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沙羅渓谷

日本の〈フェミニズム〉――『親指Pの修行時代』

 日本は女性優位の国である、という指摘が欧米のフェミニストなどからなされることがある。日本では多くの場合、家計の経営権を妻が握っていることから、家父長制的なものは顕著ではないという見方もされる。女性優位という指摘は、私たちの現実的な実感にはそぐわないような気もするが、欧米の女性に対する抑圧は、日本の女性の想像を超えるものがあるのかもしれない。
 歴史的に見ても、相対的に日本の女性は地位が高い。日本は先史時代には双方向社会であったとされている。女性学の先駆者である高群逸枝の唱えた母権社会は、現在では否定されつつあるようだが、それでも、双方向社会がかなり長く残存し、庶民レベルでは、はっきりとした父権性が確立するのは、室町・戦国時代からであると言われている。日本の女性は中世までは性的にも非常に自由であり、もちろん処女性が重視されるなどということはなかった。
 女性の地位は歴史時代に入ってからどんどんと低くなり、室町時代にはかなり低下するが、それでもヨーロッパほどではない。例えば、女性には財産権も相続権もあったことは、周知の事実である。ヨーロッパの女性も、中世にジェントリーの妻などが不在の夫の代わりをしたことが知られているが、日本でも、荘園・領地などを切り盛りする女性がいたことが知られている。しかもそれは、未亡人などである場合もあるが、妻という立場ではなく個人としておこなう場合もあったのである。江戸時代に至っても、武家社会はともかく、庶民レベルでは女性はさほど抑圧された存在ではなかった。『女大学』などは武家社会ですら実現不可能とされ、庶民に至っては問題にもされていなかったであろうと考えられる。しかも江戸末期には、従来の家族関係が流動的になり、女性の地位は江戸中期などに比べて上がっていたともいわれている。
 明治になり、十九世紀ヨーロッパの家父長制的な考え方が入ってきたため、そして天皇制を支え、国家の安寧を図るため、家父長制が導入され、女性は抑圧され、大幅に搾取されるようになったのだ。明治初期という歴史的に見て非常に重要な転回点で、現代につながるような女性の地位も立場もまた決定されたのだと言って良いだろう。つまりヨーロッパなどに比べると、日本は極端な女性の抑圧の歴史が短い。
 このようなことを考えると、確かに、欧米のフェミニストの意見にも一理あると思われてくる。そして現実にインパクトを与える手段としてのフェミニズム・ファンタジーの育つ土壌が日本にはもともとあまりないのかもしれない、とも思われてくる。
 松浦理英子『親指Pの修業時代』(九三・河出文庫)が現代日本のフェミニズム・ファンタジーを代表する作品の一つであるということも、日本の、ある意味で切迫していない女性環境というものを示唆していると言えるかもしれない。
 これまでに発表された松浦の小説は、同性愛を扱っており、基本的に性差を異化しようとする指向性を持っている。『親指P』は右足の親指がペニス状の形に変化し、勃起までするようになってしまった女性・真野一実を語り手とする長篇小説だが、この設定にもうかがえるように、性(及び愛)のありようについて一般通念を異化するような方向性を持っている。だが、物語展開も、そして作品に見える思想も、穏やかなものである(修羅場がないとは言わないが)。
 たぶん、フェミニズム・ファンタジーと言われることさえ迷惑なことに相違ないほど、彼女は自然にこの小説を書いたのだろう。問題意識の持ち方にしても、自分の平生の感覚から生まれてきた、現実的なものという印象を受ける。そしてそれは『女の国の門』で表現されているような切羽詰まったものでは全くないのだ。
 とりあえず、物語の概要を追ってみよう。真野一実は右足の親指がペニス状になってしまったことから、これまではさしたる関心をはらわずにきた男女間の性愛について考察せざるを得なくなる。一実は感情の薄いぼんやりした感じの女性で、作中に現れる作家Mの表現を借りると、「気のふれた王様と女王様の間に生まれて、大臣や召使いたちに大事に世話をされ、奇跡的に無垢に育ったお姫さま」のようである、というものだ。そのような女性であるから、万事に鈍感というか、二十歳過ぎまでこうしたことを考えないで生きてきたのか、というようなことも平気で考察の対象になる。それは、男女間の恋愛と性愛に関する認識の一からのお勉強と言った雰囲気を持つ。例えば、フェラチオをされるとき男は何を考えているのか。一実の恋人の正夫によると、「深く愛されているという感じを持つ」ということなのだが、そういったようなことがいちいち解説されるわけである。一実の反応がまた素直で、素朴なことにも驚きを感じ、同時に複雑な疑問を抱いたりする。何事によらず深く考え、意味を与えると言ったらよいだろうか。一実は非常にニュートラルなものの見方をするタイプの人間で、嫌みなところが全くないため、それはそれで非常におもしろく、この作品を読む楽しみの一つと言っても良い。
 一実は一般的な男性(のように見える)正夫と別れ、性に関しても愛に関しても、また人生に関しても非常に自由な感覚を持っている青年春志と交際を始める。春志は盲目であるため、一実はある種のカルチャーショックを受け、その新鮮さに魅了されていく。やがて一実は自分のような特異体質のものに出会いたいという欲求から、〈フラワーショー〉というセックス関係の畸形者の行う実演ショーの一座に参加する。一座を舞台に、さまざまな愛の可能性を描きながら、一実は確実に経験を積み、成長していく。
 タイトルからも分かるように、これは一種の教養小説と言っても良いだろう。声高にフェミニズムを主張するというような作品ではさらさらなく、しかもフェミニスティックな視点からはずれることはない。ということはとりもなおさず、松浦がそのようにフェミニスティックな視点を当たり前のものとして生きているということだろう。
 そして男女間の溝、あるいは自分の意識と他者の意識との溝をきちんと認識しながら、その溝に対して自暴自棄になってもいないし、またしゃかりきになってそれを埋めようというのでもない。自分の視点を打ち出しはするが、それを読者に説教がましく押しつけようとするところもなく、ただ淡々と物語を築き、穏やかに現実にノーと言いながら、静かに亀裂を入れていこうとする。
 正直に言うと、私は終始シンパシィをもってこの作品を読んだ。アメリカのフェミニズム小説を読むと、文学よりもフェミニズムの主張の方が重視されているような傾向に苛立つことの多かった私に、フェミニズムを扱っていてもこのように小説としておもしろくなくては、と思わせたものである。その思いは今でも変わらない。
 だが、『女の国の門』を読んだ今は、別の角度からそのことを考えることもできる。つまり、この作品の非・過激さは、抑圧に対する怒りの浅さなのだ、と。
 この作品は文芸界一般でも大いに評判になった。文芸時評などにおける称揚の言葉が帯にも採られているが、それらはすべて男の評論家によるものだ。四方田犬彦は「われらの時代の小説家である」とまで言っている。もちろん嫌悪感を表明したものなど帯には採られはしないだろうから当然と言えば当然だが、帯以外でも、とにかく好意的に評価されたのだ。彼女の他の作品も文庫化されたし、そして方々へ引っぱり出され、松浦自身、過去の作品も読まずにこの作品だけを持ち上げて、と苦々しい思いを表明している。こうしてあっさりと受け入れられたこと、賛否両論などは巻き起こさなかったこと、とりもなおさず、過激さにおいて不足しているということである。男にとっても、さしたるインパクトを与えずに(多少のインパクトは与えたかもしれないが)、抵抗なく読めるようなものだったのである。
 文学は過激であればいいというものではない。過激さは文学としての価値を高めるものではないと常々考えている。『親指Pの修業時代』は、現実の異化作用もきちんと持ったファンタジーとしてとても魅力的な作品だし、エンターテインメントとして非常によくできた小説だ。またフェミニズムというところから見ても、主人公の一実のように何も考えたことのなかった若い女たちになにものかを考えさせる契機になったことだろうと思う。あるいは男たちにも。
 清水良典は「ペシミズムと怒りの深さ、暗さを、ピエロの化粧のようにファンタジーで塗り隠した小説である」と述べているが、少なくとも怒りを感じとってくれているのであれば、それだけでもよしとするべきなのだろう。だが、この程度で〈深い怒り〉などとはおこがましいのではないか。『女の国の門』などを読むとそう思わざるを得ない。私は『親指Pの修業時代』を貶めようとしてこのようなことを言うのではない。怒りが深ければ、そして怒りにまかせて世界を打ち壊せばいいというものではないからである。ただ、日本の状況としてそうなのだろう、やはり女たちは抑圧されている、解放されたいという血を吐くような感情を、私も含めて抱けないのだろう、と思うばかりである。
 それが歴史的に作られ、植え付けられた観念のせいなのか、それとも実際に抑圧が緩いのかは、欧米の女性になることのできない私には分かることはできない。そして、そのことを恐ろしく思う。私はどうあがいても、このように形成された文化的概念から容易に逃れたいということ、常に自分の立場からものを見るしかないということ、そのことに戦慄を覚えるのである。

松浦理英子のエッセイやら対談やらを読んではいないので、よくはわからないが、彼女の最新作『裏ヴァージョン』を読んだかぎりでは、やはり書きたいのはフェミニズム的なものではないのだと察せられる。というよりも、同書を読んだかぎりでは、フェミニズムに包含される固定観念からの離脱さえ、どうでもいいのではないか、感じられた。七年ぶりの新作なので、期待して読み始めたのだが、作家の自意識ばかりが鼻につくきわめて不愉快な小説であり、本当にがっかりさせられた。私の中では松浦理英子という作家は終った作家になってしまった。

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