青の一族

第3章 古墳時代前期-邪馬台国はどこか


4 崇神天皇


 4-1 『紀』の古墳築造の記述4-2 孝元天皇と大彦


4―1 『紀』の古墳築造の記述

『崇神紀』に、天皇のおばの倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が大物主神の妻になった後、神の不興を買って死に、その墓を作った話がある。大坂山から石を運んで昼は人が造り夜は神が造ったというのだから大掛かりな工事だ。つまりこれは古墳の築造の描写だろう。これが箸中山古墳ということになっている。『記』にはこの話はない。
 崇神天皇のおばが百襲姫だというのだが、百襲姫は孝霊天皇の娘だと記されている。孝霊天皇は三代前の天皇なので、姫が今の天皇のおばだというのはおかしいが、『記』『紀』にはこういう記述は多い。特に天皇の妃や子の記述では錯綜や重複、組み換えなどが多い。
『記』『紀』で天皇の初期の系譜は父から息子へ、長子か次男(あるいは三男)かの違いはあっても一直線につながっているが、父子相伝の伝統ができるのは7世紀末だから、この時代の父子関係の記録は疑わしい。后・妃については後に台頭した勢力が自分の出自を正当化するために氏族の娘と天皇が結婚したように書くこともあったようだ。しかし、それは大幅な改編というよりは付加だと考えられる。血縁関係は氏族の歴史だからそう簡単には書き変えられないし、天皇の系譜以外はそうする必要もあまりなかったと考える。そういう理由で、崇神にとって百襲姫はおばか祖母のような存在だったとして問題ないだろう。
 いわゆる欠史八代は神武の生まれたとされる年と年号のつじつま合わせのために入れられたとされる。また、各氏族の血縁関係、天皇家との血のつながりを述べるためにこの欠史八代を入れているという説もある。両方とも説得力がある説だ。私は、神武から開化に至る天皇は、その頃大和で実際に覇権を競った首長たちだと考える。
 纏向を作った最初のリーダーは孝霊天皇だと思う。最初の古墳をまとめたのは吉備勢力だと考えられ、『記』『紀』で吉備族の祖とされるのが孝霊天皇だからだ。唐古・鍵遺跡のすぐそばに孝霊神社がある。彼が初めに吉備の首長として各地、主に瀬戸内地域の首長たちをまとめていったが、その時はまだ巫女、つまり神の力を援用しなければ政権が支えきれなかったのだろう。そこで卑弥呼の登場となるわけだ。『記』で、孝霊の妻の一人に意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)がいる。淡路の人で別名ハエイロネという。ハエは巫女を表す名だ。淡路は伊邪那岐が隠れたところだ。そうした伝統の土地の出身で巫女でもある彼女は、その名の通り国を在らしめたのだと思う。私の解釈ではこの人が卑弥呼だ。その娘の倭迹迹日百襲姫(『記』での名前は夜麻登登母母曾毗売(やまととももそびめ))は大和の主とも言える大物主の妻になった。宗教的な意味でも大和の支配者になったわけだ。だから倭迹迹日百襲姫は『魏志倭人伝』の臺与(とよ)(一説にイヨ)かもしれない。部族抗争の後に女王が出て争いが収まったと『魏志』は言う。大和盆地を制圧する戦いは最終的な殺し合いにはならず、各部族が同盟、連合する形で決着を見た。
 しかし、そうしたシャーマンを廃して族長自身のカリスマで統率するためには、どうしても大掛かりな古墳のようなものの造営や、そこでの儀式で王たるべき徴を継承して見せる必要があった。 崇拝神天皇は〈ハツクニシラススメラミコト(初めて国を治めた天皇)〉だと『記』『紀』は記す。この天皇が大和政権の画期だったことは間違いないだろう。私はそれは、崇神が卑弥呼のような巫女に頼らずに政権を維持した最初の天皇だったからだと考えている。
 古墳の形式に各部族の習俗を取り入れ、各豪族の地位をある程度保証して連盟を作るという事業を成し遂げたのが崇神だった。『崇神紀』に箸墓古墳造営の記述があり、箸墓から吉備の祭祀具が出ていることを考えれば、崇神は孝霊を継ぐ吉備の首長だったと考えるのが自然だ。
 こう考えてくると、卑弥呼のいたところ、つまり邪馬台国は大和だったという結論が妥当に思える。邪馬台国の所在地については九州説・大和説のほかに吉備地方という説もある。しかし、前章までの考察で北部九州からは主力が抜け落ちているし、吉備からも大勢が大和川に移住してきている。纏向には各地の文化が集まっている。国を代表して魏に使いを送れたのは大和以外にはあり得ないと思う。
 大和以外の地を邪馬台国とする人々が、「当時はいくつもの小国がそれぞれ中国に朝貢していたから邪馬台国は地方の一都市でありうる。」と主張することがある。しかし、109年に帥生が後漢に朝貢し、それから1世紀半近くが経過している。その間出雲には2世紀末から3世紀初頭頃に一辺60メートルの四隅突出墳ができている。箸墓にも引けを取らないような規模だ。1章で見たが、出雲族は山陰地方から新潟県にかけての地域に影響を及ぼした。その四隅突出墳が姿を消して代わりに権力の象徴の前方後円墳が現れた時点で、中国が一地方の王を倭国王として扱い、歴史書にこの朝貢を詳しく記述し、女王の都に至る道筋までを記録するだろうか。やはり邪馬台国は王都である大和だったに違いない。
『魏志倭人伝』の読み方で、日向の後に南向したとするとはるか南洋に達してしまう、という矛盾が指摘されることがあるが、これは日向から南に向かって進んだ後、四国の南の沖を黒潮に乗って航行し大和に向かったとすれば別に矛盾はない。

4―2 孝元天皇と大彦

 崇神の諱(いみな)は御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)でマキに入ったイニエという意味だと言う説があり、これに賛同する。〈ミ〉は美称、マキは纏向の〈マキ〉だ。纏向は大物主の住む三輪山の麓、磯城にある。〈シキ〉は大和の精神の中心地で欠史八代の王はそこにみな宮を持ったとされる。
 崇神の后は、『記』では御真津比売(みまつひめ)、『紀』では御間城(みまき)姫(ひめ)だが、どちらも大彦の娘だ。
 大彦は孝元天皇と内色許売(うつしこめ)の子で、伊賀・安倍・阿閉(あえ)・膳(かしわで)の臣、狭狭城山(ささきやま)の君、筑紫・越の国造の七族の祖と言われるが、もとは新潟・富山・福井など北陸の人だったと考える。大彦を祭る神社が新潟市・三条市・長岡市・糸魚川市(新潟県)・富山市・高岡市(富山市)・鯖江市(福井市)などにあるからだ。狭狭城山の君の本拠地は近江八幡市から竜王町周辺で、そこから伊賀市へと琵琶湖の東岸を南下する位置に大彦の子孫たちの本拠地がある。
 孝元天皇は滋賀県高島市の津野神社に祭られている。社伝によると孝元天皇は角氏の遠祖で、角氏は景行の時代にここに領地を与えられた。角氏あるいは都奴臣の本拠地は高島市の北部だという。ところが宮崎県にも〈ツノ〉がある。児湯(こゆ)郡の都農(つの)町だ。ここにある都農神社の祭神は大国主だ。島根県江(ごう)津(つ)市にも都野津(つのづ)町がある。孝元はもとは宮崎の人で、日本海経由でこの地に来たのかもしれない。敦賀は元は〈ツヌガ〉だった。大彦は角氏とも同盟を結んだ。これが南下政策の最初だっただろう。福井県・鯖江市の船津神社にも大彦と孝元が祭られている。
 尾張連の祖、天香語山は新潟に行ったという。新潟と東海のつながりは、新潟県に弥生前期の水神平系土器の出土や、東海地方の抜歯の風習があったことに見られ、それらは北関東経由で伝わったという。弥生中期頃には櫛描文(くしがきもん)土器など近畿や西日本の文化が流入したが、これは加賀からのルートが大きいらしい。それほど昔から関係があったとすると、大彦が四道将軍として北陸から関東の広い範囲にわたって影響を及ぼしたことや、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣に大彦の子孫だとあるのが自然に聞こえる。
 崇神天皇が大彦の娘と結婚したのは、大和に入るに当たり、その東を押さえていた大彦と同盟する必要があったからだ。それから彼は遠津都市魚目目微比売(とおつあゆめまくわしひめ)・意富阿麻比売(おおあまひめ)(『紀』では大海媛)と結婚している。目微比売は紀伊(一説には尾張)出身、大海媛は愛知県愛西(あいさい)市の奥津社古墳に象徴される海部氏の祖で尾張氏の一人とも言われる。奥津社は彼女の墓かもしれない。また、大海媛はあま市の人という説もある。崇神は大和周辺の豪族と新たに同盟関係を結んで政権を安定させたのだろう。また大海媛との結婚は、さらに東へ侵攻するためにその地をおさえること、海洋族と結ぶのは欠かせないという事情もあっただろう。
 大彦はもちろん一人の人物ではなく何人もの北陸の首長を合わせた人物像なのだろうが、とりわけ琵琶湖の東岸を南下して大和の東にまで勢力を伸ばした人が大彦の中心像だったのだと思う。伊賀市には大彦の墓と伝わる御(み)墓山(はかやま)古墳があるが、これは5世紀の築造だ。『記』『紀』では大彦は崇神の父と同年代のようなので、この古墳がその時の人物のものとは思われない。後に大彦は伊賀に本拠地を持ったようで、その後継者の墓がこの古墳なのだろうと思う。
 歴史は崇神天皇以降、記述がかなり具体的になる。天皇の系譜も欠史八代時代のように紋切り型の長子相続ではなく、その時代らしく第二子か三子が継いだと書かれることが多くなる。しかし、私は『記』『紀』の天皇の血統についてはかなり疑いを持っている。古墳の形式も纏向も吉備をリーダーとしながら諸氏族の連合体であったように、『記』『紀』に書かれた天皇たちの地位もいわば各氏族間での交代制だったと思う。と言うより、権力争いの中で勝ち抜いていった氏族を並べたのが天皇の系譜だ。7世紀に天智・天武朝が万世一系を確立するまでは、歴史書が記すようにまっすぐつながっていたのではないだろう。
 ともあれ、時代は古墳時代に入った。古墳やそこから出土した遺物を検討することが歴史を理解するのに大いに役立つと思われるので、ここからは古墳を中心に見ていく。