■天下の号外屋翁の墓■ 2007年10月21日
薄いシリーズ、第2弾!!
って、別にシリーズ化するわけじゃありませんが。(笑)
規模は小さいものの、その赤っぷりといい、薄さ加減といい、前述の達磨大師像に引けを取るものではございません。
むしろ、こちらの方が先輩格に当たるものでございます。(ぺこり)
トラピスチヌとは正反対の、函館山中腹にある外人墓地近く……
元来、このあたりは山背泊(やませどまり)の火葬場であって、ペリー艦隊が来函したさい、二人の乗り組み水兵を埋葬したことにはじまるという。
その後、年々外人の志望者が殺到して、いや死亡者が殺到して、相撲界よろしく外人だらけの墓地となった。(笑)
外人墓地!
「(外人)を取れば、ただの墓地だよね~」
とする、ロマンのない観光客の声があとを絶たない。(苦笑)
☆
さて、この赤墓。
実は外人墓地とは全く関係ない。(笑)
ただ、外人墓地の近くにある墓ですよ、と言ったまでである。
天下の号外屋翁の墓!
その人の名は信濃助治翁。
といっても、よく知らない人物。
明治27年(1894)6月、この人物は衣類、コート、足袋の果てまですっかり赤ずくめで函館にやってきたと伝えられる。
えっ?
どこから来たかって?
それは、案内板に書いてないからわからない。(笑)
とにかく赤ずくめだというのだから、もちろんフンドシも赤だったに違いないが、これも案内板に書いてないからわからない。
一説によると、ロシアの赤の広場から来たとも伝えられる。(笑)
☆
同年11月(おりしも日清戦争のころ)。
彼は北海新聞の号外を市中の人に配り「天下の号外屋」として目立っていたという。
号外よりも、自分が目立っていたに違いなく、パフォーマンスを伝えた最初の人物として伝説化されている。(って、うそです)
その服装から「赤服」と呼ばれていたらしいが、お騒がせしている「赤福餅」とは何の関係もありません。(笑)
「赤心」(いつわりのない心)は、日本武道の精髄を表すといって、何事にも赤を用いたと伝えられている。
自宅の外壁までを赤に塗ったかどうかはわからないが、楳図かずおが、これに負けじと建設中の自邸に紅白のストライプを加えたという話は有名である。(笑)
日清戦争終結後は、戦勝記念に名将軍を全国に訪ね歩き、書を頼むなどの奇行の多い人変な人だったらしい。
もしかして、ほんとに楳図かずおのおじいちゃんではないか?(笑)
周囲の雰囲の景観を著しく阻害していますかね~?
おそらく建立時は、相当揉めたに違いない。
景観論争は、ここから始まったという噂は本当かもしれない。
って、そんなうわさはありませんよ~。(笑)
北海道函館市船見町24 グーグルマップ
薄っすいな~!
周囲の雰囲の景観を著しく阻害していますかね~?