Isidora’s Page
沙羅渓谷

性役割への挑戦――『フェミニズムの帝国』

 男が子供を産む、そんな世界を考えた男性作家がここにもう一人いる。上野に比べればずっと若い世代で、現代の性差別についても認識を持っており、しかもおもしろいことに基本的にはホラー作家である村田基だ。彼は近未来を舞台にしたコメディ・タッチの寓話的作品『フェミニズムの帝国』(八八年・ハヤカワ文庫JA)で、男が家庭で子育てと家事に専念し、女が社会で働く、近代日本の男女の役割分担が完全に転倒した社会を描いた。そして物語の最後には男が子供を産み、授乳するシチュエーションを用意するのである。ただしそれは自然なものではなく、強制的な子宮の埋め込み手術によるものなので、非常にグロテスクに見え、それを用意した女権社会の歪みを極端な形で表現するものとなっている。
 主人公はいさぎという二十四歳の男。男は家庭に入るのが一番という社会通念があり、いさぎは結婚適齢期を迎えているために、勤務先の社内で「いつ結婚するのだ」「まだ結婚しないのか」とねちねちと言われている。残業後の夜道では女たちに強姦されそうになり、さらに車中では痴漢的行為にさらされる。社内でも男の尻に触るといったセクシュアル・ハラスメントは日常茶飯事だし、突然の異動を抗議すれば「男としてかわいくない」と言われて男の生き方について延々と説教をされる羽目になる。おまけに社会的に認知されていない男性解放思想のパンフレットを持っているのを部長に見つけられると、クビになりたくなかったらセックスの相手をしろと洞喝される。……
 何のことはない、単に女という性を持つ者がさらされている状況を戯画的に描いているだけだ。だが、そのような性的脅威にさらされているのが、女ではなくて男だというところに現実の異化作用があって、この作品独特のインパクトがある。そのような状況に置かれているいさぎは、偶然、超過激な男性解放運動グループに参加することになり、表では男らしい男(素直で従順で初でかわいらしい男)を演じながら、裏では解放主義が目指す男らしい男(粗野で闘争心が強くて女を暴力的に支配したがる男)になっていく……。
 著者はあとがきで「この小説に一種の《意識改造装置》としての性格をもたせるように努めた」と述べている。つまり、社会的弱者(現実には女)であるいさぎ(物語の中では男)を描くことで、女が女であるというだけの理由でどんなに不当な仕打ちに耐えねばならないか(耐えてきたか)ということを男性にもシンパシイが感じられるように表現しだということだろう。
 たとえこの小説の設定にリアリティを感じることができずとも、女が置かれている立場について多少なりとも考える一契機には確かになる。リアリズムの小説で同じことをやっても、同様の効果を与えられるとは思われない。大仰で抽象化した表現が可能な寓話だからこそ、そして男女が完全に逆転しているという喜劇的な状況設定だからこそ、それが可能なのである。
 本書には、なぜ女権社会が出現したかについての一応の説明はある。欠陥を持つエイズ・ワクチンの接種により、女性はエイズによっては全く死ななくなったが、男性はエイズで死ぬ可能性が20パーセントにもなってしまったため、男が何をやるにも消極的になり、その結果このような状況になったというものだ。エイズ・ワクチンをめぐる陰謀のあれこれが物語を動かしているので、その設定をつけたりと言ってしまうのは酷だが、基本的には単純に女と男を入れ替えたにすぎない。女性が主導権を取ったらどうなるかをまじめにシミュレートした小説ではないのである。
 それゆえに矛盾点もいろいろとある。例えば、男性解放主義者たちの精神的支柱である風俗研究家の大杉博士は、二十世紀の通俗小説を研究して、男性文化とは〈性と暴力〉にほかならないと言う。大杉はサディストで、拷問のすえ女を殺してしまうような男なので、その見解にはかなりバイアスがかかっているのだが、それにしても、男性文化が性と暴力であったというなら、現今の女性文化はそうではない、ということになり(実際に物語中では一切の戦争がなくなり、兵器も博物館に残されているだけであるという設定になっている)、女が男をレイプするのが治安の悪い社会では当たり前だというのはややおかしい。女が欲求不満になっている、という説明には意味がない(たぶん男も欲求不満でなければレイプには及ばないだろう)。それも結局、単純に男女を転倒させ、戯画化したためにそうなっているのである。
 だが、そういった点を除くと、この作品は些末なところにもジェンダーに関する問題について目を光らせた、なかなかに用意周到な作品なのである。例えば、この世界では、男は美しくあらねばならないが、男性解放主義者たちはそれを否定する。大杉はデブでハゲだが、その汚点を平気で人目にさらしているというので、いさぎはショックを受ける。美の観念もまた外見による人の判断も、ジェンダーの問題に深く関わっていることをさりげなく表現しているのだ。
 また、私自身ショックを受けたことが一つある。いさぎの父はいさぎが五歳の時にエイズで死んでおり、母は「あまり女らしくなかった」ので、父の死後も「平気でずっと家事をやって」きた、という記述がある。この部分を読んだとき、「女らしくなくはないだろう」と何気なく思い、そしてこの作品の設定では女は男だったのだ、と気づいて、初めてその記述に納得したのである。ほんの一瞬のことではあったが、私自身が性別による役割分担ということを自明のこととしてしか感情的には認識していないということに改めて気づかされてしまった。まったく、性役割に対する固定観念の強固さには、驚くほどのものがある。
 女は家庭的で母性愛があり、男は行動的で社会で働くのに適している、といった性役割が文化の産物でしかないこと、生物学的には男女における根本的な差は子供が産めるか産めないかだけである、ということが、フェミニズムに多少なりとも関心のある人々のあいだでは周知の事実となって久しい。だがしかし、日本ではいまだにそうした見解が常識としては通用しない。また、頭で理解していても――私自身もその例に漏れないわけだが――実際には、性役割の固定観念からなかなか抜けられないのである。男ばかりではなく女もまた男女の役割分担については強固な先入観によって縛られているのだ。
 男と女とは異なるのだから、性役割にめくじらを立てすぎるのはかえってニュートラルではないのでないか、という声がアンチ・フェミニズムの立場、つまり一般の人々からはしばしば上がる。男と女とは何もかも一緒でなければいけないのか、と。だが、そのように言う人たちはたいていの場合、女性の社会進出が当たり前となり、女性への抑圧が過去に比べてゆるんできた現代しか見ていない。良妻賢母思想という明治期に創造され、大正期に定着した近代的な思想に抵抗してきた女たちの歴史があり、そして今や死語に近い言葉となった「女だてらに」と言われながら職場で地位を確保し続けた女たちの努力があったことを忘れている。
 いまだに女性警察署長、女性閣僚、女性市長、女性駅長など、肩書きに女をつけ、女であることを特別視する傾向は強いが、そしてフェミニズムではこれこそが差別だと言うが、それでも女たちがこうして自分の生き方を多様に選択できるようになったのは、男と女のあいだに差はない(ありていに言うと女は男より劣っていない)、女も男と同じ人間である、と言い続けてきた結果なのである。また、女には体力がなく、マランンなどは到底不可能である、と言われていた時代があったことを、男ばかりではなく、女たちも忘れているのではないだろうか。性差はない、と声に出し、性による差別の撤廃を訴えてこなければ、そしてそれを身をもって示してこなければ、女は自分の道を切り開くことはできなかった、ということは、歴史が教えてくれている。今もまだジェンダーに対する固定観念は根強い。声を上げることをやめてしまえば、女性の立場が今よりも悪くなることはあっても、良くなることは決してあるまい。
 現在でも、性役割に対する固定化した意識が、働く女たちの枷となっていることは自明の事実である。妻や母としての役目をこなしていない、という非難は他者(男だけではなく女もそこには含まれる)からばかりではなく、自分自身によっても与えられる。仕事は持っているが、家事も育児もきちんとやっている、といった抗弁を、自分自身の内部に向けてもしなければならない。そうでなければ自分自身の女性としてのアイデンティティ(成長の過程で植え付けられた性役割=ジェンダーの意識)が危機に陥ってしまうからである。
 これは、心理的に非常に苦しい状態に女を追い込む。妻であり母である働く女は、統計で見ると、フルタイムで働く既婚女性の方が、無職の既婚女性(専業主婦)よりも出来合いの総菜を買うことに抵抗感がある、などと現れるのは、そのことの一つの証左である。それならば、働くことなどやめてしまい、女性としてのアイデンティティに忠実になったらどうだ、というのがアンチ・フェミニストの意見だが、ことはそんなに単純ではない。働くことが彼女にとって人間としてのアイデンティティを保証する場合が多いからである。強固な性役割の意識から自由であれば、女として生きることと、人間として生きることのあいだにつまらない葛藤がうまれることもないはずなのだ。
 とはいえ、ジェンダーを消滅させることはできないだろう。いちばん問題とされるべきなのは、近代において、国家の要請によって固定化された性役割(そのもっとも顕著なものが良妻賢母思想)のみを正しいとする態度であろう。女ばかりでなく、男だってもっと自由な選択肢があってしかるべきなのだ。だからこそ、ジェンダーについての新たな認識が必要とされている。そしてその強固な固定観念をいささかなりとも揺るがせよう、というのが『フェミニズムの帝国』の狙いなのだ。繰り返すようだが、男女役割の単純な転倒化によって作品を構築したために、性差による固定観念を無批判に用いているようなところもある。だがそれでもなおかつ、この作品は、一読に値する。女自身の中のある《女とはこういうもの》という決めつけに気づくためにも。もちろん男たちにも広く読んでもらい、固定化した男女観を持ち続けることの歪みに気づいてほしい。

★セクシャル・ハラスメントに関しては、『フェミニズムの帝国』当時よりは現在は改善されているかもしれない。少なくとも法的に訴えることはしやすくなった。だがあくまでも比較の問題である。


★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★