青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


3 物部氏の隆盛


3-1 仁徳の治水工事と物部系の古墳3-2 但馬・丹波国と日下部


3―1 仁徳の治水工事と物部系の古墳

 仁徳天皇は墨江の津を定めたという。それは現在の大和川が大阪湾に注ぐ堺市遠里小野町(おりおのちょう)にあったらしい。『延喜式』に「その前は播磨(たぶん揖保川河口のたつの市御津町)から乗船していた」とあり、そこまで行かないと安全に船を停めておけなかったわけだ。仁徳はまた小橋の堀を掘ったり橋をかけたりしたという。小橋は大阪城の南の地域だ。茨田堤(まむたのつつみ)を築いて茨田の屯倉(みやけ)を定めたともある。茨田堤は寝屋川市の光善寺から豊里大橋にかけての淀川左岸の地域で、屯倉もこの周辺だ。『記』に、「秦人を労役にあて」という記述もあるが、こうした工事には労働力だけでなく土木技術も渡来人に負うところが大きく、仁徳は彼らを掌握していたことを示す。本来職業集団の渡来人には土地がない。しかし、仁徳は水害で住みにくかった今の大阪の市街地を土木工事で居住可能な物作りの人々の土地にしたのだ。それが仁徳が聖王と言われるゆえんかもしれない。そしてその仕事に従事した人々の中心は物部氏だっただろう。この後、物部氏の隆盛が各地に見られる。
 その兆候のひとつは、かなりはっきりと物部氏系とわかる古墳が増えることだ。まず、5世紀中頃の佐紀のウワナベ古墳で、その陪塚からは870枚の鉄板が出た。ウワナベは八田皇女(やたのひめみこ)の墓とされる。八田皇女は和邇氏の祖の比布礼意富美(ひふれのおおみ)の娘の宮主矢河枝媛(みやぬしやがわえひめ)と応神の娘で、葛城の磐之媛の後に仁徳の后になる。後代の八田の名のつく連や首の人々の祖をたずねると、伊迦賀色許男・饒速日・賀茂建角身(かもたけつぬみ)などみな金属製作の首長になる。和邇氏自身が琵琶湖西南岸の氏族と同族で彼らは金属製作と関連がある。奈良の大安寺周辺は和爾氏の土地で、5世紀中頃ここに杉山古墳(155㍍)ができ、窯跡がある。5世紀の後半に奈良の山辺地域に西乗鞍古墳(118㍍ 天理市)、続いて6世紀前半に東乗鞍古墳(75㍍ 天理市)ができ、これが物部氏の墓所だとされる。
 また、5世紀に操業を始める製鉄所の存在が知られている。それらは陵南・布留・大県・巨勢・忍海・猪名にあった。これには当然物部氏が関わったことだろう。製鉄は5世紀の中頃に国内工人と渡来工人の競合があるが、5世紀後半には組織が統合されるという。

3―2 但馬・丹波国と日下部

 大日下王(おおくさかのみこ)は仁徳天皇と髪長媛の子とされる。歴史書からするに住まいは生駒西麓の日下だったらしい。ここは饒速日が降りたという伝承のある物部氏の本貫だ。ここに本拠があることは大日下と物部氏の関係が深かったことを示す。
 彼の母の髪長媛は加古の港に入った。加古川流域には5世紀の前半から大きな古墳が作られる。 
 5世紀初頭に朝来(あさご)市にこの地方最大級の池田古墳(140㍍)ができる。朝来市は但馬の国に属すが、南北の但馬を統合した最初の首長が池田古墳の被葬者だという。池田古墳は古市の市野山古墳と共通性があるといい、朝来市の古墳群は畿内勢力と密接な関係があるという。但馬は元は丹波に含まれ、丹波の発祥は丹後だった。また但馬は天日矛の地でもあった。彼は吉備系の応神と協力して軍事行動を行っていたと推測した。そのままの体制なら周りの小古墳は方墳になりそうなものだが、5世紀になると九州系の円墳ばかりになっている。
 但馬国造の祖は船穂足尼(ふなほのすくね)という人で日子坐(ひこいます)から出ているとされる。但馬は古くは丹後文化圏の範囲だからこれは自然なことだが、船穂足尼の子孫で国造になった人に日下部君がいる。朝来市の粟鹿(あわが)神社は日子坐と彦火火出見を祭っていて、天日矛を祭る豊岡市の出石神社に並んで但馬一宮を主張していたという。日下部氏は摂津・播磨など広範囲に見られるが、その中心は池田古墳のある朝来市の和田山町だという。ここに大日下王に関係する部民がいたことは、5世紀に仁徳系物部氏がこの地域を勢力下に入れたことのしるしだろう。池田古墳の主は物部氏の勢力下で地域を統合したが、祭祀は古来の方法を取ったのだと思う。象徴的にそれを表すのが23体の水鳥埴輪だ。
 朝来市の古墳は、池田の後に茶すり山古墳(90㍍ 円墳)、5世紀後半に船宮(ふなのみや)古墳(91㍍)、6世紀前半には小丸山古墳(60㍍)と相次いで作られる。
 丹波には5世紀中頃に雲部車塚古墳(140㍍丹波篠山市)が作られる。この地に突如として現れた大古墳で、丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の墓と伝えられる。誉田御廟山古墳と平面プランが似ており、畿内と強い結びつきがあるようだ。また古墳の規模や長持形石棺が出ていることなどが池田と共通で、この時期に畿内勢力と手を結んで地域を統合した新しい首長が連携した形で登場したことがわかる。彼らは吉備系・九州系の双方と関係があった。
 加古川流域にはほかにも古墳がある。加古川市には5世紀前半に行者塚古墳(100㍍)が作られる。加西市の玉丘古墳(109㍍)からは長持形石棺が出た。これより小さいものでは養父市の三宅タイコ山古墳(44㍍円墳)、5世紀中頃に小野市に小野王塚古墳(45㍍円墳)が作られる。丹波篠山市には5世紀後半に新宮古墳(52㍍円墳)が作られる。その北の綾部市には5世紀前半の聖塚古墳(55㍍方墳)、5世紀中頃の私市円山(きさいちまるやま)古墳(70㍍円墳)がある。これらの地域では6世紀以降鉄生産が盛んになる。