Isidora’s Page
水の道標

本と出版①    2004.02

●出版危機●

バブル崩壊後、出版界はかなり危機的な状況にあると思う。本を作るということについて、あるいは自分自身が文筆業に関わっているということも含めて、どのような未来を思い描いたらいいのかもわからないし、私個人に何ができるわけでもないが、もう一度、出版の現状を見直しておきたいと思う。これまでに言ったのと同じことを繰り返すかもしれないし、『幻想文学』を終刊にせざるを得なかったことについての言い訳めいてしまうところもあるかもしれないが、容赦されたい。
                  *
 昨年は、書籍の刊行点数が八万を越えたという。この中には重版分も含まれているから、すべて純然たる新刊というわけではないが、それでも、新刊が多くの部分を占めることは確かだ。とにかく新しい本が次々と出る。ほとんどヒステリカルなまでの新刊ラッシュ。その一方で、ロングセラーが売れなくなったというのもよく聞く話だ。膨大な新刊のせいで、棚が確保できないせいなのか、それとも旧刊が売れなくなったから新刊を出さざるを得なくなったのか、鶏と卵にも似ている話だけれども、私の思うに、旧刊が売れなくなったことから始まるイタチごっこなのだろう。この刊行点数の異様な増大は、出版界の末期的症状なのではないかと思う。
 硬派系の、歴史のある出版社、例えばみすず書房や人文書院などでは、ロングセラーが売れないということの悩みは大きい。以前ならそれなりの部数を長年かけて売ってきたものだが、それが難しくなっている。新刊の売りきりということでは勝負にならないのである。勢い、定価を上げざるを得ない。さらに売れない。という負のスパイラルが起きる。『本とコンピュータ』によれば、この現象は、ドイツやフランスなどでも似たようなものらしい。ドイツでも、英米のベストセラーの翻訳は売れるけれども、それ以外の母国語や各国語の翻訳は千部にも満たない。フランスでは平均発行部数は2000部から800部に減っているという。どこでも本は売れていないのだ。ベストセラー型の本に押され、地味な本は世界的に売れないし、売りにくくなっているのである。
 それにしても、この新刊の洪水は、どのようにして始まったのだろうか。取りあえず、出版科研による刊行点数、売上高等の統計を見てみよう。五年ごとのものにしてある。
*1948年までは全刊行点数
書籍刊行点数 定価(円) 発行部数(万冊) 返品(%) 売上高(万円)
1945 658        
1948 26,063        
1950 13,009 203      
1952 17,306 226 14,298 21 2,552,765
1955 13,042 309 14,000 28 2,495,848
1960 13,122 441 16,350 35 3,387,575
1965 14,238 821 30,890 36 10,975,478
1970 18,754 1,275 52,380 35 22,010,294
1975 22,727 2,394 73,320 30 49,120,147
1980 27,891 2,635 105,850 34 68,743,224
1985 31,221 2,833 129,948 39.5 71,298,397
1990 40,576 2,764 139,381 33.9 84,944,641
1995 58,310 2,977 149,778 35.4 104,980,900
2000 65,065 2,963 141,986 39 101,521,126
雑誌刊行点数 定価(円) 発行部数(万冊) 返品(%) 売上高(万円)
1945 1,831        
1948 6,778        
1950 1,537        
1952 1,201 90 34,000 20 2,448,000
1955 1,371 106 36,000 22 2,967,214
1960 1,963 85 98,600 21 6,576,670
1965 2,172 124 124,496 21 10,938,389
1970 2,319 165 187,325 21 24,599,163
1975 2,750 263 234,672 21 48,820,833
1980 3,325 330 301,760 23 66,543,064
1985 3,683 353 381,240 23.5 102,951,956
1990 3,889 365 449,319 20.6 130,217,319
1995 4,178 408 511,650 25.5 155,552,134
2000 4,533 433 487,704 29 149,723,665

 この資料を見れば、バブルと期を一にしていることは明らかだ。しかし、実際には、そのずっと前から始まっていたのにちがいない(註①)
 1972年、私が小六の時の毎日新聞の読書調査では、「洪水のごとく満ちあふれた本の中で、どれくらいの本を読んでいるのだろうか」という疑問が呈されている。要するに、本は、経済成長と共に過剰供給の傾向があったのである。それは日本のその他の産物と変わるところがないのかもしれないが、本の場合は特殊な面もあった。個々の書物はまったく違うものだから、いろいろな本が出ていることは、読者にとっては選択肢が広がることであり、文化的な豊かさの尺度でもある、という幻想が持たれたことである。このような幻想があり、書物は尊ばれるものであったために、多数の本が出ていることに大きな疑問を抱くことはなかったように思われる。
 個々の本が異なる、ということはまったくの幻想である。出版界も他の産業同様、売れそうなものを造ろうとするのである。携帯電話が流行すれば、各社がしのぎを削っていろいろな機種を生産するように、似たり寄ったりのものを造って読者(利益)を分け合う(奪いあう)というのがごく一般的だ。実は本もほかの消費財と同質なのである。読者の選択肢は確かに広がるかもしれないが、現実には、自分が興味がありそうなすべての本の資料に目を通して、本当に欲しいものが入手できるという仕組みにはなっていないため、選択肢が刊行点数の拡大ほどに広がっているとは言い難い。文化的な豊かさと本の量とはほとんど関係のないことだ。もっとも社会全体が豊かだとは言えるだろう。売れない本はやがてただの紙ゴミとなる。『幻想文学』も在庫分は新古書としては流通させず、処分する予定である。量があるので、一般廃棄物ではなく、産業廃棄物となる。これが出版の現実だ。
 何だか話が逸れたが、とにもかくにも、新刊は増え続けている。本というものは、典型的な多品種少量生産、しかも完全な見込み生産だから、売れないものを作ってしまうのは日常茶飯事である。新刊が増えれば、その確率もまた上がらざるを得ない(継続販売は実績があるからできることで、ある程度の保証が期待できる)。本の返品率は、現在平均4割の水準にあるが、現実には8割の返本を喰らうところだってあるだろう。実際、大書店に行くと、誰が買うんだこんなもの、というような本が置いてあったりするわけだ。でも置いてあると誰かが何となく買うのだろう、すべてが返品だったという話も聞かないから。
 本の業界ではマーケティングもやっているんだかいないんだかわからない。というか、だいたいこういう傾向のものは売れるというのは経験的にわかっているのだが、しかし、そういうものが作れるとは限らないし、また「売れそうな本」が本当にヒットするかどうかは運にすぎないので、たぶん真剣なマーケティングの対象となることがないのだろう。読書が趣味という人に、どんな本が読みたいかと聞いたところで、面白い本、ためになる本といった答が返ってくるだけなのはわかりきったことだし、細かいニーズに応えようとすると、あまりにも千差万別であるために収拾がつかず(つまり極端な少部数になってしまい)、動きがとれないというのが、本の業界であると思う。
 もともとそんなには売れない業界であるのに、この異様な新刊ラッシュ。これでは出版業界全体が危うい。本当の大手ですら、どうなるかは予断を許さないと思う。
                  *
 本の刊行点数は、この10年間で倍増している。しかし、売り上げは減っている。定価も微増しているから、その分、実質的にマイナス成長であり、売れないから出すという完全な悪循環である。
 本の販売の仕組みは変わっていて、出版社は、売れなくても、とにかく納品分はお金が入ることになっている(あくまでも一般的な話をする)。返品分はあとで差し引くので、とにかく新刊を出し続けていくかぎり、いくばくかずつお金が入って、資金繰りが可能になるのだ。二千円の本を卸会社(トーハン、日販など。出版界では取次と言う)に五千冊納品すると、およそ6~7割分の代金が回収できる。約650万。(小売がおよそ3割、取次が5分だが、書店がどんなに薄利多売の商売であるか、わかろうというものだ。『幻想文学』などは一冊売れても450円にしかならないのであり、三ヶ月も置いて二冊しか売れない、などということになったら、書店に申し訳なくて仕方がない。)平均的な返品率が35%だから、実質的には420万しか売れていないが、差額の230万が差し引かれるのは将来のことだから、それまでのあいだに新刊をまた出してしまえば、その差額分はあたかもなかったかのようになるのである。そのようにして自転車操業を続けるが、返品率が高ければ、新刊点数を増やさねば、資金繰りがつかなくなる。このようにして、刊行点数は増えていく。
 『幻想文学』では、刊行ペースが緩慢であること(この十年間は、東は企画を立てて執筆者に依頼をするのが主で、私がDTPを含めて余の実務のほぼすべてを行うという形であったため、とてもではないがスピーディには出せなかった。『幻想文学』は手間ひまのかかる雑誌である)、単行本が本当に嘆かわしいほど売れないこともあり、自転車操業というのは、まったく問題外であった。『幻想文学』が、採算割れを起こせば、単純にそれで終りである。ほかで補填がきくわけではないので、きわめて厳しい経営環境であり(もともとは私が悪いのだが)、むしろこの10年間、『幻想文学』だけで続けてきたことが驚異なのである。というか、私は無理を押し通したのである。無理しすぎてしまったという後悔は多少あるが、仕方ない。生きていくというのは、こんなものだ。出版業界全体も似たような運命を持っているのではないだろうか。
 さて、一般の出版社では、刊行点数を増やしたからといって、社員を増やしていたのではどうにもならないので、一人一人の編集者の月当たりのノルマは増える。編集者の仕事も雑になって当たり前であろう。外注も増える。とはいえ一冊にコストがかけられないのだから、編プロも薄利多売の世界になっている。
 また、書店はこの返品前の差額分を払わされているという恰好だ。細かい仕組みを言えば、単純にそうとも言えないのだが、しかし、基本的には、棚にある本の分だけ、彼らは出版社を支えているのだと言える。
 ところがその書店はこの十年間、毎年千軒とも言われる勢いで倒産、あるいは廃業している。小さい「町の本屋さん」ほど出版不況の打撃は大きく、店主の加齢とともに店をあきらめてしまう。新刊書店はピーク時(1988年ごろ)でも二万五千軒ほどだから、一万店も廃業するというのは、かなり言語を絶することだ。出版社にも当然打撃があってしかるべきだが、それを上回る大規模店の開店があるために、返品と納品の帳尻を合わせていられるのである。まったく恐ろしい。 結局のところ、書店数は二万数千で若干減というところ。だが、床面積は逆に増えている。1972年には24万坪だったものが1991年には66万坪、98年には130万坪にもなっている。その後は売り上げ高の低下につれて減少、今は120万坪ぐらいらしい。
 こうして書店の店内に、返品可能性がある、しかもその分の売り上げはもらってしまっている書籍が、単純計算で6000億ぐらいあることになる。書籍雑誌の売上高は、3兆に満たないから、これは、たいへんなことである。実際には出版社・取次・書店のあいだの金勘定は、さまざまなことがあってややこしいので、こんなに単純にはいかないのだが、それでもこれがどんなに異常なことかはわかっていただけるのではないだろうか。
 さて、本・雑誌の売上のピークは一般に1996年だとされている。2兆6980億円である。しかし、先年亡くなった出版評論家・小林一博『出版大崩壊』によると、この書店の売り場面積の拡大が、売上を覆い隠しているという。つまり、出版科研のこの売上高統計は、書店の在庫分を売り上げに含んだ計算になっているのだという。書店は、90年代の10年間で倍増にもなるほど増床しているわけだから、その分はあくまでも返品可能性のある、売れてはいない本なのである。小林は、90年代の初めは年に200億、後半は500億くらいずつ書店在庫が増えているものと考え(持ち越しの古い在庫もあるばずだから)、1989年ぐらいをピークに実は売上が減少に転じているのではないかというふうに言っている。
 これは、『幻想文学』の販売実績とも、みごとなほどに呼応する。大方の出版者の感触とも一致するのではないだろうか。
 さて、初めにも述べたように、2003年の新刊点数は8万点を越えた。1996年のピーク時でさえ6万点、一昨年は7万1千点だった。この増え方はまったく尋常ではないということは、図を一覧していただければおわかりだろう。
 読者の需要も何も考えずに、とにかく会社をつぶさないため、粗製乱造している。これが出版界の現実である。読者の側の問題はまたあとで考えることするが、出版社は、売れないのなら、このようにバブリーな行為に走るのではなく、もっと別のことを考えるべきだったのだ。とは言っても、何がある、と聞かれると困ってしまうのだが。
                 *
 出版社の中で最も刊行点数が多いのは、断トツで講談社である。次いで自費出版の文芸社。DTPの発達によって自費出版が安く出来るようになったことが、ゴミの量を増やすことになっている。角川書店、小学館、集英社、岩波書店、学研、新潮社、ハーレクイン、PHP研究所と続く。大企業であればあるだけ維持費もかかるから、一冊ごとが売れないなら、売上高を守るために刊行点数を増やそうというのは、まったく自然な考え方である。しかし、経営的な工夫が何もない、近視眼的で視野の狭い、努力のあとが見られない態度だとも言えそうだ。社内の人間ではないので本当のところはわからないが、1996年と2000年を比べれば現実に増えているのだから、対症療法としてそのような行動を取ったのだろうと推測するに難くない。わずか四年で10%増ということは、ほかにもいろいろとやった努力の末の結果とはあまり見えない。
 聞くところによれば、偕成社は、現在、社の方針で、新刊の刊行点数を抑え、旧刊を継続的に売ろうという努力をしているという。少子化時代とはいえ、学校の図書室に本を買ってもらえる児童書の出版社の優雅さとも言えるが、それでもやはりそうした姿勢は評価されるべきことではないだろうか。
 このような地道な努力を業界全体がすれば、事態はもう少しマシになるようにも思うのだが、今はとにかくあまりにも不景気な状態であるため、下手に動けないということもあるかもしれない。
 出版業界の、とてつもない危うさは、その返品の凄さにも現れている。上の資料では、刊行冊数に返品率をかけると返品の冊数がわかる。雑誌ですら3割の返品があり、冊数は16億冊にものぼる。ほとんどは断裁処分なのだと思う。書籍は5億冊以上だが、雑誌とは異なり、すべてが裁断されるわけではない。どちらにせよ、資源の無駄遣いなどというレヴェルの話ではない。運送経費、納入と返品に関わる人々の手間賃、いろいろな点で無駄である。もしも、売れ残ったらその分を書店がかぶって廃棄するという制度だったなら、こんなことにはならなかったかもしれない。だが、出版社が地味な良い本を出せたのも、この一律の定価を維持する再販制と返品お構いなしのおかげだという認識が強いため(本当はそんなことはないと思う。再販制と返品の維持は、書店・出版社双方の甘えの構造である。本当にやる気になればこの制度は必要ない。口で言うほど易しくないことは身をもって体験しているが、決して無理なことではないと思う。ただしやはり体力のない小さい出版社は大打撃を受けるだろう)、いまだにこのことに関しては決着を見ない。実際、再販・返品制度がなければ、大型店の出店もなく、別の形での淘汰が進んだことだろう。今後、制度的にもどのように動いていくのかはよくわからないが、このように出版界全体がバブルで膨れ上がっているような状況では、再販の廃止は不可能ではあるまいか。
 書籍の返品率が四割になったということをもっと真剣に考えるべきだ。いったいどうしたらこの状況を打破できるのかわからないが、書籍業界全体の大難問であることは確かだ。私は経営者としては肝っ玉が小さく、返品率が年々上がっていくことには耐えられなかった。返品率数パーセントから商売を始めた者には、30%は、とてもではないが、限界を超えていた。私は、ほかの出版社の人たちが、平気で四割もの返品(ものによっては八割いくこともあるという)を受け付けている、その感覚が理解できない。
 また、日本は先進諸国の中でも、出版社の数が異様に多いが、それも吸収合併という形で生き残っていくという戦略が全くと言っていいほど取られなかったからで、むしろ、さまざまな会社から編集者が外に出て新しく出版社を興す(例えば光文社からゴマ書房、角川書店から幻冬舎)というような傾向があり、知力体力ともに分散しがちである。圧倒的に巨大なトーハンという組織に勝てない。
 もちろん小さい会社がたくさんあるのは悪いことではない。本はいまだに特権的な製造品であり、下手に大きな組織ばかりになれば、権力の偏り、出版物の傾向の偏りという事態が起きてくるにちがいない(アメリカを見よ)。つまり、出版物の自由度が低くなり、権力の道具にされる可能性が高くなる。大衆迎合の傾向にはとめどがなくなる。
 もっともそんな心配より、中堅どころの良書の出版社がつぶれてしまう方が問題ではないだろうか。緩やかな連合などではなく、もっと積極的に吸収・合併をして、生き残りを計るべきだと私は思う。もちろんこれについても、多くの問題はあるだろうが、一つの可能性のある道ではあると思う。
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 出版社の本造りは、基本的に文化事業としては認められていない。つまらないオブジェや陶器を田舎で造っている人間を支援しようというプロジェクトはあっても、良い出版社に対する支援はないからだ。財団法人などの団体にはもちろんお金が回るし、そこでの出版事業はある。また地方自治体自身が出版を手がけることもあり、これは文化的事業と位置づけられるが、しかし、出版全体を、本当に自国の文化として保護していこうなどという考えはどこにもない。出版社の内部にはそう思う人もいるだろうが、しかし、基本的には出版人自身も、自分たちが文化的事業をしているとはあまり思っていないのではあるまいか。もっとも、売れなければ意味がないというような幻冬舎の社長の高飛車な発言はどうかと思う。例えば、1万部作って45%の返品で採算割れ。そんな読者に必要とされない本を作った編集者が悪いとこの社長は言う。確かにその本は、買った読者にとっても真に必要な本ではなかったかもしれない。だがそんなことは本ではしょっちゅう起きていることだ。5500部が売れたのなら、とにもかくにもそれだけの読者はいたということだ。その数千人を、読者がいなかったのと同じことと見なすというのは、ずいぶんと読者に対して失礼な話ではあるまいか。だいたい、5500人しか読者がいないのに過剰に刷ったのなら、明らかに営業サイドが悪いのであって、小さな出版社では、ほとんどの場合、その統括者は社長だから、すべての責任が社長に行くはずだ。確かに幻冬舎はベストセラーを頻発するから、大した会社だし、社長はそれなりの辣腕家なのだろう。だが、売れれば社長の手腕で、売れない場合は編集者の甘さのせいだというのではあんまりだろう。そもそも5500人の読者は「いない読者」だろうか?
 もともと4000部を基本としてきた『幻想文学』は、存在しない読者を相手にしていたのか。もちろん、そんなことはあり得ない。
 出版の金勘定をしていると、千冊単位でしかものが考えられなくなるから、読者一人ひとりは、とても見えにくくなる。また、編集をしていても、読者は想像の中にしかいないから、見えにくいというよりも、ほとんど見えていないというほうが正しいだろう。読者カードなどで、読者の声に接することがなければ、読者がいることすら信じられなくなることだって、確かにある。本が売れないということはそういう感覚をもたらすものだ。
 私自身も、幻冬舎の社長のように、売れないものは要望がないもの、読者には不要なものと考えている。採算割れをしてしまうのなら、不要だという考えは、確かに正しい。でも、5500部も売れていて、読者がいない、という考え方は、徹底した多品種少量生産である出版の考え方には馴染まない。採算割れをせずに、6000部くらいの刷り部数で作り、とにかくいるはずの読者に届けるということをすべきなのである。難しいことはわかっているけれども、これからは、そうでなくてはいけない。返品の拡大は業界をどこもかしこも圧迫するばかりなのだから。
 もともと、本当に必要な本などはないのだから、売れる物以外は作るな、という考え方は納得できる考え方の一つではある。でも売れるというのはどういうことだろうか。売れる本というのはたくさんの人が欲する本ということだが、本というものは元来プライヴェートなものであって、ほかの人と同じでいい、と思うようなものではないのである。いらないと言ったらほとんどの本は私にはいらないが、どうしてもなくちゃいやだという本がある。もちろん初めから何もなければ、なくちゃいやだと思うこともないのだが、人間のこれまでの印刷と出版の歴史はそれを許さない。そして「なくちゃいやだ」の本は、読書家一人ひとりにあるはずで、しかもそれは千差万別なのである。本が多品種少量生産にならざるを得ないゆえんである。
 読書家、そう、このマイナーな出版界を本当のところ支えているのは、そういう自分だけの本をちまちまと買い続ける読書家なのではないだろうか(註②)。ミリオンセラーは、今や出版界の救世主とはならない。ベストセラー以外にも、変わった本を買う読書家がいてこそ、5500部しか売れないような本を買う読者がいるからこそ、この業界は成り立っているのではないか。出版者は、読者に対しても、それを単なる数と見なすことをやめ、謙虚になるべきなのではないだろうか。その発想を持てば、新刊ラッシュがどんなに読者をバカにしている行為であるかわかるだろう。
 しかし私はここでふと思う。豊かな経済というものが、そのように消費者を根本的には侮ることで成り立っているのではないかと。ことは出版に限らない。すべての分野でそうなのではないかと思われてくるのである。(次につづく

註①『カレル・チャペックのごあいさつ』という1930年代のエッセイ集を読んでいたら、そのころ既に出版不況の話が出ている。いわく、刊行点数が多過ぎる。あるいは過剰供給は近代と共に始まるのだろうか。
註②有里さんの日記に、その傍証となるようなデータとご意見が掲載されている。興味のある方はここからぜひ!

★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★