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沙羅渓谷

キイ・ワードは〈女の平和〉――『女の国の門』

 『フェミニズムの帝国』が書かれた同じ八八年、アメリカではシェリ・S・テッパーの『女の国の門』(増田まもる訳・ハヤカワ文庫SF)が発表されていた。これもまた何らかの変動後に女権的な社会体制が築かれた、数百年後の世界を舞台にしている作品だ。『フェミニズムの帝国』と『女の国の門』とは、内容的にも物語的にも全く異なる作品なのだが、おもしろいことに、女が平和主義者で理性的なにの対し、男は陰謀と戦争が大好き、という男女の性格付けは同じなのである。これもまた性差によるステレオ・タイプの押しつけにすぎないが、今ここでそのことを言い募るのはやめにしよう。同じような設定でありながら、フェミニズム運動の展開においても女たちの自覚においても、日本とは比較にならない先進国であるアメリカでは、いったいどのような物語と思想とが紡がれたのか、そこに焦点を当ててみたい。
 『女の国の門』は、男女が別々に育てられる社会を想定している。これこそ完全な寓話で、リアリティについてはほとんど考えられていないので、そのことをよく認識してから読む必要がある。まず、城壁で囲まれた町がある。その文明のレベルはほとんど中世的な段階である。農業を基幹産業とし、家内性の手工業も営まれ、ほとんど町ごとに自給自足状態が保たれている。産物の分配をするため、緊急の事態に備えるために統治者を必要とし、また医療その他の文化的な仕事を担当する者もいる。それらはすべて女によって運営されている。町の中には一部の例外を除いて、女と子供しかいないのだ。男は何をしているかと言えば、門の外で守備隊と言われる軍隊を組織している。彼らは演習をし、作戦を練り、時折、戦争をする。近代兵器はない。世界を壊滅させてしまうような武器はもうすでに存在しないのだ。男は生産的労働にはいっさい従事せず、女たちに糧食をあてがわれて暮らしている。
 物語は一人の少女/女=スタヴィアを通して描かれる。回想と現実と祭りで行われる儀式的な劇とを絶妙に絡みあわせながら、情緒豊かに展開するこの作品には、並々ならぬ技量が感じられるのだが、そのことについてはここでは触れず、もっぱらその世界のありようのみを抽出することにする。
 子供たちは女の国で幼児期を送る。女子供と括られるように、子供は男ではないからだろう。そして五歳になると、男の子は男の世界へと送り出され、父親に教育を受ける。そして十五歳になると、どちらかの世界で暮らすことを決めねばならない。当然のことながら、男は男の世界で暮らすことを選ぶ。男の世界の方がよりよいという洗脳を受けるからだ。だがごくまれに、この洗脳を受けず、女の世界に帰りたがる男がいる。彼らは戦争行為にその神経が耐えきれないようなタイプの男たちなのだ。そして男たちには軽蔑されながら、「従僕」と言われて女の世界で暮らすことになる。それゆえか彼らは自分の生まれた町を離れることが多い。
 〈女の国〉、これは一種のユートピアである。電気はないが、同時に公害も、世界を破滅させるほどの戦争もなく、誰もがほぼ満足して暮らしている。医療や文化のレベルはかなり高く、女たちは労働ばかりでなく、自己表現の手段も与えられ、適性のある仕事に就くことができる。
 だが、ディストピアの面を持たないユートピアはこの世に存在しない。女たちは自分の子供である男子が手元に戻らないのを嘆く。そのことこそユートピアがディストピアである証拠なのだ。この作品は少女が女の国の秘密、すなわちディストピアとしての現実に迫っていく、というサスペンス形式を持ち、種明かしをしてしまうと、作品の魅力が半減するので、ディストピアの内実についてはこれ以上語るのを差し控えよう。とにかくこのような女の国を描いたのが『女の国の門』なのである。
 冒頭で、この〈女の国〉を女権的社会と言ってしまったのはやや不当だったかもしれない。男と女が別の世界に住んでいる異様な世界と言うべきだろう。男は女を軽蔑し、生産労働に従事する低い存在とみなしているのだから。そして男は男なりに充足しているのだから。だが、真実が〈女の国〉の統治者(少数の男も含まれる)に握られているという点においては、やはり女権社会的であると言えるだろう。そして真実が隠蔽されることで、社会が安寧を保っていられるという構図になっている。それは現実そのままの姿だとも言えようが、隠蔽されている真実が、生命の与奪に関わることであるところにこの作品の恐ろしさがある。その点は『フェミニズムの帝国』とも大きく共通しているところだ。そしてこの隠蔽を許しているのが、二作品ともに〈女の平和〉であるところが悲しい。〈女の平和〉はフェミニズム運動興隆期の合い言葉なのだ。
 『フェミニズムの帝国』には、前章でも述べたように、戦争がいっさいない。女が主権を握り、紛争はなくなり、国家は消滅し、外交的な政治というものは一切不要になった。危険な兵器は廃絶され、文明的には停滞しているかもしれないが、自分で自分の首を締めるような環境破壊はなくなったとされている。つまり女は平和主義者でバランス感覚があるが、男は闘争的存在でありすぎるため、バランス感覚を失って極端に走りがちで、しかも戦争を好むというのである。男がひとたび主権を握れば、また暴力的で野蛮な「暗黒の近代」が訪れる、と『フェミニズムの帝国』の指導者層の女性は言う。だから真実を隠蔽してでも男をおさえつけておかねばならない、と。そのためには男の一割程度がエイズで死んでいくのもやむを得ない、と。
 『女の国の門』はもっと過激である。戦争を好み、つまらぬ陰謀をめぐらせるだけの愚かで頑迷な男は人類全体を危うくするので、全部死んでしまってかまわない、というのである。たとえそれが自分の子供であったとしても、である。『女の国の門』で、あたかも自らの意志で戦争をしているように思われる男たちは、実際は女たちに戦争をさせられているにすぎないのだ。戦争をすれば、男たちは死ぬ。戦争の必要などないのに、男たちはとにかく戦って死んでいくのである。
 『女の国の門』では、このような社会が形成された経緯は語られないのだが、〈常に戦争に駆り立てられてる男〉というものが文化的にかなり強固に形成されていることは否めない。書物や文化的なものは、男には閉ざされていて、ある意味で男には戦争しか残されていないのだ。五歳という幼い時期に男の子を父親に預けるのも、戦争好きな人間に育てるというそれ以外の目的ではないだろう。また、女たちを征服しようと反乱が起きる場合もあるが、それとても、その育てられる環境によってそうさせられているようにしか思えない。そして統治者の女たちは自らを「呪われた少数者」と呼び、涙にくれるのだ。女が今の体制を守らなければ、町ではないところに居住している男女の群れのように、女が虐待される社会が、それこそ西洋の中世のように女が人間として扱われないような社会が訪れる。だから、いかなる手段によっても、女の国を守るのだと。
 『女の国の門』でも『フェミニズムの帝国』でも、女であることは男であるよりもベターである、ということを暗黙の前提としている。そしてそれを具体的に示すのが〈平和〉であるのは、まったく象徴的だ。先にも述べたように、ある意味で、〈女の平和〉はフェミニズム運動の論理面における〈武器〉だったのである。それにのっとり、というよりは、男は戦争が好き、という大前提は時には男も自ら認めてしまうようなあまりにも自明のことなので、それに従って、物語が築かれていく。かくして、女は平和を実現していて、穏やかな社会を形成しており、だから男より優れているのである、ということをそれぞれの作品は全く別な物語の中で語りかけるのだ。
 進歩よりも何よりも、暴力や公害の恐れもなく暮らしていけるのがいちばん尊いことであると。だが、その暮らしは、暴力的な男の定期的な死によって、保証されるている。それではフェミニストたちにとって武器であった〈女の平和〉の価値が地に墜ちるのではあるまいか。なんと惨めなことなのだろう。他者の死によってあがなわれている平和……現代の地球の構造と変わらないではないか、という声が上がりそうだ。そう、私たち人間に、賢く、正しく、穏やかに生きていく資格など、どうあがいてもありはしないのかもしれない。
 J・G・バラードの短篇に「ウォー・フィーバー」(八九)という作品がある。人々が平和を望んでいるにもかかわらず、ベイルートでは今日も戦火が絶えず、停戦は実現しない。停戦のための斬新なアイディアを考え出すライアン少年に国連軍の医師は語る。戦争があるのはベイルートだけ、世界は平和だが、いつか戦争熱がまた広まったときのために、ベイルートだけは常に戦争状態にしておくのだ、だから停戦はあり得ない、と。
 テッパーが描いた女の国はそれに近似なものを感じさせる。バラードはライアンに平和な世界を敵に回しての反逆を開始させるべく、「こうした犠牲が必要だ」と悲痛な面もちで解説する医師を撃ち殺させてしまう。テッパーは、それを医師=統治者の側から描いている。そして、善良でかよわい人々の平和のために、犠牲もやむをえないではないか、統治者たちも涙しているのだ、と、統治者を正当化する。
 『女の国の門』が『フェミニズムの帝国』と決定的に異なるところは、女/統治者の視点から描いていることであろう。『フェミニズムの帝国』にもそういう面がなくもないが、いさぎという理性的な主人公を設定することで、女の統治者のやり方にも男性解放主義者にも同調できない立場、言ってみれば、あらゆるジェンダーに疑問を感じざるを得ない立場に立つことに成功している。だが、『女の国の門』は女/統治者であるスタヴィアに感情移入するように物語が作られている。スタヴィアたちの立場を正当化するために、「従僕」以外の男は人間としての魅力に欠けるものとして描かれており、彼らは〈死んで当然〉のように見えてしまう。だが、どのように統治者たちが物語の中で正当化されていようとも、私はこの作品にナチスの最終計画と同じ論理を見ずにはいられない。
 『女の国の門』を書くことで、テッパーは何を訴えたかったのであろうか。好意的に読めば、ろくでもない男などは全部殺してしまえ、と思うほどに、アメリカの女たちは強い抑圧を、そして世界の行く末に対して危機感も感じているのだと訴えているのではないかとも考えられる。女は、自分を守るためならこんなことすらやるかもしれない、と自分自身におののきながら、テッパーは物語を紡いだのかもしれないということだ。
 あるいはテッパー自身は意識していなかったかもしれないが、私たち女にこんな殺伐とした思いを抱かせないでくれ、という、これは悲鳴のような作品なのかもしれない。だがいずれにせよ、こんな物語を書かねばならないとは、なんと寂しいことなのだろう。
 『女の国の門』には、男はもともとどうしようもないものだ、というあきらめがほの見える。そして男女が、広くは人間が互いに理解し合うことを、互いに影響を与え合い、少しでもよりよい関係を築こうとすることを、のっけから拒否してしまっている(そのことは「従僕」の設定に端的に現れていると私は思う。ただし、最初にも述べたように、物語展開の鍵になることなので、ここではその設定の内容を明かさない)。
 いらない男は殺してしまえ、という論理なら、次には嫌な女もみんな殺してしまうのだろう。そうすれば殺す側にしても殺される側にしてもすっきりするだろう。だが、現実に生きている私たちにはそれは許されない。いかに生きにくい世界でも、ここで生きて行くしかない。フェミニズムの運動にしろ、環境問題の運動にしろ、自己満足に陥るか、無力感に打ちひしがれ挫折するか、道は二つに一つしかないようにすら見える。それでもそうしたことに些かなりとも関らずにはいられないのだ、日々、砂山を崩すような徒労感に呆然となりながら。そんな私たちにこの作品は何を与えてくれるのだろうか。

★好意的に読まなければ、何の考えもない愚かしい作品ということになる、当然のことながら。フェミニズムに偏ると、こんなにも女性作家は愚かしくなるという結論にはしたくなかった。


★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★