ワン テウ スレム
フキノ ハヒノ セミノ
セウン ナコン エテ テン……
さて、これは何でしょう?
☆
はい。
これは嘉永7年(1854)、ペリーが函館に来航した際、地元に住む小嶋又二郎という人物が耳学問でエンゲレス語を書き写したもの。
すなわち、ワン ツー スリー から テンまでの英語である。
これを「亜墨利加一条写」といって、以来函館の高等英語教育は ワン テウ スレム から始まる。(笑)
あれ?
ナコン エテ ?
もしかして、エテとナコンが逆ではなかろうか?
……ナコンなで、まったく関係のない枕でスタート。(笑)
3連アーチ特集のおまけです。
☆
『旧リューリ商会』(現合名会社川越電化センター)
竣工:大正12年頃(1923頃)。
※ 函館市の伝統的建造物リストには明治40年(1907)とあるが、ここでは『北海道の古建築と街並み』(北海道住宅都市部編集・北海道発行、昭和54年3 月10日)による。また「関根要太郎研究室@函館」のsy-f_ha-yfさんによる、絵葉書からの竣工年推定がありますので合わせて参考にさせていただ きました。
設計者・施工者:不詳。
木造2F建て。
☆
リューリ商会とは、ロシアの漁業家メイエル・モイセーエヴィチ・リューリ(1881~1954)が、明治35年(1902)に弟アブラムともに設立した漁業会社のこと。
ここは、その函館支店であるという。
かつて、ユーリ・アルバチャコフというボクサーがいましたが、あれとは全く関係ありません。
TBSラジオをお聞きの皆さんは大沢ユーリを思い浮かべるかもしれませんが、こちらも全く関係ございません。(笑)
このリューリ商会、青柳町に社員寮があったり湯の川に別荘があったりと、当時複数の建物を所有していた模様である。
当時の住所は末広町86番地と資料にはあるが、これは旧番地のようで、ちょうど現在のこの辺りがその番地と符合する。
大正9年(1920)以降は、西濱町19番地に店があるとも書かれているが、これは今でいう弁天町である。
まあそんなことはどうでもいいけれど、たくさんの不動産を所有していたのは間違いない。
☆
何気に『白系ロシア人と日本文化』(沢田和彦著、成文社)という本を読んでいると……
ん?
そんな本、何気に読むわけないだろうって?
はい、調べるために読みました。(笑)
このリューリさんのお嬢さん、と言っても御年100歳のご高齢ですが、函館に住んでいた当時の思い出を綴っている。
それによると、リューリ一家が来日したのは大正8年(1919)で、始めは横浜に住んだと言う。
函館は当時避暑地として住んでいたらしく、定住したのは大正12年(1923)のことである。
リューリさん本人が初来日したのは明治39年(1906)で、仕事で長崎へ来た時のこと。
明確な年代は不明であるが、函館に支店を出したのは明治末か大正初期のことであるらしい。
……と、なぜにリューリ一家の歴史をここで紹介する必要があるのか?
はい。
もうやめますが、リューリさんのことをもっと詳しく知りたいお方は、宗男にぜひご一報を!(笑)
☆
この建物、大三坂の下にある。
大三坂とはこの上に「大三」印の郷宿があったからだとされる。
今は取り壊されてしまったけれど、この上に「函館文化服装学院」と言う可愛いコモモ色した建物がありました。(笑)
現在の電気屋さんになる前は「渡辺商店」の倉庫として使用していて、上の写真の2Fのバルコニー部分が囲まれて部屋になっていた。
何ともボロっちい建物だったのを、昭和59年(1984)川越電化センターとなるに際バルコニー部分を復元したものです。
どうです?
三連アーチのベイバルコニースタイル、かっこいいでしょう!
しかし、この開放されたベイバル(専門用語ではこう呼ぶのです)雪の多い北海道では禁じ手の一つである。
雪は入りこむし、雨漏りもしやすい。
防水納めが難しく、これを大正時代に完成させていたとはまったく驚きである!
……って、だからバルコニーをつぶして倉庫として使っていたのかも知れませんね。(笑)
☆
外壁は、箱目地納まりのドイツ下見板。
開口部は上部に嵌め殺し(かな?)がついた上げ下げ窓で、ペディメントはバロックを意識したかのように装飾化されているが、全体的にはルネサンス風に仕上がっている。(笑)
そして、この三連アーチのベイバルが何と言っても圧巻!
しかしこのスタイル、リューリ商会が最初の例ではない。(と思われる)
電車道路を挟んで筋向いにあった「函館貯蓄銀行」がこれとそっくりのスタイルを有しているのだ。
以下、二つの写真を比べてみてください。↓
↑旧リューリ商会(渡辺商店)『北海道の古建築と街並み』より転載(文化服装学院と丸井今井の看板があることから、大正12年以降の写真と思われる)
↑函館貯蓄銀行(『北海道の古建築と街並み』より転載)
いかがでしょう?
そっくりじゃありませんか?(笑)
「函館貯蓄銀行」は『北海道の古建築と街並み』によれば、明治43年(1910)の竣工である。
『函館のまちなみ』(函館の歴史風土を守る会編、五陵出版社)によれば明治29年(1896)の竣工で、明治40年の大火で焼失とあるが、大正10年(1921)の大火でも焼け残ったことを示す絵葉書が存在している。
「関根要太郎研究室@函館」のsy-f_ha-yfさんによれば、旧リューリ商会は明治40年(1907)の竣工ではなく、大正10年(1921)~大正15年(1926)であると当時の絵葉書から推定しておりますが、これは実に信憑性が高い。sy-f_ha-yfさんの記事はこちら!
もし、リューリ商会が明治40年(1907)の竣工だとすると「函館貯蓄銀行」よりも古いという訳だ。
それとも、やはり「函館貯蓄銀行」は明治25年の竣工なのか?
明治29年は函館貯蓄銀行の設立年ではあるが、建物の竣工年とは限らないし。
いやはや、どちらが先か?
リューリさんのお嬢さんが何か知っているかもしれないと思いましたが、残念ながらそのあたりの言及はまるでなかった。(笑)
当たり前ですね。
いずれにしても、函館には当時このようなスタイルがたくさん存在していたらしい。
ワン テウ スレム ……
いや、フキノ ハヒノ セミノ。
このくらいそっくりなのがあったかも知れない。(笑)
【所在地】北海道函館市末広町18-30 グーグルマップ
旧リューリ商会
三連アーチのベイバル
側面
箱目地納まりのドイツ下見板の外壁
写真A・旧リューリ商会(渡辺商店)『北海道の古建築と街並み』より転載
(文化服装学院と丸井今井の看板があることから、大正12年以降の写真と思われる)
函館貯蓄銀行(『北海道の古建築と街並み』より転載)
背面
平成2年7月に撮影した写真(19年前です)