青の一族

第3章 古墳時代前期-邪馬台国はどこか


5 3世紀の古墳


5-1 3世紀初期の古墳5-2 箸墓と同時期の古墳群5-3 黒塚古墳5-4 椿井大塚山古墳5-5 赤塚古墳5-6 豊前石塚山古墳5-7 三角縁神獣鏡5-7-1 三角縁神獣鏡の分有関係5-7-2 豊前石塚山古墳出土の三角縁神獣鏡の研究5-8 椿井大塚山の被葬者の企てと黒塚の主5-9 南部九州からの移住者と阿波岐原5-10 桜井茶臼山古墳5-11 玉手山古墳群


5―1 3世紀初期の古墳

 初期の古墳には前方部が撥形に開く形のものが多い。箸墓を頂点とするその分布は東瀬戸内に多いが、鹿児島の西海岸から丹後半島まで広い範囲に渡る。しかも前方後方墳でもこの形をとるものがある。最初に古墳の葬送儀礼を取り入れた首長はみな撥形も踏襲したらしい。この形式は早いもので3世紀前半の造営で、ほぼ3世紀後半に主体がある。
 典型的な前方後円墳でない古墳も各地にある。円墳は玄界灘に多い形で、九州では割竹式木棺ではなくて箱型石棺が中心だ。その他にも、石室がなくて粘土槨だとか、木槨だとか、葺石がないなど様々だ。一般に東日本は前方後方墳、西日本は前方後円墳が主流だ。西日本にも最初は前方後方墳があるが、いわゆる大和政権の力が強くなるにつれてそれらは前方後円墳に変わっていく。だがその首長はその後も東との結びつきが強いと考えられる。纏向遺跡の項でも述べたが、形は同じように見えてもそれぞれの古墳にそれを作った部族の個性がある。しかも各首長は他の首長と複雑で広範囲なネットワークを作っている。銅鐸のときと同じだ。年代ごとの古墳築造を追いながら氏族のグループ分けや権力の移り変わりを検討してみる。

5―2 箸墓と同時期の古墳群

 3世紀の後半頃の築造と考えられる100メートルを越える古墳は以下の通り。
大和……箸墓(纏向古墳群)、西殿塚・大和天神山・黒塚(柳本古墳群)、ヒエ塚・馬口山(大和古墳群)、桜井茶臼山
山城……椿井大塚山
摂津……弁天山(高槻市、後の継体天皇陵ができる三島にある)
河内……玉手山3号(柏原市)
播磨……丁瓢塚(よろひさごづか)(姫路市、景行天皇の后になった稲日大郎女(いなびのおおいらつめ)の根拠地)
吉備……浦間茶臼山(138㍍)・中山茶臼山
北部九州……赤塚・豊前石塚山(景行天皇にゆかりがある)、久里双水(くりそうずい/唐津市、マツラ国)、小熊山(こぐまやま/国東半島杵築(きつき)市)
日向……生目(いきめ)1号

 箸墓・西殿塚・馬口山からは特殊器台が出ているので被葬者は吉備系だろう。地方の古墳はどれも、後に『記』『紀』で語られる大豪族の根拠地に築かれている。久里双水は朝鮮半島への拠点、小熊山は景行の九州征討に関わりがありそうだ。大和天神山は遺体がないという不思議な古墳だ。椿井大塚山と黒塚はどうか。黒塚と吉備の浦間茶臼山は箸墓と同形の2分の1、椿井大塚山は3分の1に作られているので、これらの被葬者が同盟関係にあったことは間違いないだろう。しかし椿井大塚山は百年もしないうちに壊されたというし、黒塚は磯城の真ん中にあるのに誰の墓とも伝承がない。これはどうしたのか。誰の墓かわからないのは200メートルを越す大古墳の桜井茶臼山も同じだ。この二古墳をまず見てみよう。

5―3 黒塚古墳

 柳本古墳群に属す。127メートルで椿井大塚山と類似点が多くある。三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)・小札甲冑(こざねかっちゅう)・鉄族・ヤリガンナ・刀剣は共通した副葬品で、玉類は出ていない。三角縁神獣鏡は33面、画文帯神獣鏡は1面出ている。武人の墓らしい。そして埴輪も出ていない。つまり箸墓と同型でも祭祀は吉備型ではないということだ。そして北枕になっている。九州地域では被葬者を東西に向けて埋葬するのが風習なので、被葬者が九州や四国の出ではないことを示している。黒塚から出た朱は伊勢丹生(にう)鉱山産で、大和の他の古墳の朱は大和産だという。黒塚の主は伊勢と関わりがあった。そして福岡県小郡市の津古生掛(つこしょうかけ)古墳の朱も伊勢丹生鉱山産だ。

5―4 椿井大塚山古墳

 椿井大塚山はこの時期としては鉄器の副葬品が飛びぬけて多い古墳だ。鉄信仰があったと言えるほどらしい。鉄器の研究者、村上氏は椿井の段階で鉄製産がようやく王の鉄になったと述べる。鉄器は石器に代わる道具としての機能を持つことは言うまでもないが、そうした生活用具とは別に、王が威信財としての鉄器の製造を奨励し、工人集団もそれに専用の人々が現れたということだ。それまで地域の首長たちは青銅器を祭祀に用い、鉄を信仰の対象と見ていなかった。それゆえ鉄器の生産が奨励されず、鉄器の発展も北部九州のみにとどまっていた。それが、この椿井大塚山では被葬者が鉄器を重く見たことがはっきり表れている。鉄の甲冑・冠をはじめ、鉄の刀剣類14本以上・鉄鏃200個・鉄道具類60点以上、そして日本最古の刀子(とうす)も出ている。実用には耐えない大型の鉄鏃もあった。三角縁神獣鏡は32面、その他の鏡が4面出土。副葬品からすれば被葬者は、鉄の独自路線を行く突出したリーダーだった。
 これらの鉄器はどこで作られたのか。弥生後期後半から末にかけて中国地方の日本海沿岸には鉄遺跡が多く見られる。多様な鉄器を出した鳥取県の遺跡、関谷・宮内は天神川の河口から少し入ったところで、ここよりもっと海よりに弥生後期から古墳前期に朝鮮系無紋土器が多数出土している長瀬高浜遺跡がある。出雲から伯耆にかけては弥生後期の鉄加工品が出土した遺跡が点在している。柳・竹ヶ崎遺跡(島根県安来市)・上野Ⅱ遺跡(島根県宍道町(しんじちょう))・妻木晩田(むきばんだ)遺跡(鳥取県淀江町)。青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県青谷町)では270点以上の鉄加工品が出土した。
 丹後の奈具岡(なぐおか)遺跡(京都府弥栄町)ではテラス住居の中央に鍛冶炉4基を据えつけていて、鉄製品・素材・切片・鉄塊の出土量が多い。鉄より前から玉造りに従事していたらしく、玉造り用の鉄錐が作られるなど非常に特殊な生産を行っていたようだ。山城には弥生後期後半の星ヶ丘遺跡(大阪府枚方市)がある。しかし今のところ、その工房は見つかっていない。
 そして、この鉄信仰は紫金山(しきんざん)古墳(大阪府茨木市)→メスリ山古墳(奈良県桜井市)と受け継がれた。メスリ山は224メートル、桜井茶臼山古墳の後継者が被葬者だと言われる大古墳だ。

5―5 赤塚古墳

 大分県宇佐市にある赤塚古墳(57㍍)から、椿井大塚山古墳と同笵の三角縁神獣鏡が出ている。
 赤塚古墳は3世紀中頃に築造された九州最古の前方後円墳だ。弥生後期の中頃(100年頃)から九州の風習が各地に広まる一方、九州には畿内系土器が流入する。九州の風習が広まった背景には九州の人々が積極的に外に向かったという事実があるだろう。そうした動きに呼応するように畿内から九州にやってきた人もいた。その中にたぶん赤塚の被葬者の祖先がいたと考えられるのは、赤塚古墳のある高森古墳群には畿内の墓制である方形周溝墓があるからだ。そして高森古墳群に連続して作られる前方後円墳はこの地に代々続く首長がいたことを示している。それは菟狭(うさ)氏だと言われている。そして200年頃、大野川流域に大量の鏃が出土する。この方面に軍事行動が展開された証拠だ。菟狭氏は徐々に領土を広げていったようだ。
 赤塚古墳からは二重口縁壺が出土している。東海と連絡があったしるしだ。しかし棺は在地風の箱式石棺だ。
 そして、石塚山古墳からも椿井大塚山古墳と同范の三角縁神獣鏡が出ている。

5―6 豊前石塚山古墳

 箸墓と同時期で九州の古墳と言えば豊前石塚山古墳だ。福岡県京都(みやこ)郡苅田町(かんだまち)にあり、この時期の九州で最大の前方後円墳だ。小札革冑片が出土していて軍事活動に携わった人の墓だと推察できる。この墓は全長130メートル、前方部葺石仕様の2段築成・竪穴式石室・割竹形木棺という典型的な畿内型だ。石塚山の一族は後の〈豊直(とよのあたい)〉だという。九州の豪族の多くが国造制の〈君・公〉の中で唯一の〈直〉、つまり畿内からの派遣組だ。
 この古墳は赤塚古墳より少し遅れて築造された。畿内から来た石塚山の被葬者が菟狭氏の協力のもと豊前を制圧したということではないか。ここに支配を確立する目的は、関門海峡を押さえ朝鮮半島、さらに中国との交流を容易にしてその利益を一手に握ることだっただろう。
 この時期の九州の古墳にはほかに箸墓と同時期の津古生掛古墳(小郡市33㍍)と、石塚山と同笵鏡を持つ原口古墳(筑紫野市80㍍)があり、私はこの二つを佐賀平野の勢力圏内と見る。

5―7 三角縁神獣鏡

 早い時期の古墳群に副葬された鏡は方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や内行花文鏡などで、有名な三角縁神獣鏡ではない。それより少し後れて三角縁神獣鏡を副葬する古墳群が現れる。その中で最も古く、埋納数が多いのが山城の椿井大塚山古墳と奈良の黒塚古墳だ。
 三角縁神獣鏡は話題の多い鏡だ。『魏志倭人伝』にある卑弥呼が魏王から下賜された百枚の銅鏡がこれだという説があったせいなのだろうが、多くの研究がなされている。現在540面以上の三角縁神獣鏡が出ているが、はっきり三角縁神獣鏡と言えるのはどれかについてさえまだ議論が続いている。これほどたくさん出ているのだから卑弥呼がもらった百枚ではないだろうとも思える。だが、舶載品と仿製品の差は銅鏡の成分など科学的な根拠に基づくものではなく、文様の種類の研究や中国の鏡との比較などで推測されているだけだから、最初にもらった百枚に似せて同じようなものを作ったとすれば三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だという説も成り立つ。
 三角縁神獣鏡の最初のものは魏の年号、景初3年銘のある鏡だと言っていいと思う。『魏志倭人伝』によれば、景初2年にあたる238年に卑弥呼が魏王に遣いして貢献している。その見返りに魏王はいろいろな品物や詔書・印綬を女王に与えている。
 
5―7―1 三角縁神獣鏡の分有関係
 景初3年銘のものは島根県雲南市神原神社(かんばらじんじゃ)古墳から出ている。続く正始元年名のものは兵庫県豊岡市森尾古墳・山口県周南市竹島古墳・群馬県高崎市蟹沢古墳からの出土だ。どこも直接の畿内系ではないし出土地点もばらばらだ。景初3年なら、卑弥呼の遣いはまだ魏にいたと思われるのに、なぜこの年に作られた鏡が畿内とは関係のない場所から出土するのか(卑弥呼のいたところが九州だという説に従うにしても九州からも出土がない)。もちろん天皇陵に治定されている古墳は発掘されていないので、今後大和から出る可能性はある。しかし、見てきたように卑弥呼や最初の古墳築造のリーダーが吉備勢なら吉備の古墳から出てもおかしくないのに、初期の吉備の代表的な100メートル級の古墳である浦間茶臼山にはない(吉備の中山茶臼山古墳・西播磨の丁瓢塚もこの時期の大古墳だが調査されていない)。
 神原神社古墳は出雲にあり、ここは古くから青銅器の金属文化の中心地だ。豊岡市は天日矛(あめのひぼこ)が住んだという出石(いずし)に近く、金属関連の首長の勢力範囲だと想定できる。竹島は交通の要衝だから航海を担った首長が手にしたのかもしれない。群馬については、ここが早くから畿内勢力が入った地域であることは確かだが、なぜこの地にあるのかは謎だ。神原神社古墳と森尾古墳は方墳、蟹沢古墳は円墳で4世紀の造営。竹島古墳は前方後円墳だが作られた時期は4世紀とか5世紀前半だとか諸説ある。いずれも鏡が作られてから百年以上が経っている。
 三角縁神獣鏡が副葬された初期の古墳は、大和の黒塚・富(とみ)雄(お)丸山(まるやま)、山城の椿井大塚山・長法寺南原(ちょうほうじみなみはら)・万年山(まんねんやま)、吉備の湯(ゆ)迫車塚(ばくるまづか)、播磨の吉島(よしま)、筑後の豊前石塚山・豊前赤塚、筑前の原口・那珂八幡などがそうだが、椿井大塚山の32面と黒塚の33面が突出している。
 小林行雄氏による1981年の三角縁神獣鏡の同笵分有関係図【図22】を見ると、各地とのつながりの多さからしてこの時は椿井大塚山の被葬者が倭国の盟主だと考えざるを得ない状況だ。同笵鏡の分有先は大分・広島・岡山・兵庫・鳥取・愛媛・滋賀・愛知・岐阜・千葉・奈良など広範囲にわたる。同笵鏡を持つ岡山市の湯迫車塚古墳は前方後方墳で、ここは吉備なのにこの古墳には出雲の特色である葺石があって、吉備の特色の埴輪がない。兵庫の西求女塚(にしもとめづか)も前方後方墳で、祭祀用土器は地元のものではなく山陰系だ。富雄丸山は古くからこの地の豪族だった登美毗古の墓と思われる。但し1981年時点では大和の黒塚古墳の銅鏡は発見されておらず、小林氏の関係図には黒塚はない。また桜井茶臼山では80面以上の銅鏡が破砕された状態で見つかっており、この中に大量の三角縁神獣鏡があった可能性がある。
図22 三角縁神獣鏡の同笵関係 
纏向遺跡の土器
 黒塚の同笵関係はその他に湯迫車塚・西求女塚・豊前石塚山・桜井茶臼山・佐味田宝塚(さみたたからづか/奈良)・奥津社(おくつしゃ/愛知)・富波(とば)(滋賀)・中小田(なかおだ)1号(広島)だ。
 富波古墳は、野洲市の大岩山古墳群で最古の3世紀後半の築造で前方後方墳(42㍍)だ。東海地方の特徴を持つ丹塗りの壺片が出ている。中小田1号は太田川流域の首長の墓で4世後半の築造だ。

5―7―2 豊前石塚山古墳出土の三角縁神獣鏡の研究
 豊前石塚山には椿井大塚山・黒塚ともに分有鏡がある。石塚山と各地の他の古墳の分有関係を見てみると以下のようになる【図23】。
図23 豊前石塚山古墳出土の銅鏡の研究 (『筑紫政権からヤマト政権へ』から)
豊前石塚山古墳出土の銅鏡の研究
「吾作銘四神四獣鏡」中小田1号(安芸)、西求女塚(播磨)、万年山・椿井大塚山(山城)、黒塚(大和)……①
「獣文帯四神四獣4号鏡」御陵韓人池(みささぎからひとのいけ/イト)、黒塚(大和)、花野谷(はなのたに)1号(越前)
「獣文帯八神四獣鏡」奥津社(尾張)
「獣文帯四神四獣5号鏡」新山・黒塚(大和)、西求女塚、湯迫車塚(備前)
「獣文三神二獣鏡」椿井大塚山、豊前赤塚、天神ノ森(筑前)、原口(筑後)……②
 これらの同笵鏡を傷の少なさで格づけした長嶺正秀氏の研究がある(『筑紫政権からヤマト政権へ 豊前石塚山古墳』2020)。それによると、
 万年山→椿井大塚山→西求女塚→石塚山→中小田
 椿井大塚山→石塚山→赤塚→原口→天神ノ森
 となる。
 万年山古墳は大阪府枚方市の意賀美(おかみ)神社の境内にあったとされる前方後円墳だ。意賀美神社の祭神は高麗神となっている。かなりはっきり渡来人だとわかる。意賀美神社の地に住んだという伊迦賀色許は穂積臣(ほずみのおみ)の祖とも物部氏の祖とも言われる。金属器製造または土器製作集団の首長に違いないだろう。
 次に赤塚古墳出土の銅鏡の同笵鏡を見てみると、椿井大塚山・豊前石塚山・原口・天神ノ森・長法寺南原(山城)・桜井茶臼山(大和)・筒野(伊勢)にある。南原の事情は複雑で、初めは前方後円墳だったものを前方後方にしたらしい。筒野は前方後方墳で三重県松阪市にあり、そばに雲出川(くもずがわ)が流れている。天神ノ森は4世紀の造営と言われるがやはり前方後方墳だ(但し鏡は現存する前方後方墳からではなく、かつて隣にあった古墳から出土したもの。かつての古墳の墳形は不明)。

5―8 椿井大塚山の被葬者の企てと黒塚の主

 以上見てきたように、銅笵鏡分有の各古墳の地域を見てみると吉備が入っていない。湯迫車塚は備前だが前述したように山陰系らしい。つまり山城の首長は吉備と同盟を結んではいたが、その勢力に対抗すべく他地域との同盟を強化したのではないか。そのために独自の方法で新しく作られたのが三角縁神獣鏡だったと私は考えている。
 2014年に京都国立博物館学芸部長の村上隆氏が、三角縁神獣鏡は日光に当てると後ろの文様が浮かび上がる魔鏡だったという研究を発表した(KYODONEWS2014・1・29)。鏡の厚さには部分的な違いがあるが初期のものはこの厚さの差が大きく、これが魔鏡の由縁だという。三角縁神獣鏡は240年頃から280年頃まで作られ、後期のものになるほどこの厚みに差がなくなるという。
 三角縁神獣鏡は図像学の見地からは中国の思想を踏襲していないそうだ。図は元来哲学を表したものなのだが、神などの配置が中国の思想からすると意味をなさず、要するに形だけ真似したようなものらしい。日本で作れば中国の思想までは真似できなくても不思議ではないし、逆に中国で作ったのなら、いくら工人に急がせてもそうはならないのではないか。
 私は魏に遣いした卑弥呼とともに各豪族の首長が中国へ同行し、彼らの何人かは独自に匠を日本に招聘したのだと思う。それらの首長は銅鐸製作以来中国との関係を保ってきたかもしれない。それらの匠のひとりが伊迦賀色許で、彼に率いられた工人集団が大量に三角縁神獣鏡を作り、椿井大塚山の首長が各地の首長に同盟の印として配布したか、あるいはこれによって何らかの物質的な利益を得たのだと私は考える。当時この不思議な鏡をみなが競って手に入れたがったことは想像に難くない。
 椿井大塚山と似た形の古墳が越にある。椿井の首長は山陰の日本海に沿った鉄生産技術や工人、地域的には越や山城や伊勢など各地の反吉備首長と連合を作って、そのときの中心勢力を凌駕しようとしたように思える。
『記』「崇神段」に「山城にいる私の異母兄、建波邇安王(たけはにやすのおう)が反逆心を起こした」とある。そしてそれに続く戦闘の場所はまさに椿井大塚山の周辺で起きている。『紀』では、伊迦賀色許売の夫の孝元天皇が、河内青玉繁(かわちのあおたまかけ)の娘の埴安媛(はにやすひめ)を娶って武埴安彦(たけはにやすひこ)が生まれたとする。彼は崇神のおじにあたるわけだが、同じく孝元の子の大毘古(おおびこ)が埴安彦を討っている。
 椿井大塚山古墳は築造から百年も経たないうちに壊されたという。埴安彦の反乱伝承の主が椿井の被葬者だという説があるが説得力があると思う。結局、その当時の椿井を頂点とする一族と同盟者の企ては失敗に終わったのだ。椿井は古墳の形などから見ても箸墓や初期の前方後方墳連合の一員だったことは間違いないと思われる。しかし、一時手を組んでも相手を突出させるのは阻もうとするだろうし、有力首長が機を窺って権力を掌握しようとするのは古今東西おなじみのことだ。この時代も後の時代もそうした謀略の繰り返しだ。埴安彦伝承に見る同族間の抗争は椿井大塚山古墳の状況とよく合っていると思う。
 椿井と同盟したと思われる大和盆地の黒塚は誰の墓か。私は、これは狭穂(さほ)彦(びこ)の墓ではないとか思う。椿井の南を流れる木津川の通行権を掌握したのが埴安彦ならその南の佐保川を掌握して、その一帯を支配していたのが狭穂彦だ。歴史ではこの山城の二勢力を崇神・垂仁の二代で潰したことになっている。黒塚から北1.5キロメートルほどのところに佐保庄町(さぼのしょうちょう)がある。その地域内の南端にあるのがヒエ塚古墳だ。これは狭穂媛(さほひめ)の墓ではないか。ヒエ塚は葺石はあるが埴輪はなく、副葬品は勾玉・管玉・金輪なので被葬者はおそらく女性で、130メートルの大きな墓なのにその祭祀形態は吉備式ではない。『記』『紀』の記述の中に、この墓の主を求めるならば垂仁天皇の后であったのに反逆者の兄とともに死んだ狭穂媛があたるように思う。

5―9 南部九州からの移住者と阿波岐原(あわきはら)


 埴安彦伝承で『紀』に、彼の妻の吾田媛(あたひめ)が大坂(香芝市穴虫)から攻め入ったという記述がある。〈アタ〉と言えば鹿児島県の吹上浜周辺で邇邇芸が吾田津媛(あたつひめ)と結婚したことを思い出す。埴安彦の反乱のときに大坂に吾田の姫がいたのか。つまり淀川沿岸に南部九州の人々が入植していたのかということだが、これはおおいにありうることだと思う。
 曽於市末吉町からは縄文中期の瀬戸内系土器が出ているし、弥生中期から宮崎市周辺でも瀬戸内とのつながりが多くなる。南方海洋族の神話が淡路島まで伝わっている。九州南部の東海岸は太平洋から瀬戸内海、そして大阪湾に至る海の道の中継点だ。
 曽於の人々は早いうちから瀬戸内海を通して大阪湾に達していた。大化前代に奈良盆地にあった宮廷直轄領を六御県(むつのみあがた)と言うが、登美毗古(長髄彦)の本拠地にあるのが添御県坐(そうのみあがたにいます)神社で祭神は須佐之男・櫛稲田姫・武乳速だ。〈添/そう〉は〈曽於〉で、宮崎県の大淀川流域の住民が移ってきたのだと考える。大坂湾に注ぐ川に淀川と故郷の地名をつけたのもその人々ではないか。
 伊邪那美を追って黄泉国に行った伊邪那岐は、帰ってから禊をする。水で穢れを祓う思想は海洋族のものだ。禊をした場所は「竺紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」だと『記』にある。これを宮崎県大淀川河口に比定する説と福岡方面だと考える説があるが、これまでにも述べたように南洋→九州南東部→瀬戸内の流れがあったことはかなり可能性が高いので、宮崎と考えるのが自然だと私は思う。
 宮崎市阿波岐原町(あわきがはらちょう)の江田神社は祭神が伊邪那岐で、禊の伝説の地はここだと伝える。
 この近くにある檍(あおき)遺跡は縄文晩期の土器も出土する古い遺跡で、讃岐や阿波に特徴的な積石墓9基が出ている。私はこの〈あおき〉は〈あわき〉だと思う。ここに4世紀の前半から中期頃に、前方部の先が撥形に開く52メートルの纏向型の前方後円墳ができる。古墳時代の早い時期にこれほどの規模の古墳が、畿内から遠く離れた南部九州に現れるのは不思議に思えるが、それは古来ここが瀬戸内や畿内と強いつながりがあってのことだと考えれば理解できる。

5-10 桜井茶臼山古墳

 2―1項で、庄内式の甕が大和では天理市から桜井市周辺に、九州では小郡市に集中することを述べた。小郡市には箸墓と同時期の、九州では最も古い前方後円墳に属する津古生掛古墳がある。この古墳に使われている朱は伊勢丹生(にう)鉱山産だ。そして東海の二重口縁壺が出ている。大分県宇佐市の赤塚古墳からもこの土器が出ている。この土器は桜井茶臼山でも出ている。二重口縁壺は佐賀市の金立(きんりゅう)銚子塚古墳(4世紀末)からも出ている。さらに愛媛県今治市の妙見山古墳(3世紀後半55㍍)からも二重口縁壺が出ている。このことは、この時期に既にあった筑後川流域・大和東南部・尾張あるいは美濃との間にあったつながりのルートを示していると思える。
 2章11―2項でも述べたが、桜井茶臼山は伊勢と出雲・九州系合同勢力の首長が被葬者ではないかと思う。桜井茶臼山は墳頂に内方外円区画というものがあって、そこで儀式をしたという。形式はホケノ山に引き継がれた木造の墳頂の神殿と似ているようだが、木造の神殿の代わりにおびただしい円筒埴輪でそれを表している。この古墳はそうした儀礼の最初の例だという。やはり纏向の初めのリーダーとは一線を画す集団だ。
 そしてこれに続いて築造されるメスリ山古墳は224メートル、大量の副葬品でまさに王者の墓といってもいいくらいなのだが、これも誰が葬られているのかわからない。椿井大塚山古墳に始まる鉄器の副葬の伝統は、紫金山→メスリ山と受け継がれる。メスリ山からは、盗掘されていたにもかかわらず200本以上の鉄槍が出た。この古墳の主は尾張の武器作り集団の長ではないかと思われる。
 桜井茶臼山の被葬者を想像すると曙立王(あけたつおう)が浮かぶ。『垂仁記』に、天皇が出雲大神の宮を参拝させる使者に彼を抜擢したときに、誓約で奇跡を見せたことで彼に名を与えたとある。曰く〈倭の師木の登美の豊朝倉の曙立王〉。桜井市朝倉の近くの鳥見山のふもと、これはまさに桜井茶臼山のある場所だ。曙立王は開化天皇の曾孫で、伊勢の品(ほむ)遅(ち)部君(べのきみ)・佐那造(さなのみやつこ)の祖だという。
 佐那は三重県多気(たき)郡にその名がある。佐那神社は伊勢神宮にゆかりが深く、天手力男命(あめのたじからおのみこと)と曙立王(あけたつのおおきみ)を祭る。伊勢神宮の滝宮が郡内にある。〈佐那〉は〈サナグ〉という地名に由来するという。サナグはサナギ、銅鐸のことだ。須佐之男に関係のある佐田の名は多気郡と度会(わたらい)郡にあった。多気郡には出雲系九州氏族が来ていたことは述べたが、曙立王はその後裔ではないか。だから彼が出雲への遣いに立ったのだ。
 多気町(旧飯高郡)には丹生鉱山があった。これは縄文時代から昭和まで辰砂などが採掘された非常に産出量の多い鉱山だった。曙立王がこの辰砂から採れる水銀朱を財源として威勢を誇ったとすれば、桜井茶臼山の規模が納得できる。〈あけたつ〉という名も朱を連想させる。また、これが彼の墓だとすれば黒塚古墳にあった伊勢の水銀朱の入手ルートがはっきりする。

5―11 玉手山古墳群

 大和川と石川の合流点に南北に伸びる玉手山丘陵(大阪府柏原市)にある、古墳時代前期の玉手山古墳群はこの時期としては他に類を見ない規模の大きさだという。その中で箸墓と同時期なのは95メートルの3号墳(勝負山)で、香川産の石を使った刳貫(くりぬき)式石棺が出ている。石棺と言えば九州を連想する。これに先立つ9号墳からは特殊器台片が出ている。そして3号に続く1号墳(107㍍)は4世紀初頭、7号(110㍍)墳は4世紀頃の築造らしいが学説は定まっていなくて7号の方が早いとする人もいる。
 1号の墳丘の形はメスリ山に似ていて、この形は桜井茶臼山→メスリ山→渋谷向山と続くという。そして7号は行灯山に墳形がとても似ているという。しかし石棺直葬らしく、いわゆる纏向風の葬送法とは違う。ここには円筒埴輪も二重口縁壺もある。1号と7号の時期にそれほど開きはないようだ。纏向地域と桜井地域との複雑で重層的な関係が見える。
 玉手山はまさに、生駒山と葛城山の隘路を抜けて奈良盆地に至る穴虫越えと言われる街道の入り口に当たる。ここは交通の要衝だから玉手山古墳の主たちは様々な氏族と関係を持ったことだろう。
 私はこの地を掌握した豪族の始祖が安寧天皇ではないかと思っている。彼の名が玉(たま)手見(てみ)だからだ。彼の母は『記』では河俣毗売(かわまたびめ)で后は川俣姫の兄、波延(はえ)の娘だ。川俣は旧大和川が河内湖に注ぐ河口の地だ。玉手見の曾孫が孝霊の后になる玖邇阿礼比売(くにあれひめ)、またの名は蠅伊呂泥(はえいろど)だ。安寧天皇の宮は浮穴宮というが、浮穴の地名は肥前風土記と伊予風土記に見える。伊予の浮穴は松山市周辺だ。安寧一族は肥前から、伊予、淡路島を経て河内へ進出したのではないか。しかし、玉手山古墳群の多様性を見ると氏族の中にも派閥があったように思える。