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水の道標

【ブックガイド】 神秘文学への誘い1

●神秘とは何か●

 言葉は流通することによって本来の深遠さを失ってしまうことがある。例えば「悟る」や「癒す」などは、かつてなら持っていたはずの重みをすっかり失い、浮薄な印象を与える言葉に成り下がってしまった。「幻想的」という言葉にしても、さまざまな状況で気軽に使われるようになり、言葉そのものが持つ妖しさをかなり減じている。「神秘」もまた、そのような言葉の一つであろう。深遠な雰囲気どころか、場合によっては、いかがわしい印象さえ与えかねない。だが、私にとっては、「神秘」は今もなお妖しい輝きを放つ大切な言葉だ。
 元来、神秘とは、霊妙不可思議な神の(神的な)業として秘めておくべきことを意味した言葉である。mystery の訳語として、「通常の論理や認識を超脱している世界の実相」という意味で用いられるようになった。『キリスト教文学事典』(教文館)によれば、「秘められた現実、人知によって到達しえない認識。キリスト教神学では、神の啓示を通してのみ人間に知られ、啓示によって知らされても人間の認識を常に越える真理を指す」(高柳俊一)ものであるという。
 神秘とは軽々しく知ることの出来るようなものではなく、尋常には知ることもかなわず、知ったとしても当たり前には理解すらできない真理を指す言葉なのである。深遠きわまりない意味がこの言葉にはこめられている。
 しかし、実際には、神秘は「霊妙不可思議」という意味で使われることが多いように思われる。そして「神秘的」という言葉は、「謎めいた」(mysterious)という意味で使われることもある。というより、一般的にはそのような意味で使われることが多いのだろう。だが、ここではあくまも、「秘められた現実、人知によって到達しえない認識」という意味での神秘に常に立ち返りながら、神秘文学を見ていきたいと思う。

●『神曲』と無限●

 『神曲』(岩波文庫)は、キリスト教的死後の世界を描いた物語である。死後は人間には知り得ない世界であるから、死後の文学はすべからく、神秘文学であると言うこともできる。これらの文学については、しかし、ここでは特に取り扱うことをしないでおく。いずれ、『幻想文学』43号の特集〈死後の文学〉に書いたものをまとめて、補遺として挙げるつもりなので、それを参照して欲しい。
 『神曲』は地獄編が最も名高く、それに比べれば、天国編は単調で退屈であるとも言われている。しかし、神秘という側面からすれば、天国編が重要であることは、言を俟たない。光に満ちた、聖人と神の坐所の表現は、神秘的表現の一つの祖型となっている。アスィン=パラシオスの論考に拠れば、その表現のパターンは、実はイスラーム起源であるという。訳者の石井啓一郎も言うように、その当否が完全に明らかになることはないだろうが、少なくとも、光の表現、精妙な音楽の表現が、神秘を表現するのに適当なものだと、ダンテもイスラーム教徒も考えたということは明らかだ。そのような興味から、再び『神曲』を繙いてみるのも良いかもしれない。
 多田智満子は、自らのLSD体験を、『神曲』の聖人の宇宙に重ねて、『薔薇宇宙』(砂子屋書房『多田智満子詩集』)という一篇の散文詩を作り上げた。聖人がひしめくように集まっている宇宙のイメージは、多田智満子の中で、仏教の曼荼羅とも重ね合わされ、永遠に開き続ける薔薇となった。無限という感覚に驚異を感じた詩人は、繰り返し、無限をイメージさせるものを詩の中で語り、この世の限界を越えたものに思いを馳せるが、整然たる無限が神秘を現す『薔薇宇宙』は、その最もかぐわしい成果の一つである。

●神秘体験の祖型●

 多田智満子はLSD体験を神秘体験とはみなしていなかったが、薬物による幻覚体験が、一種の神秘体験とみなされる場合がある。例えばオルダス・ハクスレーは『知覚の扉』で、自分の薬物体験を神秘体験として位置づけた。神秘的なエクスタシーの体験そのものは、薬物によってももたらされる程度のものなので、さほど珍しいものではない。ヴィジョンを見ることはそれよりは稀だろうが、それもないことではないだろう。体験そのものよりも、それによって受けた衝撃をその人がどのように受け止めたかが宗教、哲学的には問題になる。芸術では、当然、それをどのように表現するのかという問題になっていく。文学に限定すれば、言葉によってどのように伝えるのかということである。
 ここでは、いわゆる神秘主義文献と呼ばれるキリスト教の神学的文献の中から、いくつか神秘体験の表現の例を拾ってみよう。神秘体験の解釈ではなく、あくまでも体験そのものを表現しようとしているものに注目したい。解釈を含む言説は、文学的には洗練されていて、時には散文詩のようにすらなるが、観念的な傾向も著しい。長いキリスト教の歴史の中では、体験の表現にしてもパターン化が見られるとはいえ、まず肉体的である。いずにせよ、これらの表現は、文学における神秘的表現の祖型ともなっており、現代にもなおその類型が見られるのである。
 まずは、中世で最も高名な女性神秘家、ビンゲンのヒルデガルトの幻視体験から見てみよう。まったく意識が明晰なままに見られるヴィジョンは、同時に、神と信仰に関する認識をも瞬間的に与えるものであるという。そこでは言語があっても言語ではなく、それをヒルデガルトは辛うじて人間の言語に翻訳するのである。

 ビンゲンのヒルデガルト「スキヴィアス 道を知れ」(1141-51)
 《……私は見た。輝きの極まりのない火炎のようなものを。それは、把握されず、消滅しえず、全面的に生気に満ち、また全面的な生命として現存し、そのうちに青白い焔を有している。焔は微風を得て燃え盛り、まるで人間の臓腑のように、分かちがたくその輝ける火炎のうちにあった。さらに私は見た。焔を光り輝きつつ白熱するのを。そして、見よ。突如として圧倒的な大きさの鈍い色の大気の球が出現した。それを超えてかの焔が吹き上げて一撃を加え、そのたびに球からは火花が散っていた。大気の球ができあがるまでに、天も地も十分に配置をされて、光彩を放っていた。》(佐藤直子訳・平凡社『中世思想原典集成15女性の神秘家』より)

 ユダヤ-キリスト教における最初の神秘体験は、燃える柴を見たモーセの体験であるとされる。光り輝くもの、燃え盛るものとしての神は、キリスト教に限らず、神のヴィジョンとしては、むしろ一般的なものであると言って良いだろう。中世の女性神秘家を代表するヒルデガルトのヴィジョンは、ある意味ではこのモーセ体験の延長上にあるものだが、そのヴィジョンの具体性と衝撃性は、並ぶものがないように思われる。このような圧倒的な描写は、後世の神秘表現に影響を与えずにはいなかったろう。しかし、それをつまびらかにするほどの力が私には残念ながらない。
 ヒルデガルトの幻視には、象徴的なものが多い。そして常に光に満ちている。女性神秘家の幻視には、キリストの姿を直接見たとするものは多く、ヒルデガルトの幻視にも神の子は出現するが、それは多くの類型とは異なる象徴性を有している。ヒルデガルトの幻視はある面ではやはり主知的なのであろうが、とにかく読んでいて、異様な印象を受けるのである。

 ルールマン・メルスヴィン「新たなる人生の始まりの四年」(1347年)
 《(神にこの身を捧げたいと思いながら庭を歩いていると)突然、一条の鮮やかな光がさっと降り注ぎ、私を取り囲んだ。そして、光は私を捕らえたかと思うと地面から引き離し、私を連れて縦横無尽に庭を飛び回った。こうして光に捕われ連れ回されていたとき、何だか知らないが非常に甘美な言葉が私に語りかけてくるように感じた。しかし、この光は何なのか、この〔私を〕導くものは何なのか、この甘美な言葉は何なのか、私にはわからなかった。神はすっかりご存じなのだろうが、すべては私の感覚的な理解を超えるものであった。
 こうした喜びに満ちた一時が過ぎ去り、再びわれに返ってみると、私はたった一人で庭に立っていた。あたりを見回したが、もはや誰も、何も見えなかった。ただ一つはっきりとわかったのは、目からとめどなく涙が溢れ出てきてどうしようもないということだった。》(岡裕人訳『中世思想原典集成16ドイツ神秘思想』より)

 メルスヴィンはもともと商人であったが、四十歳の時に回心して、〈神の友〉の指導者の一人として活躍した。最初の神秘体験を綴ったもので、これは典型的な神秘体験の形を示してはいないだろうか。〈神の友〉は後代のオカルティストなどにも、神秘家として、かなりよく知られている存在であると思う。

ハインリヒ・ゾイゼ『ドイツ語著作集』(1363頃)より
 《だれもいないところで、絶望的になっていたとき、彼の魂は、身体の内なのか外なのかわからなかったが、忘我の状態に入っていた。そこで見たり聞いたりしたものは言葉では言い表しえないものだった。それには、形もなく、特定の様式もなかったが、それ自体には、いっさいの形、いっさいの様式を備えた、喜びに満ちた歓喜があった。しもべ(自身のこと)の心は渇望した歓喜に満ち足りていた。彼の気持は喜びにたかぶっていた。が、切望は静まり、欲求は消えていた。ただ、光り輝く反射を凝視し、自己自身といっさいのものを忘れてしまった。昼であったか夜であったかも分からなくなってしまった。それは、静かな、安らかな現在の感情のうちへ永遠の命から発出する甘美さであった。》(植田兼義訳『キリスト教神秘主義著作集』9)

 ゾイゼはドイツ神秘主義を代表するドミニコ会の修道士で、神的合一を語る神学者として知られる。日本でもよく知られており、著作集も翻訳されている。上に見るように、初めての神秘体験を綴った部分はオーソドックスで、典型的な描写の一つと言える。だが同じ自伝的著作の中には、人間関係で悩んだくだりなど、こうした神秘主義とは相容れぬ印象を与えるところもある。例えば、死者の霊が出現して、「あなたを苦しめる悪女(彼との肉体関係を言い立てている)に神が罰を下される」だろうと告げ、その通りになる。さらに離反したまま死んでいた友の霊も出現し、彼と和解して天国に上っていく、などというエピソードは、あまりにも政治的。
 キリスト教的神秘主義関係の著作の中には、神秘体験がこのように政治的に利用されているものもあるということだ。
 というよりも、神秘体験などは、どこからどこまでが真正のものか余人には判断が難しいため、あまりにも政治的に利用されやすいということだろう。女性の神秘家の系譜には、幻視体験者が多く含まれているけれども、そこには、当然のことのように、政治的な問題が起きてくるだろう。この点についてはまた後に触れる。
 なお、キリスト教神秘主義関連の文献には、神秘体験とは関係のない神学的論考にもおもしろいものがある。例えばニュッサのグレゴリウスの『モーセの生涯』における牽強付会ぶりは、新興宗教もかくやというばかりであり、キエティスムの『聖書の神秘的解釈』などにもまた同じようなことが言える。マグデブルグのメティヒルト『神性の流れる光』は花嫁神秘主義と呼ばれるような神秘思想を、物語風に絵解きしたものや詩などで成り立っており、後の『化学の結婚』を思わせる。ヤコブ・ベーメの『シグナトゥール・レールム』は、錬金術的な人間の生成についてしるしていて、オカルト的文献と五十歩百歩。正統・異端という枠組みで見れば明らかに異端であろう。また『ナグ・ハマディ文書』は、神秘的世界観を示している点では群を抜いたおもしろさであり、こうした文献を無視することは忍びない。だが、そこにこだわり始めると、いわゆるオカルティズムの文献などにも触れなくてはならないことになって、収拾がつかなくなり、私の手には余る。興味のある方は、《キリスト教神秘主義著作集》や《西洋中世思想原典集成》などでこうしたものにも触れてみてほしい。

●否定神学と神秘詩●

 神秘主義について、井筒俊彦は『神秘哲学』の中で次のように述べる。「ミスティークは西洋においては純然たる歴史的概念である。……ついに十六世紀カルメル会的神秘主義に至って絶頂に達する観照精神の長くかつ複雑な伝統の上に立ってはじめて理解されるものである」。
 「十六世紀カルメル会的神秘主義」とは、カルメル会の改革を行ったテレサ・デ・ヘスス、サン・フアン・デ・ラ・クルス(十字架の聖ヨハネ)に代表される、修道的なキリスト教の一派の立場を指している。彼らの多くはいわゆる〈神的合一〉へと至る階梯を、詩や散文の形で書き残している。テレサは自らの神秘体験を書き留めた『霊魂の城』の中で、「キリストの神秘は、私たちの主への愛をもっと燃え上がらせるための生き生きとした火花」といった、印象的な言葉を随所に用いて、より深い信仰への道を指し示している。こうした言葉は、時代ごとに受け継がれていきながら、文学にもインパクトを与えている。
 この神秘的文献の書かれた時期は、スペインの黄金世紀と言われる文芸隆盛期と重なり、彼らの詩は、文学的にも価値の高いものと文学史に位置づけられている。詳しい説明は、田邊まどか「スペイン黄金世紀の詩について」に譲るが、これらの詩、散文については、キリスト教的な見地からの翻訳は、日本のカルメル修道会によってなされているものの、文学的には充分な紹介がなされているとは言い難い状況である。
 十字架の聖ヨハネの、「暗夜」「聖霊頌歌」等の詩については、鶴岡賀夫『十字架のヨハネ研究』において、精緻な解読がなされており、文学的な解析という面から見ても興味深いものとなっている。また、故牛島信明は『詩女神の娘たち』というアンソロジーで、テレサ・デ・ヘススの詩を紹介している。彼らの一連の神秘詩の、スペイン文学の文脈の中での本格的な翻訳紹介は、今後の課題だろう。
 牛島訳によるテレサの詩の一部を紹介する。

「死ぬことなく死ぬ」
 私は私の裡で生きることなく生きる
 そして あまりに高き生を望むので
 私は死ぬことなく死ぬのである。

「渇仰」
 私の歓喜は号泣のなかに
 安らぎは恐怖にあれかし
 私のくつろぎは痛ましく
 また静穏は砕け散るべし

 私の愛は時化の中に
 快楽は傷口にあるべし
 私の生は死のなかに
 好意は蔑視のなかにあれ


 反対の一致と言われる、否定神学に基づく神秘主義独特の表現がたいへんに美しい。

 否定神学の流れを汲む神秘詩人として、今回訳詩を掲載したヘンリー・ヴォーンはよく知られている。アーサー・マッケンもこのウエールズの大先輩である詩人の詩を読んでいたようだ。そして、現代にはやはり聖職者詩人でウエールズ出身のR・S・トマスがいる。以下は、作品中にトマスを引用して論じている大江健三郎の『宙返り』についての、小野功生の論文からの引用である。

「否定の道」
もちろん否だ!私はそれ以外に考えたことなどない、
神は私たちの中のあの大いなる不在
であり、内なる空虚な沈黙
であり、尋ね求めて行くけれども
たどり着くことも見出すことも期待してはいない場所
という以外には。神は私たちの知識の
隙間を保ち、星のあいだの
暗黒を保つ。私たちが後を追う
こだまは彼のもの、彼が残したばかりの
足跡。私たちは彼の脇腹に
それが暖かいことを期待しながら
手を差し入れる。私たちは人々や
場所を彼もそれらを見たかのように
見る。だが反映を見逃してしまう。


 こだまや足跡によって、確かにそこにいながらたどりつけない存在としての神を歌っているこの詩は、カレル・チャペックの「足跡」のような玄妙な短篇を思い出させる。
 時には感傷的とも思えるほどに叙情的で美しいトマスの宗教詩は、現代で、いかにしてキリスト教的な神秘詩が可能かということを、示している。
次につづく

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