■表の顔と裏の顔―福島屋商店工場■ 2005年12月8日
『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』という本が売れていると言う。
売れている、売れている、とは聞こえるものの、肝心の「なぜ潰れないのか?」という答えは聞こえてこない。
本当にさおだけ屋は潰れていないんだろうか?
これを考えると、心配で心配で夜も眠れない。
と、どうでもいい前振りですみません。(笑)
福島屋商店工場。(深谷市深谷町)
大正10年(1921)頃の竣工であるという。
建物には、表の顔と裏の顔がある。
表の顔は越後のちりめん問屋、裏の顔は水戸黄門。……
いや、そんなことを言っているのではない。
あるときは片目のサラリーマン、あるときはパイプをくわえた水泳教師(不自然な多羅尾伴内)
……
だから、そんなことを言っているのではない。(笑)
建物には、表通りに面した顔と、裏通りに面した顔があると言いたいのだ。(だったら、初めからそういえばいい)
往々にして、この表と裏は統一されがちである。
デザインの統合性!
ああ、何たる思慮分別を込めた言葉だろうか!
でも、これはウソである。
いや、必ずしも本当ではない。(微妙なニュアンスの違いを理解してください)
表は表、裏は裏でいいんじゃないか!
と、小生は常々思っている。
何にだって顔はある。
グラスの底に、顔があったっていいじゃないか! と言った、あの人を思い出す。(笑)
そんなわけで、この建物は極端に表と裏のある見本である。
中山道に面した表の顔は、和風町屋の商店建築。
裏通りに面した裏の顔は、レンガ造りの工場建築。
ああ、その接続点を近づいて見られないのが残念だ!(笑)
表の顔は、町屋造りを基本とするものの、レンガ造りの「うだつ」が設けられている。
裏の顔は、純粋なレンガ造で……あれ? なんか人の顔みたい。
しかも口が曲がっている。(笑)
サルバドール・ダリは、そのパラノイアック・クリティックにおいて、客観的偶然性の必然を説いた。
どんなものにも顔がある! いや違った、これを言ったのはあの人だっけ。(笑)
そういえば似ているなぁ~。ダリと岡本太郎。
ひとたび似ていると思ってしまえば、これを覆すには時間がかかる。
それにしてもこの名前、福島屋商店工場。
よくよく考えるとおかしな名前だ。
何の商店で何の工場なんだろう?
もしかして、さおだけ屋の商店と工場だったりして。(笑)
福島屋商店工場・表の顔
裏の顔
かろうじて見える表と裏の接点
うだつが上がる