青の一族

第3章 古墳時代前期-邪馬台国はどこか


3 2世紀末から3世紀の墳墓


 3-1 前方後円墳出現直前の墳墓3-2 前方後方墳3-3 前方後円墳の形式と吉備


 卑弥呼が魏に遣いしたのは238年だと中国の歴史書『魏志倭人伝』にある。
 最初の大きな古墳である石塚古墳が纏向にできるのが210年頃だという。古墳築造の始まりの年代は諸説あるが、卑弥呼とほぼ同時代と見てそう違いはないだろう。3世紀後半に大和に278メートルの箸墓古墳が築かれ古墳時代が始まることになるが、それより前に大型の墳墓は各地に築かれ始めている。

3―1 前方後円墳出現直前の墳墓

 岡山県の楯築墳丘墓は双方中円形で全長72メートル、弥生時代最大の墳丘墓だ。2世紀後半から3世紀前半頃の築造と見られる。2世紀の終わり頃には、前方後円墳の形式が確立する前の、その前身らしい墳墓が瀬戸内各地にできてくる。石室の内部構造の前身と見られる積石塚墳丘墓は讃岐や阿波に多く、飛騨にもある。この技術は高句麗が源流とされ朝鮮半島にもあって、若狭湾から淀川経由で四国北部に伝わったものだと推測されるが、瀬戸内各地には以下のような石を使った埋葬施設がある【図19】。
図19 瀬戸内沿岸の成立期の古墳 (『古式土師器の年代学』から)
瀬戸内沿岸の成立期の古墳
 安芸の梨ヶ谷、吉備の金敷寺(かなしきでら)裏山・鋳物師谷(いぶしだに)1号・雲山鳥打(くもやまとりうち)1号・黒宮大塚・都月坂(とつきさか)2号・矢藤治山(やとうじやま)、播磨の山戸4号・綾部山39号、讃岐の石塚山2号・奥10号、阿波の萩原

3―2 前方後方墳

 愛知県一宮市の西上免(にしじょうめん)遺跡に40メートルの前方後方墳がある。その築造は2世紀末から3世紀と言われ、大和盆地で最も古いと見られる纏向石塚古墳とほぼ同年代だ。前方後方墳は方形周溝墓から発展した形と言われ、廻間遺跡の墳丘墓が祖形と考えられている。廻間式は濃尾平野の土器で120年~300年頃作られ、東海から若狭湾周辺まで広く流布したS字口縁土器がその代表だ。これと前方後方墳の分布の範囲が重なるという研究もある。
 東近江市の神郷亀塚(しんごうかめづか)古墳は220年頃に作られた36メートルの前方後方墳だ。墳丘の構造、埋葬の形式なども畿内型とは明らかに異なるという。

3―3 前方後円墳の形式と吉備

初期の前方後円墳は、畿内瀬戸内東部、九州北部に分布する【図20】。
図20 初期の前方後円(後方)墳 (『日本の歴史 倭人騒乱』から)
初期の前方後円(後方)墳
 前方後円墳には形式がある。それは石を積んだ竪穴式の室があること、その中に長い丸太を縦に割ってくりぬいた割竹形木棺があること(2~3メートル、長いものは7~8メートルもある)、副葬品として1点から数点の鉄器、鏡が(最低)1面、玉などの装飾品があること、墳丘に葺石がある(これがないものもある)、葬送儀礼に使われたらしい土器や呪具が出るなどとされる。
 このうち葺石は前述した四隅突出墳の貼石で使われていた技術だ。鉄器の中でも剣、それに鏡と玉のセットは北部九州の習慣だ。竪穴式石室は前述した積石塚の技術が下地にある。私は、割竹式木棺は初期の前方後円墳一派に南方海洋族が関わっていたしるしだと考えている。これは冥界、あるいは祖先の住む遠く離れた故郷へ渡るための船を表しているのだ。初期の前方後円墳は前方部の先が撥形に開いているものがあるが、この形式はその分布の多さからして讃岐・播磨の風習から来たと考えられる。そして葬送の儀礼に関わる供献土器や呪具についてだが、纏向石塚では吉備の特殊器台と同じ文様の弧文円盤が出ている。楯築古墳でも弧帯文石が伝えられている。箸墓古墳では吉備の特殊器台が出ていて、纏向遺跡では全般に祭祀道具は吉備中心の瀬戸内中東部系だという。
 まさに西日本同盟とでも言うべき各地の様式の集合体が前方後円墳だ。この形態を決めるに当たっては東日本の前方後方墳も視野に入れていたに違いない。しかし、後方墳の祭祀の仕方が後円墳とどう違うのかなどの研究がないので、後方墳勢力が後円墳勢力とどう関わっていたのかはわからない。違う墳形をとるのだから西と東は少なくとも結束の固い同盟ではないことは推測できる。
 前方後円墳はみな同じかといえば、そう単純ではない。形は同じようでも塚や埋葬施設の作り方の細部や副葬品の種類などは画一的でなくそれぞれの部族の色を出す。
 箸墓は群を抜く規模の大きさで他を圧倒しつつ、それぞれの部族の風習を取り入れて各方面丸く収まるような古墳の形を案出した。それを成し遂げた氏族はやはり吉備だろう。出土した祭祀の道具から、祭祀を取り仕切ったと見られるのが吉備だからだ。そして吉備の祭祀の土器である特殊器台が出ている古墳は箸墓・中山大塚(なかやまおおつか)・馬口山(ばぐちやま)・西殿塚(にしとのづか)・ホケノ山と多く、どれも100メートル級の大型古墳だ。三輪山の麓に最初期の古墳を造った盟主は吉備だったことはかなり確度が高いと思われる。中山大塚・馬口山はともに大和古墳群に属する。3世紀前半の築造だという。大和古墳群は行燈山よりさらに北の中山町から萱生(かよう)町にかけての地域にある古墳群だ【図21】。
図21 大和・柳本古墳群 (『前方後円墳国家』から)
大和・柳本古墳群