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水の道標

【ブックガイド】 神秘文学への誘い3

●探求の寓話●

 神秘思想と物語を合体させることは、説話文学の勃興と同時に起こってくることでもある。誰もが、宗教的な思想を表現する手段として物語を用いたのである。二項前で『黄金のロバ』を取り上げたが、その恰好の一例と言える。ジャータカ、黄金伝説、日本霊異記といった作品を思い浮かべればわかろう。あるいは、次のようなうがった見方も出来よう。宗教などというものは、キリスト教からシャマ二ズムに至るまで、神秘的な物語に過ぎないではないかと。しかし、このような括りで幻想文学を見ていくことはとても出来ないし、やったとしても実りがない。また、細かい宗教的説話をいちいち取り上げている余裕もない。それらの作品は、神秘という側面から見れば、さほど重要とは思われないものも多いので、触れずに通り過ぎることにする。以前、『奇跡』というアンソロジーを編んだときに書いた解説があるので、それを少しだけ増補して別ページに掲げることにするので、興味があれば、そちらを参照して欲しい。(奇跡解説
 さて、神秘思想と物語の合体は、ヨーロッパでは小説形式がまだ定まる前から始まっている。その一つの例が『聖杯の探索』(天澤退二郎訳・人文書院)である。一二二五年ごろにフランスで成立したアーサー王物語の一つで、騎士たちの物語を、ガラアドによる聖杯の獲得を中心テーマとして描いている。
 宮廷の食事の席にまぶしい光とともに聖杯が出現し、見えない手に捧げられて食卓を一周するうちに美味な食物で満たしていく。それを目にした騎士たちは聖杯の探索を誓う。ランスロは比類なき騎士だが、純粋でないために聖杯に触れられない。しかしその息子のガラアドは選ばれて聖杯を手にすることができ、聖杯を託されるが、その一年後に天に召される。
 シトー会の修道僧よって書かれたとも言われるこの物語は、キリスト教色がたいへんに濃厚であり、教導の目的で書かれたものであろう。その点、オカルト・ロマンスと変わらないが、聖杯という象徴物がきわめて効果的に使われ、「望むべきものとしての死」の感覚が横溢しているために、神秘性が高い。
 神秘的な文学では、何ものかを探索、あるいは探求することは、一つの大きなテーマとなっている。続けて、そうした探索をメイン・テーマとしている作品をいくつか並べてみよう。
 まず挙げるべきは、ノヴァーリスだろう。ロマン派の時代は、「神秘主義 mysticism」という言葉自体が浮上し、ユゴーなどにも見られるように、神秘的な世界観が文学的に盛んに表現されるようになる時代でもある。ロマン派の先駆的存在であるノヴァーリスは、「青い花」「ザイスの弟子たち」(岩波文庫『青い花』)などの作品で、その神秘主義思想をあらわにした。前者は、優しい顔をその中に浮かばせている青い花を夢に見て、それを希求した青年ハインリヒの探索の旅を、ラヴ・ロマンスとして描き、後者は、イシスの女神を祭る聖堂の修道者である私の探求の日々を、神話的に描いている。神秘思想は直接的な言葉で表され、宗教的寓話としての側面が強い。
 神秘主義の文学といえばその代表格のように言われるノヴァーリスだが、ノヴァーリスのように神秘的なものに強く惹かれた文学者は数多く存在する。夭逝、哀しみに満ちた恋愛といった、いかにもロマン派的な要素が、夢見る文学者だったノヴァーリスの位置を不動のものにしたと言えるだろう。ノヴァーリスのある種の特権的な文学的地位は、本邦の宮沢賢治を思わせるところがある。賢治もまた神秘的なものに親炙し、東洋的な探求の物語を書いた文学者であったろう。
 ロマン派の先駆としてはゲーテの存在も忘れることはできない。神秘的な傾向は顕著ではないが、『ファウスト』(岩波文庫)もまた探求の物語ではあった。『ドイツ避難民閑談集』の中の一篇として語られた「メルヒェン」(国書刊行会『ドイツロマン派短篇集』)は、神秘的な雰囲気を漂わせた寓話である。
 美しいリーリエはその触れるものすべてを死に至らしめる。彼女を愛している王子は気も狂わんばかりであり、ついには彼女に触れてしまう。さまざまな時が満ち、王国が復活し、王子は蘇って二人で王と王妃になる……。
 自然神秘哲学の真髄や錬金術の秘儀を象徴したものだろうかなどと深読みも出来るのだろうが、読むたびに、ただのそれらしい雰囲気だけの作品なのではないかというふうに思われてならない。どのようにも読めるということは、結局詩的に味わえばいいということでもある。
 ドイツ・ロマン派やフランスのロマン派の短篇にも探求をテーマにした小品があるだろう。殊に十九世紀のフランス文学では、東方趣味、近代オカルティズムの隆盛と相俟って、オカルティックな短篇が数々書かれた。フランスの怪奇幻想短篇集を繙けば、いくつかはそういう作品に出会うことになるだろう。フランスはカトリックの土壌でもあるので、ただの怪奇短篇でも、背後の宗教性を感じさせて、どこか神秘的な雰囲気の漂うことがある。それは、日本はもちろんのこと、英米とも異なる、フランス的な特徴であるように私には思われる。今は、そういう神秘的雰囲気のものはもちろんのこと、神秘的テーマを持つ作品についても触れる余裕がないので、足早に通り過ぎることにする。
 メルヘンばかりを取り上げることになってしまうが、次は、ジョージ・マクドナルドの『黄金の鍵』(吉田新一訳・ちくま文庫ほか)を取り上げたい。マクドナルドは神秘的で象徴性の高い童話を数多く書いた作家だが、本編はとりわけ神秘性の強い寓話的作品となっている。
 黄金の鍵を虹の根元から掘り当てた少年が、森の中の賢女の導きを受け、影の落ちてくるもとの国を求めて少女と二人で冒険の旅に出るという物語。きわめて美しく神秘的な虹(目のさめるような、うつくしい、微妙な色が、ひと色ひと色くっきりと見え、全体が一つにあわさって目の前で音もなく燃えさかるようすはじつにみごとであった)がすっくと高く伸び、色の柱一つ一つの中には螺旋があって、美しい影が上っていくというヴィジョンが何よりも印象的だ。そのほかにも象徴的なヴィジョンがちりばめられ、探求をテーマとした神秘文学の中でも、群を抜いて優れている。マクドナルドの作品では、キリスト教的神秘主義の説教臭が感じられることはあるが、それを上回る想像力が、作品を救っている。というよりも、その幻想的なヴィジョンそのものが作品を価値あらしめている。
 デイヴィッド・リンゼイ『アルクトゥールスへの旅』(中村保男・中村正明訳・サンリオSF文庫)は探索の過程をSFの形で描こうとした異色作である。
 マスカルはサーターの後を追いかけるというナイトスポーとクラッグの計画に乗り、アルクトゥールスの惑星トーマンスに行く。心臓から生えている触手と、第三眼を具備し、この地の女性ジョイウィンドから血液交換をしてもらい、適応を得たのち、世界の探索、そしてクリスタルマンを求める旅に出る……。
 このように要約すると、ほとんど狂気の沙汰のように見えるだろう。もちろん別の内容紹介の仕方もあるが、ここでは敢えてこのような形にしてみた。神秘的思想を披歴するために書かれながら、書き上げられた小説があまりにも常軌を逸したものであったため、教条的な作品となることを拒否してるばかりでなく、神秘思想的なメッセージが読者に何だかよく通じない、わけのわからないものになっているというような怪作である。奔放なイマジネーションによって幻想に満ちた世界が描かれていき、最後には神秘体験と悟りの世界に突入してしまう。そのヴィジョンが圧倒的に迫ってくる、とにかく類を見ない作品である。小説としては評価のしようもないが、私はこれを戦闘的神秘主義文学とでも名付けたいと思う。
 マクドナルドを再評価し、リンゼイを拾い上げたC・S・ルイスは、神秘的なものに強い感受性のあった作家で、『ナルニア国ものがたり』のようなものでも、随所で神秘的な世界認識を見せている。彼の作品は、しかしあまりにも図式的、説明的なところがあって、豊かなイメージが語られていても、そのせいで台なしになってしまうようなところがある。ルイスが神秘的なものを最も直接的な形で描いたのは、《神学的SF三部作》(中村妙子訳・ちくま文庫)と呼ばれるものだろう。『沈黙の惑星を離れて』『金星への旅』は、『アルクトゥールスへの旅』を思わせる設定である。それぞれ、アダムとイヴの堕落を知らない世界、これからアダムとイヴが君臨しようとしている世界を描き、そこで探索の旅を展開し、悪の影と戦う主人公を描いている。全体の構想にはグノーシス主義的なものも見え、神学的な見解がしきりと語られはするものの、異界のありさまをイメージ豊かに描こうと、心を砕いているさまが見て取れる。
 最終巻である『かの忌まわしき砦』は、多少趣が違っていて、地球を舞台に、狂信的科学者集団との対決を描いている。漁夫王とマーリンをモチーフにして、神話的時間を現代へと引きずり込もうとしているのだが、物語設定上、どうしても異和感があ。要するにバカらしい感じがしてしまい、成功した作品とは言い難い。C・S・ルイスは、本人はもっと小説らしい小説が書きたいのだろう。だが、この三部作にしても、「ドグマを書きたいわけではなく、まずイメージがあるのだ」といったことをわざわざ公言して、ドグマティック、説教的といった非難に対抗しなければならなかった。神秘思想の披歴を第一に目指しているつもりもないのに、そのように見做されたC・S・ルイスは、リンゼイのように、神秘思想を語ろうとして物語を構築しているのに、そのようにはまったく見えない作家が、きっとうらやましかったのではないだろうか。
 ところで、探索というテーマは、ファンタジーにおいては重要なテーマである。しかしそれがそのまま神秘的探索であるとは限らない。というよりもむしろ、たいていは神秘とは縁もゆかりもないのだが、時にはどことなく神秘めいているという場合もある。例えばロード・ダンセイニ『エルフランドの女王』(沖積舎)やウィリアム・モリス『世界の果ての泉』(晶文社)などはそうした作品だろうが、ここではあえて取り上げない。もっと直截に神秘的なものに限定しないと、私の頭が混乱してしまうからである。
 さて、次には、トールキンの短篇「ニグルの木の葉」(猪熊葉子訳・岩波少年文庫)を見てみよう。先頃、トールキンの描いた中つ国などの風景を集めた書籍が翻訳刊行され、彼のヴィジョナリイとしての資質をはっきりと見せてくれたが、この短篇はトールキンのそうした側面とともに、宗教的な一面を感じさせる作品である。「ニグルの木の葉」は「星をのんだかじや」と並んで、芸術家(ファンタジスト)の寓話であるとも言われるが、それに留まらぬ神秘性を私は感じる。
 絵描きのニグルは生活のあいまに木の絵を描いていた。それは木の葉一枚一枚が書き分けられた巨大な木の絵にいつしか成長した。やがてニグルは死に、自分の木の絵の世界に住まうのだが……。
 煉獄の魂を描いた作品と要約しても、ほとんど意味がない。ニグルの木は、彼岸では、鏡の中に見るようにおぼろにではなく、はっきりと実在している。そして、「巨大な木の花々は炎のように燃えていた。鳥という鳥が空に舞い、歌っていた」。そのまばゆいばかりの実在性が、この作品の魅力となっている。
 神智学に傾倒していたミヒャエル・エンデは、短篇集『自由の牢獄』(丘沢静也訳・岩波書店)に、反対の一致をユーモラスに描いた作品や、彼岸の憧れを象徴的に描いた作品を収めている。「道しるべの伝説」は彼方の世界へと至る道を見つけたヒエロニムスが、そこへの道しるべを作り続けたという神秘的寓話である。エンデの寓話性の強さは、人によっては鼻につくかもしれないが、私はどちらかといえば好きだ。未完の断片を収めた『だれでもない庭』(同)にも、いかにもエンデらしい神秘的寓話の断片があって、心惹かれた。

●神秘体験と文学●


 神秘思想をもとにした小説の中でも、現実に神秘的な体験をして、それを文学として描こうとしたもの、また、神秘体験をテーマとして作品を構築しているものをここではいくつか紹介したい。神秘体験は、例えば65号で大滝啓裕が自らの体験を記しているように、きわめて稀なものだというわけでもない。だが、個々人にとってはやはり特殊な体験であり、それを自分の中でどう位置づけるのかが、重要な問題になる場合もある。それが人生を変えてしまうことが現実にあるということは、ネルヴァルやディックの例からも明らかである。神秘主義のこうした側面を無視して、それを論じることは出来ないだろう。
 「夢はもうひとつの生である」という有名な一文で始まるネルヴァル『オーレリア』(篠田知和基訳・思潮社)は、夢の啓示によって人生を変えられてしまった体験が描かれている。夢は彼岸と此岸とを結び、啓示を与えるものであり、神秘体験に等しい。だが夢のヴィジョンそのものは描かれず、あるいはわずかに触れられても、すぐにその解釈へと話は移ってしまう。結局、宗教的な理解だけが蜿々と語られる、一種のオカルト小説になってしまっている。澁澤龍彦はこの作品について、あまりにも宗教的で、コント・ファンタスティークとしてのおもしろさがない、文学としてどうかしらと言っているが、まったくその通りだと思う。
 アーサー・マッケンはその晩年に神秘体験をし、一種独特の、現実の中に神秘が顕現してくるような、小品をいくつか書くことになった。例えば田舎町の祭壇に聖杯が出現して馥郁たる香りが漂う、という「大いなる来復」(創元推理文庫『怪奇クラブ』)のような、魅力のあるエッセイめいた小品である。マッケンは、オカルト思想の絵解きのようなことはしない。むしろ前半生で、そういう絵解きめいたものと怪奇とを結びつけた、怪奇幻想文学をものしてきたのであり、そんなものは、現実の体験を経た後では書けなくなってしまったのだろう。トマス・アクィナスは生涯の終わりに当たって、これまでの自分の神学的著作物を無に帰してしまうような体験を神によって味わわされたと語った。神はいかなる人間的想像をも認識をも超えるので、神が直接に示してくれるものはすべてそうならざるを得ないからだ。マッケンのことを思うと、天使博士の、この感動的な言葉を私は思い出すのである。
 フィリップ・K・ディックもまた生涯の後半に神秘体験を得、彼の場合はネルヴァルのように、そこから神秘思想の体系を打ち立てて、そしてさらにこれがディック独特だと思うのだが、SF小説として表現した。その結実である『ヴァリス』『聖なる侵入』(大滝啓裕訳・創元推理文庫)が『オーレリア』と異なるのは、あくまでもエンターテインメントSFとして表現しようとして、ある程度はそれに成功しているところだと言えよう。教条的であるよりは、ディックの作品はむしろ狂気を感じさせ、だからおもしろいという側面もあるだろう。
 ファットは女友達の死後、神に会う体験をし、形而上学的論理を打ち立てるようになる。時空を越えてファットはトマスでもあるという感覚を得る。そんなとき『VALIS』という映画を見る。そこには時空を越えて我々を支配できるヴァリス(究極の情報、ピンク色の光線で我々に何かを伝える)のことが描かれていた。ファットは自らの使命に気付く……。続編では、およそ二百年後の世界を舞台に、処女受胎によって外宇宙で生れた少年イマヌエルが自己の本質に目覚めていくというもので、救世主誕生の物語になっている。
 この作品における世界観は、グノーシス主義に近いもので、それまでのディックのSF作品の傾向からしても、その方向性へ行くのは無理がないと感じる。『ヴァリス』には、ともかくもさまざまな宗教的、神秘的知識がこれもかとばかりに詰め込まれており、訳者が詳細な注を付している。神秘体験そのものについても記しているが、それよりも、その体験からこうした物語を構築してしまうことの方が、驚異的である。

 さて、女性神秘家の神秘体験について、前に触れたが、忘我の境地に陥り、神を観、聖痕を現し……といったエクスタティックな女性神秘家は数多く歴史にその名を残している。しかし、神秘体験の真実性が外部からは明らかにならない場合があり、たとえ聖痕などを現しても、時には神の徴ではなく、悪魔の来襲であると見做される場合もある。それは彼女にとっては、人生を左右するような問題であったにちがいない。女性神秘家たちが自らの体験の表出に慎重であったのと同じ理由で、秘して表に出さなかった例もあるだろうし、体験を否定された例も数多くあったろう。そうしたときの彼女たちの心身の不安定さは、作家たちの想像力を刺激するテーマであるように思われる。例えば 篠田真由美は、異世界を舞台にした連作短篇の一つ「聖心臓」(祥伝社『幻想建築術』)で、聖堂に暮らす老女が神を幻視するという物語を語った。老女には現実であるものが、他者には妄想でしかなく、老女の恍惚は、他者の目には狂気と映る。その真否定かならぬ境界的な状況を、エクスタティックに描き出している。
 ロン・ハンセン『恍惚のマリエット』(安達まみ訳・白水社)でも、同様の真否のわからぬ世界が描かれている。二十世紀初頭の女子修道院を舞台に、神秘体験に陥る典型的なタイプである少女マリエットは、聖痕を現し、キリストをそこかしこに幻視する。彼女を、ある者は芝居、あるいはヒステリーと見做し、ある者は聖女と見做す。マリエットにとっては疑うようなことではないにもかかわらず……。
 この作品は、神秘体験が表出されたときに、人はどのように動くのかを、映画のシナリオのような簡潔な書き方で示しており、作品としての神秘性は薄い。しかし神秘体験を直接的に扱って信仰というテーマに迫った珍しい作品である。
 ブライアン・ムーア『コールド・へヴン』(福武書店)は、神秘体験によって啓示を受けた女性が、それを無視してしまう。すると、あたかも召命を受けながらそれを拒み続けるユタに次々と災難が降りかかるかのように、超自然的な現象に襲われ、彼女は次第に錯乱的になってゆく……。
 この物語では、神秘体験の意味が、上に挙げた二作品とは異なっていて、あくまでも上方からの一方通行のものになっている。この解釈は、いわゆる神秘主義とはまったく異なるもので、結末もご都合主義というほかない。ともあれ、こうした設定で、ミステリ風のエンターテインメントを書いてしまおうという発想そのものはユニークだ。
 忘我の境地に陥る女性神秘家たちの系譜は連綿と続き、やがて十七世紀になると、クエーカー教徒と呼ばれる分派を生む。そしてクエーカーの中からシェーカーが生れてくる。どちらも忘我の境地に入って体を震わせるところからつけられた俗称である。ジョン・ファウルズ『マゴット』(植松みどり訳・国書刊行会)は、シェーカーの教祖アン・リー誕生の経緯を描いた作品――とは言っても、アン・リー自身ではなく、その母の神秘体験を描いたものだ。
 ある貴族の御曹司の失踪事件を、堅物の実務家である弁護士が、参考人たちを取り調べていくという形で描かれている。さまざまな証言や新聞記事などで構成され、一種のミステリとなっている。元娼婦のレベッカは、とある役をこなすという名目で雇われる。奇妙な要求に応えていくうち、レベッカ自身が何かのために求められていたことがわかる……。
 ヒロインのレベッカは意識の変革を余儀なくされるわけだが、その過程をこそ描こうとしている点に、ファウルズの作家としての焦点があるように思われる。しかし、神秘体験の肝腎な部分は謎めいた書き方で、何がどうなっているのか、厳密なところはよくわからない。神の出現めいた神秘体験は、どちらかといえば当たり前で今一つという印象がある。むしろ、よくわからない部分、つまりマゴットに乗ってからの何とも不思議で奇妙な展開が、何だかよく分からないだけに、印象に残る。
 ターハル・ベン=ジェルーン『あやまちの夜』(菊地有子訳・紀伊国屋書店)は、幾層もの語りのレヴェルが用意されているメタフィクショナルな作品だが、神秘体験という視点からも読むことが出来る。
 祖父の死んだ日に早産で産まれたジーナは、初潮前には放心状態となって、雲の上にある死者のいる中間世界を訪れることがあった。ジーナは、その後も井戸の精霊の声を聞いたりするが、輪姦によって穢される体験を経て、魔性の女であると同時に聖女でもある存在になっていく。
 ジーナは、エロティシズムと宗教性とを併せ持ち、人を狂わせる存在である。とはいえ、彼女そのものが神秘的に描かれているわけではなく、彼女の語りの中では、神秘的な体験が描かれている。例えば金庫の中にしまわれている「光」を見るエピソード、最後の雲の上の訪などで、神秘を垣間見せる。
 少し変わったところで、カフカの未完の短篇「ある犬の研究」(池内紀訳・白水社『カフカ全集6』)などという作品もある。ある犬の生涯の記録だが、彼は極限状況で神秘体験をして、人生を変えてしまうのである。一種の冗談小説でもあろうが、犬の心理と神秘体験の展開は、ごく真っ当で説得力がある。だが、もちろん神秘のしの字も作中には見えないので、そのようには読まないという人もいるだろう。
 カフカのアフォリズムの中には、神秘に言及したものがあるが、そうしたものへの適度な距離感があり、神秘主義者というようなものでなかったことは確かだろう。『審判』や『失踪』は、私には神秘性のいくぶんか感じられる物語だが、それもユダヤ教との関連性で考えるなら、取り立てて言うほどのものではないのかもしれない。
 『蝿の王』で知られたノーベル賞作家ゴールディングにも神秘体験を描いた作品がある。『可視の闇』(開文社出版)という、きわめてインパクトの強い作品である。
 空爆によって、生きているのが不思議なほどの火傷を負ったマティは、知恵遅れで、愚直だが、どことなく人に不快感を与える人間に育った。マティは、オーストラリアの砂漠でアボリジニに邂逅し、磔めいた状況に陥る。この体験のショックから、やがて自ら再洗礼の儀式を執り行なうことになる。その後イギリスに戻ったマティは、霊たちの訪いを受ける幻視者となるが……。
 『可視の闇』ではマティばかりでなく、愛を知らずに育った双子の姉妹や語り手など、さまざまな人物が登場し、交錯する。『蝿の王』と同様に、いろいろな読み取り方が可能な作品で、訳者は、神秘体験に対してはゴールディングは懐疑的、と見ているようだが、私はそうは思わない。むしろ、神秘的なものの測りがたさ、とらえどころのなさが表現されていると見る。現代で神秘の顕現がどのように可能かということも、真剣に考察されていると思う。
次につづく

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