはこのことは重要な問題であると捉えられているらしい。なにしろ、本人も反省しているので、名前も何も出さない寛大な措置を取った旨が報道されているからで、あるまじきこと、というのが世間一般の考え方であるらしい。
  そうすると、世間的には、川上未映子がモチーフと作品を決定するような重要なアイディアを借用しているか否かは、作品の良し悪しの問題を離れ、純文学における新人作家の姿勢・態度として、大きな問題になるということだ(「わたくし率」は川上の小説家としてのデビュー作らしい)。今となっては、川上は借用などとは言いがかりもはなはだしいと言うしかないだろうが。


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