Isidora’s Page
水の道標

◆『アムネジア』――あなたはそれを探してはならない◆(2010.08)

    Ⅱ 裂け目
 上の説に従えば、虚空を墜ち続ける手の届かない本とは、伶を主人公とした物語のことになるだろう。あるいは物語化された人生の象徴。それはつかみとることができない。人生の物語化は蜃気楼のようなもので、実体がない。『アムネジア』が定型的な物語になっていないのも、そのような物語化を拒否しているがゆえだと言えるだろう。
 そもそも、自分を中心とした物語を構築することは、どんな物語であれ、問題を孕んでいる。事後的に物語化するのであれば、まだしも害は小さいが、物語を生きているような錯覚は、時として悲劇を生む。〈自分探し幻想〉などもその典型例の一つだが、現代の日本では、この病に多くの人が冒され、生きることそのものの喜びを見失っている。人は生まれてしまったから生きる、それだけの存在だが、それでも生きていくのに不足はない。
 とはいえ、こうしたテーマを語るのに、なにも『アムネジア』のような複雑怪奇な作品にしなくてもよいのではないか? もっともな疑問である。そこで、視点を変え、『アムネジア』が通常の物語となること妨げている、もう一つの要素である〈裂け目〉について見ていこう。
〈裂け目〉とは、非日常的・非合理な要素の侵入あるいは、伶自身の意識の変容が現れているところを、今、便宜的に指している。侵入と変容の両面は、『アムネジア』の視点人物が伶であるからには、分かちがたく結びついている。このことを非常に地上的に解釈すると、伶の意識の変容とはすなわち狂気であり、非日常的・非合理な要素は狂気が生み出した妄想でしかない、ということになるだろう。そもそも、この作品が、伶、もしくは伶の代理人によって書かれたことがエピローグで附記されているからには、どんな合理的な解釈を与えることもできる。〈信用できない語り手〉は、どこかでごまかしをしていると考えることができるのだから。しかしこうした理屈付けの作業は虚しいので、すべて割愛させていただく。
 まず、最も目立つのが、既に述べた、白塗りの女である。いでたち、唐突なせりふなど、彼女自身が現実を切断して非日常化する存在だ。しかもこの前後で、倉田自身の態度もおかしい。倉田は伶に「目通さしてもらいましたで」と言い、自分のことについてももう少ししっかり書いてくれてもよいのではないか、と話しかける。誰やらと誤解している風情である。女が「なくしたのよ、このひと」と、先に引用したせりふを言うと、「そんな阿呆な話ないやろうが。こっちもそこまで惚けとらんよ」と応じ、女をいなす風である。まもなく、倉田が闇金融や徳部のことを話し出し、読者が期待するような、闇金融関係の人物像になると、女は立ち去って、〈裂け目〉は閉じられてしまう。しかし伶はその時、〈重要な隠された意味が秘められているかもしれないという苛立ちにも似た気分に襲われ〉る。
 女の言葉に囚われた伶は、以後、すべてが〈奇妙な色合いに染まりはじめた〉ように感じる。そして、女の言葉が〈大きな意味をもつはずだという確信めいた思い〉をふくらませていく。そして、〈それならば、思い出さなくてはいけない〉と宣言するまでになる。
 もう一つの大きな〈裂け目〉は、言うまでもなく、昆野たちとの邂逅である。未知のエネルギーを取り込んであたかも永久機関のように作動する発電器を発明したと信じている彼らは、異次元の超越者めいた存在、あるいは異次元そのものとの接触をそれとなく示唆する。異次元とつながることができる昆野は、彼自身が未知のエネルギーの媒介者となるらしい。昆野の仲間たちは、昆野がわずかなガソリンで四百キロを走破すると得意げに語る。「そういうときはね、ぼうっとなって、いつのまにか着いているんだよ、なあ、真ちゃん。眠ってはいないんだけれど、まるで、深い海の中を走っているような感じで……」。
 この部分では、予測の付かない行動を取る、狂った人々と一緒にいることの恐怖が描かれているだけで、超自然的な恐怖が描かれているわけではないにもかかわらず、それと同質の得体の知れない恐怖感がある。昆野たちから解放され、車中の人となった伶が、「明かされる? 全部出る? 山の上の光?」と反芻すると、それらの言葉がもたらすのは超自然的な恐怖感だ。伶の中で、それが人間の狂気とは別の何かと結びついたからだ。そして伶の反芻を読む私たちも、そこから超自然的恐怖を感じ取る。
 まもなく、車を運転する伶は昆野が長距離を走る時と同じような状態になり、露店が立ち並んで祭りでもしているのかと思われるところを走り抜けていく。ここもまた恐ろしいところだ。ここでは、伶自身が〈裂け目〉となっていて、そこから読者は現実の別の相を垣間見るからである。『アムネジア』は、恐怖を主眼とするホラー小説ではない私は考えているが、それでもこの部分を読むと、ホラー小説と言いたい気持ちに駆られる。
 後に理絵が語ったところでは、この時、実際に運転していたのは理絵で、伶は眠っていたのだという。つまり、幽界のようにほのぐらいところを通り抜けながら、物語と現実との境界が崩落していく感覚を味わったのは、夢の中だったのだ。しかし、伶にとっては、それが紛うことない現実であったのだし、読んでいる私たちにとってもそれは同じことで、その恐怖感はリアルなものだ。
 これ以後はもう、〈裂け目〉の連続である。家に帰り着いた伶は、一眠りした後、いやな夢から目覚めると、あの謎の女から電話がかかってくる。浴槽には、病院に送り届けたはずの澤本の死体。そして残されていたメッセージ〈丰〉。爆薬の爆発。読んだ瞬間にはすべて伶の夢ではないかと私には思われたが、次の章で、澤本の死体も爆発も現実だったと知らされる。そしてやはり理絵の証言になるが、このうちのメッセージが記された紙は存在せず、ルージュが塗りたくられた手帳であったという。この経過のほとんど唯一の合理的解釈と思えるものは、すべてが伶の自作自演だが、伶の意識からそのことは抜け落ちている、というものだ。私にはほかの現実的な解釈は思いつけない。しかし、この一見合理的な解釈にしても、伶の信じがたい狂気(二重人格的分裂)を前提とした〈裂け目〉以外のなにものでもない。
 入院中の伶は、倉田重蔵ならぬ倉田卓造の事故死の報に接し、再び、いくつもの死に論理的な整合性を見出そうと努めるが、考えはまとまらない。その時、伶は、理絵が「本当の物語を返してもらわなくてはいけない」と言うのを耳にする。それは伶自身が夢うつつで語った言葉だったが、その言葉を契機に、伶の中で完全な変容が起きる。頭の奥で、花びらのようなものが開いていく。「それはゆっくりと力強く開いていって、頭を内側から逆に包みこみはじめた」。そうして至福感に包まれた伶の前に、すべてが明らかな新しい現実が開き始める……。
 満州時代の徳部を描いたと思しい小説「記憶の書」を読んだ伶は、病院を抜け出し、「手帳」を取り戻すべく、理絵のもとを訪れ、理絵を殺してしまう(実際には未遂)。しかし、伶は理絵と次の生でまた会えるだろう、と考えている。理絵は「アーモンドのような形をした目」だと描写されるが、それは伶が思い出した児童文学に登場するベロニカと同じ特徴だ。徳部の妻は児童文学に登場するもう一人の女だが、同時にベロニカでもあり、謎の女でもある。理絵は「また会えるかな」と言い、謎の女は「また会えてよかった」と言う。「複雑な入れ子になっている」のだとも。こうして、伶の中では、一つの図柄が完成する。伶に関わった謎の女たちは、みんな理絵なのだ。
 伶はまた「記憶の書」に描かれる徳本=徳部をもなぞっている。「手帳」を取り戻そうとするのは、徳本の行動だ。「手帳」を取り戻し、「本」を手に入れなければいけない。……そこに「秘密」が――あるいは〈本当の物語〉があるのだから。「記憶の書」で、徳本に〈共感〉した語り手の医者は、「奈落を一冊の本が繰り返し墜ちていく」様を幻視している。「手を伸ばしてつかもうとするけれども、届かない」。医者の頭の中の本は「闇夜の空、その天頂に向かって墜ちていく」が、これを灼熱の白い空間に変えれば、そのまま冒頭に上げた伶の幻視となる。ここでも「本」が何なのか、具体的には語られていない。ただ墜ちてきた飛行機との関連がほのめかされている。つまり、「本」とは人をオカルト妄想に導く〈神秘的な何か〉だ。
 伶は「手帳」を取り戻すために、再度、徳部の家を訪れる。徳部の妻がそれを手にしていたからだ。徳部の家を初めて訪れたとき、仕事の疲れから睡魔に襲われた伶は、おそらくは無意識に発した自分の質問の声にはっと目覚める。目の前にはそれまでなかったお茶が用意されており、時間が経っていることを示す。今や伶はこう考えている。その失われた時間に、徳部の家の二階で〈発電器〉を見せられ、そのため〈現実が異なった相を開示し始めた〉のだと。確かにこのシーンでは予想外の時間が経っていたことが語られているけれど、そう考える根拠は何もない。
〈裂け目〉を追って『アムネジア』を読んでいけば、あたかも、周囲のできごとに影響されて、一青年が妄想を育て上げていく過程を追った物語のようだ。だが、しかし、これは逆なのだ。私が、そのように読んでいるのである。話が散らばっているだけで、それをつなぐ線が薄弱なのは変わりがない。ただ、こうした〈裂け目〉を中心に読んでいけば(ここに挙げた主なもの以外にも細かい点がたくさんある)、私たちはそのような物語を拾うことができるのである。
 さらに視点を変え、これはオカルティックな幻想小説だと割り切って読むこともできる。白塗りの女は、また倉田も、伶にもう一つの現実への覚醒を促す、次元を超越した存在だということができる。理絵もまた無意識のうちにその役を担って、伶にヒントを与える。伶は医者の生まれ変わりで、伶がかつて書き、倉田が〈目を通した〉のは「記憶の書」だ。「記憶の書」に倉田と女とも推測される男女が、ちらりと姿を見せる。〈本〉はここでは〈啓示〉あるいは〈神秘そのもの〉となる。


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