青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


4 允恭天皇と忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)


4-1 天皇・皇后の出自と名代4-2 允恭天皇陵


4―1 天皇・皇后の出自と名代

 葛城襲津彦の娘、磐之媛が仁徳の后で、履中・反正・允恭の三人の 天皇と住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を生んだことになっている。仁徳のもう一人の子と言われる允恭天皇はどういう人か。允恭の諱は男浅津間若子宿禰(おあさづまわくごのすくね)だ。朝妻は葛城襲津彦が新羅から連れ帰った渡来人を住まわせた馬見の地のひとつだ。5世紀に操業を始める鉄器生産工房のひとつの巨勢は、室宮山古墳と朝妻の中間点にある。ここは葛城氏の本拠地で、この時代、子供は母方で育つから允恭の母は本当に磐之媛だったのだと思う。巨勢鉄器工房の開始は当時の物部氏の意向によるものだろうが、葛城は古くから鴨氏の土地であり金属製作とは縁が深かったから、允恭天皇は鴨氏の流れをくむとしていいと思う。
 允恭の皇后の忍坂大中姫の血縁関係については以下の通り。
 まず、『紀』では、「応神段」と「安康段」を合わせると次の系譜になる。
系図

 次に、『記』では「景行段」と「応神段」で以下のような系譜が書ける。
系図

 しかし、応神と結婚して忍坂大中津比売の母となった迦具漏比売という人は景行天皇とも結婚しており、倭建の曾孫としてその系図も載せている。記録は混乱している。さらに『上宮記』の逸文に忍坂大中姫が載る系図がある(8章1―1項参照 )。
 全体的に見て、忍坂大中姫は倭建系で、河派・杙俣・若沼毛といった名を持つ豪族、そして近江の息長氏と関係が深いと言っていいだろう。
 忍坂は桜井市の近鉄大和朝倉駅から南に広がる集落だ。忍坂大中姫はここが本拠地だったと思われる。『記』に、五十瓊敷入彦が大刀千振を作ったときに初め忍坂に納めたが後に石上に移したという記述があることから、かつてこの地に武器庫があり、それらの武器は近江の金属製作集団によって作られたという説がある。うなずける説だ。野洲市の大岩山遺跡は青銅器の拠点のひとつだった。野洲市三上に天之御影神社があるが、息長氏の『記』での初出はこの天之御影神の娘の息長水依比売(おきながのみずよりひめ)だ(開化天皇の息子の日子坐王と水依比売の孫が日葉酢媛、日子坐王と和珥氏系の意乎都比売(おけつひめ)の玄孫(やしゃご)が神功皇后となっている)。忍坂にある生根(いくね)神社は少彦名と額田部氏の祖の天津彦根神を祭る。天之御影神も天津彦根を祖とする。額田の名は鋳物の型を作る工人集団から来たという。 
 朝倉は後に雄略天皇の長谷朝倉宮が営まれるところだ。桜井市の脇本遺跡がその宮跡とされる。朝倉から東に進むと長谷寺のある初瀬だが、その中間に出雲という地名がある。私は天孫系に国譲りをした後、出雲の人々は追われて初瀬に住み着いたのでないかと考えている。初瀬の枕詞子はこもりく=隠国で、冥界の意味がある。冥界の王となると言った大国主にふさわしい。また出雲に遣いした曙立王は〈倭の師木の登美の豊朝倉〉という呼び名をもらった。私は彼が桜井茶臼山古墳の主だと推測したが、この古墳は大王級の規模でありながら誰の墓ともわからない。忍坂から初瀬は、出雲の大国主や倭建など、本来大王であったはずの敗者の血脈の地という気がする。
『紀』「允恭段」に、大中姫に無礼を働いた闘鶏国造(つけのくにのみやつこ)の話がある。天皇の后になった後に、この事件に決然と始末をつけるくだりには、姫の後に引かない強い性格が表れている。闘鶏は奈良県山辺郡都祁(つけ)村だというから大中姫がこの地方の出身だということがここからもわかる。また、病弱な允恭に天皇位に着くよう説得する話でも忍耐強く意志も強い人柄がうかがえる。彼女は『紀』「雄略段」には皇太后として登場し、天皇に意見する母でもある。ここまでしっかりした女性はそれまでの歴史には登場しなかった。もちろん歴史が伝承でなく実際に見聞きしたことを書いた時代になったことも、紋切り型の聖王ではないはっきりしたキャラクターを持つ天皇や、こうした后の記述の原因ではあろう。
『紀』に、允恭は味橿丘(あまかしのおか)で神盟探湯(くかたち)をして氏姓を定めたとある。盟神探湯は、熱湯に手を入れても真実を言う者は火傷せず、そうでないものは大やけどをするという一種の占いによって真偽を確かめる方法だ。允恭が育てられた朝妻は古来鴨氏の土地で、鴨氏は大国主同様出雲の出だ。この天皇夫婦は自分たちの氏族の由緒の正しさを世に知らしめたかったのではないかと思う。そしてそうした観点で国づくりを進めようとしたのではないか。その一つの表れが名代だ。
 反正天皇の項で名代について書いたが、忍坂大中姫の名代である刑部(おさかべ)の数の多さに驚く。61の国のうち27に刑部がある。允恭天皇の飛鳥部は8国、大中姫の妹の藤原琴節郎女の藤原部は6国で三者を足して重複分を入れない国の数は33。どこからも名代を受け入れない国が17(九州や島など)あって、これを61から除くと国は44で、その内の33だから実に名代のある国の75%に部民を置いたことになる。仁徳は12国、反正は14国 だ。私にはこれは忍坂大中姫が大国主の末裔にして倭建系だからこそできたことではないかと思える。西日本の豪族は強大な者が多い。大国主系はいくら由緒があると言っても今は弱小だ。それで地方に活路を求め、名代の設定をしたと考えられる。その戦略は雄略にも引き継がれたようだ。

4―2 允恭天皇陵

 古市にある市野山古墳が允恭天皇陵に治定されている。しかし、允恭天皇の事績は『記』では大和盆地の南部に限られる。
 自身は葛城で育ち、皇后は忍坂にいる。『記』には允恭の宮は遠つ飛鳥(=明日香村)だとある。味橿丘(明日香村豊浦)で盟神探湯をする。『紀』の記述で玉田宿禰が竹内宿禰の墓に隠れたという話でも、この時代は室宮山古墳が竹内宿禰の墓だと考えられていたようだからこれも葛城地域だ。わずかに『紀』で、淡路に狩りをしたのと衣通郎女(そとおりのいらつめ)の茅渟の宮に通う記事が大和以外の行動だ。しかも、衣通郎女(軽郎女)は彼の娘という記載もあり、息子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と恋仲になった記事もあるので、姫のもとへ通ったという事実はあやふやだ。そういう天皇の墓が突然古市に作られるのは不自然だと私は思う。
 古市にある允恭陵とされる市野山古墳は反正陵ではないかと述べた。市野山古墳の性格を分析すれば、それが允恭天応の事績にそぐわないことがわかる。市野山古墳の主はいわば全方位型だが允恭はかたくなな伝統主義者だ。では允恭はどこに葬られたのか。私は鳥屋ミサンザイ古墳(130㍍)が有力だと考えている。大和の橿原(かしはら)神宮のすぐ南にある。宣化天皇陵に治定されている。5世紀後半から6世紀前半の築造だそうだ。