Isidora’s Page
水の道標

『アムネジア』――あなたはそれを探してはならない◆         (2010.08)

   Ⅳ 記憶の書
 そろそろ『アムネジア』と戯れるのも終わりにする頃合いだ。結論めいたことを言う前に、ここまでほとんど触れてこなかった作中作「記憶の書」について語ろう。
「記憶の書」は、何かの罪を犯して満州の大連に流れてきた精神科医が語り手となっている。憲兵中尉・鯖江の要請によって汽車で奉天まで出向いた彼は、スパイ容疑で囚われている徳本政之の診察をすることになっていた。徳本は記憶を失っていて、単なるアムネジア(健忘)だと診断されているが、中尉は佯狂ではないかと疑っており、さらなる鑑定を医師に求めたのである。調書に拠れば、徳本は何か目も眩むような閃光を見て、その後、何らかの体験をし、昏倒した。その体験は手帳に書き留めてあるはずだが、その手帳をなくしてしまった。そこで手帳を取り戻すために病院を脱走した……。医師は徳本と話すうちに〈共感〉し、ありえざる記憶を蘇らせる。そして気付けば列車の中の人となっていた。前の席には徳本が坐っている……。
 これまでに指摘した人がいるのかどうかわからないが、「記憶の書」は『海辺のカフカ』に似たところがある。『海辺のカフカ』は少年の物語だが、もうひとりの主人公としてナカタさんという猫と話が出来る浮浪者が登場する。戦時中の疎開先の山で、児童たちの集団が謎めいた怪光に遭遇するという事件が起きる。その児童のひとりであったナカタさんは心神を喪失し、目覚めた後も記憶を失い、人間社会の埒外に生きる者となってしまった……。憲兵による調書などが差し挟まれたその形式までが、「記憶の書」を思わせる。読み比べると、すぐにわかるのだが、こうした超越的なものの気配の描出においては、稲生平太郎と村上春樹とでは大人と子供だ。春樹の表現では話にならない。調書なども、「記憶の書」を読んだ後では、笑ってしまうほどお粗末だ。しみじみ、人には埒というものがあるのだと思う。
 『海辺のカフカ』は二〇〇二年の刊行で、二〇〇六年刊の『アムネジア』よりも早いと思われているかも知れないが、実は違う。「記憶の書」は、『アムネジア』の中でも最も早く成稿した部分であり、一九九〇年代半ばには同人誌『ピラミッドの友』に掲載されている。私が初めて読んだのは、一九九六、七年頃で、『幻想文学』に掲載する計画もあった。しかし、あくまでも長編の一部として構想された作品を、短編として形を整えて発表することにいささかの危惧を覚えた私は、掲載を見送ってしまった。『カフカ』の刊行後、発表しておけばよかったと悔やんだが、後の祭りである。
 以上は、誤解を生まないために書き留めておくただの余談に過ぎない。ともかくも、私はこの「記憶の書」をとりあえず読んだ。一読、神秘体験を言語化して追体験させるものだと思った。神秘体験とは、瞬間的な悟り、超越的なものとの合一感、持続的な至福感といったものを伴う、人間に特有の体験である。
 神秘体験は珍しいものではない、と稲生平太郎は言う。実際、宗教感情やオカルティックな体質(?)などとはまったく無縁に、唐突に誰をも襲う可能性のある感覚であり、人間にごく普通に具わっている性質(体質?)ではないかと私も思う。稲生はUFO本『何かが空を飛んでいる』で、人間とは「空に光り物を見てしまう」存在であると述べているが、これも似たようなことを言っていると見て良いだろう。
 神秘体験についての報告例は多いが、おおむね紋切り型を踏襲する。その紋切り型は、体験者には何を言っているのかわかるが、体験したことのない者にはその実質がほとんど伝わらない。もともと、神秘体験そのものは言語化できるようなものではないのだ。一方、この体験を芸術化しようとすることも多く、文学にもそれは見ることができる。しかし元来、言語化はできないのだから、格別の工夫が必要になる。神秘体験が、多く詩の形で語られるのはそのためである。
 詳しくは「神秘文学への誘い」を見てもらいたい。〈その1〉の「神秘体験の祖型」にその伝統的な表現が、そして〈その4〉の「現実の中に神秘が顕現する」に、「神秘体験を言語化して追体験させる」ものだと私が感じた小説を挙げてある。「記憶の書」は、こうした数少ない系列に連なる小説の一つだと感じたのである。
 「記憶の書」は端的に言えば、感じる小説である。物語を追うとか、登場人物に感情移入するとかいったことではなく、読むことによって何かを感じる小説なのだ。その効果は、ある種の音楽に近い。文学では、詩はしばしばこの境地を目指して書かれる。小説なので、全篇がそうなっているわけではない。一連の描写によって、ある部分で名づけがたい高揚感が得られる。その部分が物語的な山場でもあるかどうかは作品による。さすがにそうたやすくは神秘体験そのものが得られたりはしないのだが、それでもある種の似た何かを味わうことが出来る。
 「記憶の書」はしかし、前後を断ち切られたようになっていて、全体の一部だという説明だった。「闇金融の話なんだよね」とは、その当時からよく聞いていたのだが、それではわけがわかるはずもない。私は、「記憶の書」の前後に、これに直接つながる物語がつくのだろう、と思い、そのことを疑っていなかった。
どんなものかはわからないが、この話に絡んで、戦後のM資金幻想につながるような秘密の資金が満州で作られる、とか? と、まあ普通はその程度のことしか考えつかないだろう(たぶん)。もちろん予想とはまったく違うものが出現したわけで、啞然とせざるを得なかったわけだが、その驚愕は、「記憶の書」を前もって読んでいただけに、一般の読者よりも大きかったことは間違いない。
 「記憶の書」が解体されて『アムネジア』の中にばらまかれていたからだ。しかも、本書のタイトルは、最終的には『アムネジア』に決定されたが、それまではずっと「記憶の書」と呼ばれていたのである。「記憶の書」を抱えた「記憶の書」は「記憶の書」の細部で構成されている。まさに「複雑な入れ子構造になっている」のである。
 その照応の具合を詳述するつもりはない。読者は各自、たやすくそれをすることが出来るだろうから。そしてまた『アムネジア』が「記憶の書」と照応する部分しか持たないなどと、でたらめなことを言うつもりもない。この小説がいかにさまざまな暗合によって成立しているかは、冒頭にも述べたとおりであって、それは到底「記憶の書」だけでまかなえるものではない。
 ただ、「記憶の書」が『アムネジア』の中で反復されることによって、その神秘体験に似た何かが拡大され、より複雑に、大規模な形で展開されることになった。
 『アムネジア』は、高揚させるというより、人を混乱させ、惑わし、見知らぬ場所へと運んでいく。すべてが整合的に解釈されてしまい、謎が残らないのでは、そのようにはならない。あるいはテーマが一つに決まってしまってそれ以上発展性がない感じでも、そうはならない。いくつもの解釈の可能性、読みの可能性がなければならない。理に落ちきってしまっては、台無しなのだ。だから、読む方も、整合性に就く必要はない。ただ読んで感じればよいのであって、それ以上のことは必要ない。『アムネジア』を読むということは、一つの体験にほかならないのである。この時、手の届かぬ〈本〉とは、言語化し得ぬ神秘体験の実質となるだろう。
 もともと、文学を読むとはそういうことだ。私たちは文学を読むことによって、知識を手に入れたり、人生訓を与えられたりする必要はない。文学を読むとは別の時間を確かに生きること、夢を見ること。私たちは生にいたずらな意味づけをしてはならないのと同様に、文学にいたずらな意味づけをすべきではない。『アムネジア』もまた、夢を見るように読めばよくて、そうすれば私たちはどこか、自分の意識ではたどりつけないところへと運ばれるだろう。そのような、本当の夢のような小説は、いつも稀少で、なにものにも替えがたいのである。


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