青の一族

第2章 弥生後期までの各地の動静——神武の東征はあったのか 北部九州の神話が少ないのはなぜか


10 邇芸速日(にぎはやひ)と物部氏


10-1 饒速日は大和のどこに来たのか10-2 ニキの名


 神武の前に大和にいたという邇芸速日は物部氏の祖とされる。『先代旧事本紀』では、天照大神―天押穂耳―天火明櫛玉饒速日となって、天孫は邇邇芸ではなく饒速日(にぎはやひ)だ。物部氏が尾張氏と同祖だとするのは、饒速日がまだ天にいるときに天道日女との間に生んだ子が天香語山だからということだ。物部氏も尾張氏が先だとは認めている。

10―1 饒速日は大和のどこに来たのか

『先代旧事本紀』は「……饒速日は天磐船(あめのいわふね)で河内国のいかるがの峯に降りて大倭国の鳥見の白庭山に移る」と言う。
 生駒市の富雄川の近くに白庭台という地名がある。また大和盆地の南部の鳥見山にも白庭と呼ばれるところがある。どちらが饒速日の降りた白庭だろう。
 生駒山西麓、東大阪市日下(くさか)の南に石切剣箭(いしきりつるぎや)神社がある。ここは物部氏の本拠地で、後の時代もこの周辺の渋川郡がその領域だと言われる。枚方市に意賀美(おかみ)神社がある。ここは伊迦賀色許男(いかがしこお)の屋敷があったとされるところで、彼は饒速日の子孫とされている。また、茨木市の東奈良遺跡は銅鐸の製作で有名なところで銅戈の鋳型が出ている。これらはどれも大和盆地の北の淀川沿いだ。だから饒速日は、大和盆地の南部ではなく淀川に近い生駒市の白庭に降りたのではないだろうか。
 饒速日は天下った後、土地の豪族の登美毗古(とみびこ)の妹、登美夜毗売(とみやびめ)と結婚して宇摩志麻遅(うましまじ)を生み、これが物部氏の祖になったという。登美毗古は生駒山の東を流れる富雄(とみお)川流域に蟠踞した豪族の首長で、この地域に彼の伝承が今も残っているそうだ。上鳥見・中鳥見・下鳥見と言われる三つの神社が流域にある。上鳥見は伊弉諾(いざなぎ)神社(生駒市上町)、中鳥見は添御県坐(そうのみあがたにいます)神社(奈良市三碓(みつがらす))で武乳速之命(たけちはやのみこと)を祭神とするが、地域の伝承によれば武乳速は長髄彦(登美毗古の別名)だという。ここには円墳と思われる土塁がある。下鳥見は登弥神社(奈良市石木町)だ。このすぐ南に新木町(にいきちょう)があるが、ここが『紀』の神武段で征討されたとされる新城戸畔(にいきとべ)に比定されている。
『先代旧事本紀』で饒速日が降りたとされる鳥見白庭山は、新木町の西の矢田町にある矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社(大和郡山市矢田)に比定されている。祭神は饒速日と登美毗古の妹とされる御炊屋姫(みかしきやひめ)だ。久志玉比古神社は矢田部氏がその居住地で祖の饒速日を祭ったもので、元は玉作神の神社だったとする説がある。饒速日が始めから登美毗古の領地の真ん中に降りたとは考えにくいので、白庭山はやはり上町の北にある白庭台だろう。
 また、饒速日は恩智(おんじ)社に降りたという伝説もある。
 大阪の淀川沿いは弥生中期から高地性集落が絶えず発生する場所だが、弥生後期の初頭には枚方市・寝屋川市・東大阪市周辺に集中する。私はこのときから少し後が饒速日一派が淀川流域に侵攻してきた時期だろうと推測する。弥生の中期中葉から後期初頭には大阪湾では大阪湾型銅戈が祭祀具だったと述べた。九州の勢力が徐々にこの地方に入ってきていたが、さらに新しい勢力が加わって内陸への侵攻を始めたのだろうと思う。私は、『記』『紀』の神武と登美毗古の戦いは饒速日と登美毗古の戦いの話を借りたものだと考えているが、物部氏が大きく関与したと思われる『紀』には神武が登美毗古と戦ったとは書かれていない。長髄彦と戦ったのだ。『記』では登美毗古と長髄彦は同一だ。登美毗古と、はっきり土地を表した名を使うのを避けて、長髄彦(足が長い男)を滅したことにしたかったようだ。

10―2 ニキの名

 ニギハヤヒにニニギ。ニキという言葉には何か特別な意味があるのではないか。
 福岡県鞍手郡に新北(にきた)という地名がある。そのすぐ南に7―1項で述べた六ヶ岳がある。新北には熱田神社があるが、これはもとは剣神社だった。ニキが物部氏に関係が深いことは容易に想像がつく。天孫の名を邇邇芸にしたのも5世紀に力を持っていた物部氏によるものだろう。邇邇芸の墓は可愛山陵(えのみささぎ)と言われ、鹿児島県の川内市にあるが、この六ヶ岳のいくつかに邇邇芸の身体や衣を分けて埋葬したという伝説がある。また延岡市にも可愛山陵がある。
 ニキの名は他にも見られる。長崎の金毘羅山は古くはニギ山といったそうだ。『万葉集』の斉明天皇の歌で有名な松山市の饒田津。柿本人麿の歌に和多豆(にきたづ)が出てくるが、これは島根県江津市。高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌に詠まれるニキタヅは兵庫県西宮市津門川町だった。また、筑後川河口の佐賀市諸富の寺井津あたりがニキタヅだったという説がある。諸富町の土師本村(はじほんむら)遺跡は庄内式・布留式の土器(弥生と古墳時代の間頃の土器)が集中して出るが、外来土器が多く国際都市的な様相を持つという。庄内式は大阪府の八尾市・奈良の天理市につながる。奈良盆地には、登美毗古の支配地に新木町があり、『神武紀』にもニイキトベを討ったとある。そして5世紀の馬見の古墳群に新木山(にきやま)古墳が2基ある。
「𤎼」という字がある。これを〈ニギ〉と読む。火をつけることをニギと言い、それを仕事にした人々をニギ・ニキの名で呼んだのではないか。
 ニキの人々は遠賀川の中流に本拠地を持った。これが物部氏の発祥なのではないだろうか。そして鞍手郡(福岡の北部)や佐賀市(筑後川流域)や五ヶ瀬川の上流などに彼らはいたが、中でも筑後川流域での広がりが大きかったのではないかと思われる。