青の一族

第5章 大古墳の世紀:5世紀-なぜ天孫は日向に降りたのか


7 景行天皇の征討の道

7-1 周防灘沿岸と久住山7-2 筑後川沿い7-3 その他の九州の景行譚と古墳



7―1 周防灘沿岸と久住山(くじゅうさん)

『紀』の景行の九州征討でまず語られるのは、福岡県の周防灘側の行橋(ゆくはし)市から中津平野周辺のことだ。菟狭(うさ)・御木(みけ)・高羽・緑野の川上にいる土蜘蛛を討つ話だ。それぞれの川は駅館川(やっかんがわ)・山国川・彦山川・紫川に比定され、それらを総合すると直方(のうがた)市・田川市・英彦(ひこ)山(さん)・耶馬(やば)溪(けい)を結ぶ線の地域を制圧したことになる。『紀』ではこれを、多臣の祖の武諸(たけもろ)木(き)・国前臣の祖の菟名手(うなて)・物部君の祖の夏花(なつはな)の業績とし、景行は賊が制圧されてから筑紫入りする。
 これは実際には豊前石塚山古墳と赤塚古墳の被葬者の仕事だったのだろう。3世紀の前半にまず畿内からここに来た人々がいた。また、中津平野に早くから入っていた赤塚古墳の主の後裔が九州の各地に勢力を伸ばしたことも考えられる。この景行伝説はこれらの畿内勢力の侵攻をまとめたものだと考えられる。赤塚古墳は宇佐氏の墓と言われるが、『紀』には神武天皇が東遷するときに菟狭に来て、菟狭津媛と中臣の遠祖、天種子(あまのたねこ)を娶せたとある。宇佐氏は宇佐八幡宮の社家で、祖は菟狭津彦だという。菟狭津媛の兄だ。行橋市草場が昔中臣邑といわれたらしく、中臣氏の痕跡はあるが神社などの伝承には中臣は登場せず、この婚姻譚はやはり5世紀以降に歴史が書かれた頃の挿入だと思われる。
『豊後国風土記』に豊国直(とよくにのあたい)の祖、菟名手が中津郡の中臣村に着いたとある。『記』には、孝霊天皇と意富(おお)夜麻登玖邇阿礼比売(やまとくにあれひめ)の子、日子(ひこ)刺肩別(さしかたわけ)が国前臣の祖だとある。ヒコが始めに来る名なので、この人も5世紀頃の人だろう。日子刺肩別はまた高志利波臣(こしのとなみのおみ)・角鹿済直(つぬがのわたりのあたい)の祖とされ、北陸にゆかりがある。また、静岡の水軍、五百原君(いおはらのきみ)の祖でもあり、利波・済・五百原は同族だとされる。国東半島の杵築(きつき)市に3世紀後半頃できた小熊山古墳(116㍍)は、大分県では亀塚と並んで最大の古墳で円筒埴輪を備えている。これが国前臣の墓と言われる。埴輪や伝承から考えて国前臣は吉備系だと思われるので、『記』の記述に合う。物部氏の痕跡は、墳丘上に白庭神社が立っている御所山古墳だ。
 次に景行の戦いの様子が詳しく語られるのは久住山の麓、禰疑野(ねぎの)の土蜘蛛の討伐だ。禰疑野は現在の竹田市にあたり、西隣は阿蘇市だ。阿蘇市の中通古墳群には長目塚古墳のほかに1基の前方後円墳と8基の円墳があり、それらは5・6世紀の築造だという。これは畿内勢力が九州を横断する陸の通路を確保した結果と見られている。長目塚は4世紀の末か5世紀初頭にできているので、畿内勢力の禰疑野の土蜘蛛討ちは4世紀の後半だと思われる。

7―2 筑後川沿い

 景行逸話が最も密なのが筑後川流域から別府湾に至る、現在の久大(きゅうだい)本線沿いの地域だ。
 この地域の古墳の様子を古い順に見ていくことにする。
 3世紀後半 鳥栖(とす)市に赤坂古墳ができる。
       24メートルと小型の前方後方墳で二重口縁壺が出ている。
 これと同時期に朝倉郡筑前町に焼ノ峠古墳(39㍍)があるがこれも前方後方墳だ。
 3世紀末  小郡(おごおり)市の津古生掛(つこしょうがけ)古墳(33㍍)
       伊勢丹生鉱山産の赤色顔料を使っていて二重口縁壺が出ている。
 4世紀前半 津古1号墳(42㍍)そばに4世紀初頭に作られた方墳がある。
 4世紀後半 小郡市の三国の鼻1号墳からは二重口縁壺が出ている。
 4世紀末  佐賀市に金立銚子塚(きんりゅうちょうしづか)古墳(98㍍)ができる。
       竪穴式石室で柄鏡形。桜井茶臼山の二重口縁壺と酷似した壺が出ている。
 5世紀前半 佐賀市大和町に導善寺古墳(70㍍)
 5世紀中頃 大和町に船塚古墳(114㍍) 竪穴式石室で墓の向きは南北。佐嘉君の墓か。
       奈良県馬見の新木山古墳・百舌鳥の履中陵との共通性を指摘されている。
       うきは市の月岡古墳(80㍍)
       朝倉市の堤当正寺古墳(70㍍)
       小郡市に帆立貝形に近い横隈古墳(35㍍)
 5世紀代の古墳として、うきは市に塚堂古墳(90㍍)、朝倉市に小田茶臼塚古墳(54㍍)
 4・5世紀に三養基郡(みやきぐん)に30メートル程度の古墳が多く作られる。

 これらの古墳の様子を見ると、伊勢・尾張勢力は3世紀の後半までに小郡市を中心とした地域に入ってきている。周防灘に面した地域にある赤塚古墳にも二重口縁壺があったので、箸墓古墳と同時代に畿内からここに入植したのは尾張勢だったと考えられる。4世紀末には佐賀市の吉野ケ里に近いところまで勢力を伸ばした。また、福岡県三井郡大刀洗町(たちあらいまち)周辺や小郡市大崎の岩船神社は物部氏の勢力範囲だという。苅田町の豊前石塚古墳も物部氏中心で築造されたと考えられる。
 物部氏は尾張一族から派生したか、尾張氏より新しく日本に来た物作り集団で、尾張一族と同じような場所に住んでいたと思われる。これまで調べてきたことから、福岡県鞍手郡の六ヶ岳周辺が故地で小郡市地域に進出したと考えられる。尾張と物部氏はほぼ同義のような感もある。物作りには自分の土地がないが、尾張は最後には尾張の国を作った。しかし、物部は大阪平野の生駒山の西に領地があったとは言え、ついに物部郡というものはできなかった。
 いずれにせよ、この地域に景行の逸話が多いのは彼が尾張の人だったからだと考えられる。
『肥前風土記』の養父郡臼理郷(やぶのこおりわたりのさと)で、三井川(筑後川)の川幅が広いので景行が生葉山(いくはやま)と高羅山(こうらやま)の木で船を作ったという話がある。いくは=うきは市は5・6世紀、高羅山のある久留米市は6世紀に古墳が増えるところだ。この船を作った景行という人がこの時代に生きた本当の景行だと私は思う。そして、記録が書かれた頃、尾張氏よりも威勢を誇っていた物部氏が故郷の大首長を景行天皇として天皇の系譜に入れ、彼より前の世代の畿内勢の九州征服も彼の業績としたのだと思う。

7―3 その他の九州の景行譚と古墳

『風土記』や『紀』で彼の名づけ譚は多いが、実際の古墳と関連がありそうなものを少し挙げてみる。
『肥前国風土記』に杵島郡の磐田杵(いわたき)の村に景行が行ったという話がある。磐田杵は佐賀県武雄(たけお)市の朝日町上滝だという説がある(ほかにもあるが)。武雄市に4世紀の後半の多蛇古(たいじゃこ)古墳(40㍍)と武雄神社がある。祭神は竹内宿禰だ。この神社の創建は700年代と新しいので言い伝えは後の創作かもしれない。『紀』で竹内宿禰の父にあたるという屋主忍男武雄心(やぬしおしおたけおごころ)に関係するのではないかとも思える。竹内宿禰も武雄心も紀氏に関係が深い。
『紀』の火国の葦北で湧水が出た話は、熊本県の水島が大鼠蔵島(おおそぞうじま)に比定され、4世紀後半の南北向きの楠木山古墳(4・5㍍の石室のみ)がある。
『紀』の熊県で熊津彦兄弟の弟を誅殺する話で関係がありそうなのは、熊本県球磨郡錦町の亀塚1・2・3号墳(50㍍級)だ。3基のうち2基が南北方向を向いていて、東日本系だということを示している。景行の火国説話では、『紀』の熊襲梟帥(くまそたける)を討つ話の最後に、梟帥の二人の娘のうち妹の市鹿文(いちかや)を火国造(ひのくにのみやつこ)にしたとあるのが気になる。4世紀末の宇土市の向野田古墳の被葬者は女性だ。時期的に見て、この逸話と古墳が関連する気がする。景行が討ったという熊襲は上に述べた熊津彦のことではないか。
 火国に関しては崇神の時代に火国造の祖、健緒組(たけおくみ)が土蜘蛛を討ったと『風土記』にある。健緒組を祭る健軍(けんぐん)神社が熊本市にある。彼は神八井耳(かんやいみみ)(綏靖天皇の兄)の後裔だという説がある。
 これらの話には特に物部系の色は濃くない。そして、畿内勢は九州北部を支配下に置いたものの、曽於地方までは行けなかったと見られる。『風土記』は散逸して、日向や球磨の国のものは伝わらないが、『紀』「景行段」の記述の多くが『風土記』から採られたものだと思えるので、もし他の地域にも景行譚が残っていればそれを入れないはずはないが、南部九州の話はあまりないからだ。ただひとつ、襲国(そのくに)の厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや)を討つ話があって、これを大隅半島の鹿屋市のこととする説がある。南の海から志布志湾に入った尾張人の話だろう。
 九州の『風土記』が成立するのは『紀』の成立とほぼ同時期で、『風土記』の方が『紀』の記述を採ったのだというが、そうとは思えない。他の『風土記』ではそういうことはないし、同時期に成立したのなら官の製作物を地方が見せてもらえる率よりは官が地方の製作物を途中で検閲する率の方がよほど高いだろう。あるいは、豊前の『風土記』の内容と同じ歴史を知っている氏族が『紀』の編纂者の中にいたかどちらかだろう。