■山本有三記念館(旧清田龍之助邸)■ 2009年10月11日
はい。ヴォーム!
レールがまくら木の上でうなっていた。
うなりは刻々、激しくなってきた。………………
ああ、もう、おしまいだ!
彼はただ、ケムシのように、まくら木にしがみついていた。 ………………
ポォーッ!ポッ、ポォーッ!
非常警笛が絶え間なく鳴っていたが、もうそんなものは彼の鼓膜を驚かさなかった。……
これが有名な、山本有三の『路傍の石』の鉄橋のくだりである。
つまらない意地の張り合いから、鉄橋のまくら木にぶら下がる羽目になった吾一少年。
やれるとは言ったものの、初めてなので怖くてぶら下がれない。
もじもじしている間に、草履の片方を深い鉄橋の下へ落としてしまう。
そこへ、汽車がやってきて……
☆
「出来もしないことを、強がって出来ると言うからこうなるのよ。」
宗男は子供のころ、母からこう言い聞かされました。
おかげで今では、出来ることでも「出来ません」と言うネガティヴな人間になってしまった。
いや、宗男のことはどうでもいいですね。(笑)
吾一少年がその後どうなったか?
続きが気になるお方は、食欲の秋などと言っておらずに、読書の秋を実行してくださいね。(笑)
そうそう、上の写真が「路傍の石」だそうです。
ずいぶん大きな石なんですね。
☆
山本有三記念館(旧清田龍之助邸)
竣工は大正15年頃(1926頃)。
(大正15年12月22日の登記)
設計・施工者は不詳。
※旧鳩山一郎邸を設計した岡田信一郎の設計とする説もあるようだが、今のところ証拠不十分。
RC造+木造の混構造。
B1F、地上2F建て(一部屋根裏利用)。
☆
この建物は、作家山本有三が昭和11年(1936)から、進駐軍に接収される昭和21年(1946)までに住んだ家である。
その間、代表作の『路傍の石』や、小泉元首相で一躍脚光を浴びた戯曲『米百俵』がここで書かれたと言う。
昭和26年(1951)には返還されるものの、あちこちにペンキが塗られて有三は、怒ったぞう! と言ってその後ここには住まず大森へ移る。
接収がなければその後も三鷹の住民であったかも知れず、有三記念館の関係者(らしき)人物は口々に残念がっていた。(笑)
☆
進駐軍に接収されるだけあって、この建物は豪華極まりない。
当時のGHQの接収基準によれば、構造が丈夫であり、設備が良好であり、手入れが行き届いており、ベッドルームは2つで、バスルーム、リビング、食堂、台所の最低6つ以上の部屋があり、クロゼットや女中部屋といった特別室を備えていること……などと書かれている。
全く贅沢なものである。
ちなみに、東京都内での接収第一号となったのは『旧前田侯爵邸洋館』であり、どうやら進駐軍はスクラッチタイルがお好みであったようだ。(笑)
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建物は、基礎は大谷石で積まれ、1F部分は当時流行のスクラッチタイルを貼っている。
スクラッチと言っても宝くじとは違いますので、いくらこすっても当たりは出ません。(笑)
このスクラッチタイル、ライトが帝国ホテルで採用したことがきっかけで以降爆発的に流行したタイルである。
※正確には帝国ホテルで採用されたのは「すだれ煉瓦」で、表面がスクラッチ状(引っかき傷)になった煉瓦のこと。この煉瓦を型枠代わりにして中にコンクリートを充填したようである。以降、煉瓦はタイルに代わってスクラッチタイルが流行した。
2F部分は漆喰塗りを基調に、幾何学的な水平ラインで強調され、やはりライトを意識しているようだ。
この水平ライン、一見ハーフチンバーに見えなくもないが、近づいてみると亜鉛鉄板で覆っていた。
木材の表しは耐久性に劣るので、こうした配慮がなされたものだろうか?
同じく破風板も亜鉛鉄板で覆っている。
正面のデザインは、何と言っても岩から生えたような煙突のデザインが印象的である。
おお! メルヘンチック!!
数えると煙突は全部で3本あって、内部はそれぞれデザインの違った暖炉が設置されてある。
これは、サンタクロースは3人でやってくると言う、古い伝承によるもの。
……んな訳はないが、とにかく贅沢なしつらえだ。(笑)
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この暖炉のそばには、造りつけの小さなベンチが設けられある。
こう言うスペースをイングルヌックと言い、太ったサンタさんが一休みするのに都合のよい場所である。
なお、イングルヌックはいんぐりもんぐりとはぜんぜん無関係なので御注意してください。(笑)
この建物、とにかく貪欲なまでに様式の混合化を図っている。
玄関は、先のとがったゴシック風のポインテッドアーチによるもので、まるで中世のお城にでも入るような気分である。
階段室の天井も、ゴシック風のハンマービームを想わせるデザイン。
また、長女の部屋だったと言うサンルームは、ロマネスク風のロンバルト帯をめぐらせており、窓は半円アーチのファンライトとして頭を尖らせない。
随所に見られるハーフチンバーと梁型の扁心アーチは、そこはかとなくチューダー様式を匂わせるし、書斎は変形船底の天井で、出窓のついた書院造り風……といった具合。
他に、解説書(『解説 三鷹市山本有三記念館』2009年10月3日発行)によれば、クイーン・アン様式やアーツ・アンド・クラフト運動などが散見されるらしく、正に様式のオンパレードである。(笑)
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さて、これだけ凄い建物でありながら、実は設計者が誰なのか判然としないと言うから全く驚きである。
この建物、実は山本有三が建てたものではなく、清田龍之助と言う人物から購入したものなのである。
つまり、この建物の建て主は山本有三ならぬ、清田(せいた)龍之介さんであった。
この清田さんについて、今までは「貿易商」とだけ知るのみで、あまりよく知られていなかったらしい。
※2008年7月の日本建築学会計画系論文集(「旧山本有三邸施主であった清田龍之助について」平山育男)で詳しい報告がなされ、徐々にその姿が明らかになってきたもよう(『解説 三鷹市山本有三記念館』2009年10月3日発行にも詳しく載っています)。
清田さんについて、ぜひとも詳しく知りたいと言うお方は、上記論文をお読みください。(笑)
☆
ひとつだけ、清田さんについて興味深いのは、この家を建てる前に住んでいた住所が、何と今話題の鳩山会館(旧鳩山一郎邸)と同じ住所だったということである。
まさか故人献金疑惑とは無関係でしょうが、面白い事実である。(笑)
結果としては、お隣さんであった可能性が高いですが、清田さんと鳩山家との関係は何がしかの関係があった模様です。
これらのことから、この建物の設計者は、鳩山会館を設計した岡田信一郎ではないか?
とする説が流れております。
しかも、上の写真が鳩山会館のファサードに酷似しているという。
どうかなぁ~?
これは、山本有三記念館の関係者(らしき)人物も、写真を見せながら来館者に説明していた。
いや、今月からそれは止めたようで、先日行ったらあくまでも設計者は不詳であると説明しているようだ。(笑)
その真偽は定かではないが、とにかくこれだけの建物を設計するのだから、只者ではないことは確かである。
岡田信一郎は只者ではないから、もしかすると、もしかするかも知れませんけど。(笑)
?
それにしても秋ですね~♪
久しぶりに『路傍の石』を読んだら泣けてきちゃいました。
何度も映画にもなっているので、見ているお方も多いと思いますが。
いえ、この鉄橋のシーンばかりが強烈で、他はほとんど覚えておりませんが。(笑)
【所在地】東京都三鷹市下連雀2-12-27 グーグルマップ
山本有三記念館
路傍の石
基礎は大谷石、1F部分はスクラッチタイル
2F部分は漆喰塗りを基調に、水平ラインを強調
岩から生えたような煙突のデザイン
3本の煙突に通じるそれぞれのデザインの異なる暖炉
造りつけの小さなベンチ=イングルヌック
ゴシック風のポインテッドアーチの玄関
ゴシック風のハンマービームを想わせる階段室の天井
サンルーム=ロマネスク風のロンバルト帯
窓は半円アーチのファンライト
ハーフチンバーと梁型の扁心アーチ
変形船底の天井で、出窓のついた書院造り風