青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


2 反正天皇とその陵


2-1 名代2-2 諱と陵墓


 仁徳の息子とされる履中天皇は仁徳より前の世代だった。ではもう一人の息子、反正天皇はどんな人だったのか。名代(なしろ)を参考に、反正天皇の性格を考えてみる。

2―1 名(な)代(しろ)

 名代制度は、天皇やその后・妃・皇子・皇女の名をつけて、天皇家の直轄領地を定めたもので5世紀初めに始まり6世紀末には終わった。初めて名代を作ったのは仁徳とされる。それまで地方経済は、その土地の豪族が天皇家、あるいは中央の有力氏族に協力するかたちで中央政権に寄与していたが、中央による地方の直接支配の手始めが名代だ。この名代をもとに6世紀以降国造制度ができる。国造制は簡単に言えば、地方豪族がそれまでその地を勝手に支配していたものが、支配自体は変わらないものの天皇家、あるいは朝廷の権力のもとで支配する形になることだ。中央集権への過程と言える。
 仁徳の名代は雀部(さざきべ)、反正は丹治比部(たじひべ)だ。全国61の国のうち雀部は丹波・但馬・出雲・阿波・讃岐・摂津・和泉それに東国の5国にある。丹治比部は因幡・出雲・隠岐・備前・備中・安芸・山城・河内・摂津・和泉そして東国の4国 にそれぞれの部民がいる。雀部は大阪湾近隣に集中する傾向があるが、丹治比部の方は幅広く、何よりも安芸・吉備にあり、山城まで入る。部民を持つということは、それまでの歴史でその地に何らかの影響力を行使していた首長でなければできないことだろう。吉備氏族は5世紀の前半に百舌鳥に次ぐ大古墳を築いていた勢力だ。そこに部民を持つとすれば、反正は仁徳の子ではなくむしろ吉備系首長、大友別の子だと考える方が自然な気がする。

2―2 諱と陵墓

 反正天皇の諱は多治比水歯別(たじひのみずはわけ)だ。多治比とは、奈良時代に鋳物師として働いた人々の族が多治比であることから鋳物師を指すという。だからこれも物部氏一派だ。多治比郡は現在の大阪府松原市・堺市の東部・大阪狭山市を含む広い地域だ。松原市の柴籬神社が反正天皇の宮跡だといい、丹治氏の本貫は松原市の丹南とされる。5世紀中頃に丹南の南に黒姫山古墳(114㍍)ができる。これは丹治氏の墓とされ、甲冑24領と大量の武器・武具が出土した。
 ミズハの名が他に見えるのは『紀』で、景行の妃の一人、三尾氏(みおのうじ)の磐城別(いわきわけ)の妹の水歯郎媛(みずはのいらつめ)だ。三尾氏は滋賀県の高島市を本拠とする氏族で、ミズハは罔象女(みつはのめ)という水の神を表すという。罔象女は伊邪那美から生まれたとされ、全国にこれを祭る神社がある古い神だ。しかしその神社の分布にはある傾向が見て取れる。神社が最も多いと思われるのは三重県の伊賀市だ。次に新潟県・滋賀県に多い。高島市・野洲市・湖南市にもある。石川県・福井県・長野県・静岡県など青の一族の足跡に重なる部分が多いのだ。島根県の隠岐の島に祭られているのはそこが発祥の地だからだろう。
 三尾は6世紀の継体天皇の別荘があった地で、和泉の摩湯山古墳や黄金塚古墳は継体天皇陵がある三島と関係がある。多治比の地の位置からしても反正天皇は三島やその北の地域とも、和泉地方とも関連があったと想定されうる。これに似た条件の人物は日葉酢媛の息子とされ、千振りの剣を作ったという五十瓊敷入彦だ。和泉が本拠地で物部一派だ。三島や丹後とも関わりがある。
 反正天皇は履中天皇に住之江の中津彦を殺せと言われて実行するのだから履中側だ。履中は娘の長田媛を大日下に嫁している。仁徳系との連携を図ったということだろう。その仲を取り持つ位置にいるのが反正だ。多治比の名を持つのだから物部だ。しかし、近江勢や吉備との関係もある。
 私は、これまでの観察から反正天皇陵は市野山古墳ではないかと思う。1尺25センチメートルで築造される古墳の代表は市野山と田出井山で、大仙や誉田御廟山の次世代型だ。この点からも、上に述べてきたようなことから考えても、仁徳の次の王としての反正の墓は市野山が妥当に思える。もしそうだすると、まったくの想像だが反正陵に治定されている田出井山(たでいやま)古墳は墨江之中津王(すみのえのなかつみこ)の墓かもしれない。
 ちなみに、応神陵の陪塚とされる誉田丸山古墳は誉田御廟山より少し新しいらしいが、ここから出土した馬具は初現期のものがほとんどで、同じく応神陵の陪塚の鞍塚古墳出土の馬具も同様だという。市野山古墳の陪塚とされる長持山古墳出土の馬具は新型で旧型とは系統を別にするという。旧型時代は鞍作工人がいなくて馬は儀仗用だったらしい。新型の人々は馬を使う文化を持ち込んだようだ。