青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


5 5世紀の渡来人と国際情勢


5-1 高句麗の南下と渡来人の一次ピ-クと倭に来た渡来人5-2 5世紀の朝鮮半島情勢の推移と倭の五王


 倭の方から見る限り朝鮮出兵は、兵士の犠牲はあっただろうが、支配層には多くの富や新技術、またたぶん朝鮮半島からの捕虜による労働力をもたらした。5世紀も朝鮮半島では戦乱が続く。王朝が倒れるときは多くの渡来人が倭に亡命してくる。その様子を見てみよう。

5―1 高句麗の南下と渡来人の1次ピークと倭に来た渡来人

 高句麗は342年に北の前燕に大敗し平壌に拠点を移す。371年には百済の近肖古王が平壌を攻めて高句麗の故国原王は戦死するも、396年にはまた高句麗が百済を破り、百済は高句麗に帰服する。高句麗は400年には百済と倭軍を追撃して金官国まで南下する。そのとき新羅にいた倭軍も破れ金官国は混乱したようだ。金官国の支配層が変わったらしい。しかし任那は安羅軍が守ったと歴史は言う。5世紀の始めに渡来人の1次ピークがあるというが、これがそのときだろう。半島での倭の拠点は今の金海市の金官国で、その隣の安羅(今の咸安)を合わせた地域が任那の中心だった。4世紀、金官の中心は金海にあったが、5世紀には釜山に移って新羅の影響下に入る。金官の衰退後に新羅の文物が倭に入ったという。
 神功皇后の新羅征討以来、基本的に倭は新羅と交流してきたと思う。鉄生産に関しては一貫して慶州を中心に新羅が突出していて、倭の交流の目的は鉄だと考えられるからだ。佐紀のウワナベ古墳から出た870枚の鉄延は金海や釜山のものと関連が見られるという。『紀』には百済の尚古王が倭に鉄延を与えた記事があって、ウワナベの鉄延をこれに当てることがあるようだがそうではないと思う。倭と百済が近しくなるのは6世紀以降だ。
 5世紀初頭に来た渡来人は、東漢(やまとのあや)氏(倭漢氏)や阿直史(あちきのふひと)の祖とされる阿知使主(阿知吉師(あちきし))と秦氏が代表的だ。阿知使主は安羅から来たらしい。409年のことという。息子と17県を率いてきたというから大集団だ。奈良県の高市郡に住んだと記録にある。
 秦氏は、洛東江西岸の弁辰が主な出身地らしい。洛東江の東岸に中国の秦からの亡命者が住んで弁辰人と雑居したのが始まりだという。彼らは養蚕と絹織物に通暁していた。弓月君(融通王)が新羅に引き留められていたのを、葛城襲津彦が平群と的(いくは)の助けを借りて連れてきたと『紀』は記す。『三国史記』によればこれは402年から405年のことだ。そして弓月王と功智王は朝妻の掖上に住んだという。
 また、慶尚北道の蔚珍(ウルチン)に波旦(ハタ)の古地名が残り、ここが秦氏の故郷だという説もある。秦氏の〈ハタ〉は機織りのはたでもあるだろう。阿知使主が漢王朝の後裔だとして倭漢を名乗ったのでハタの方は秦王朝の末だとして〈秦〉の字を使ったという話があるが、祖先が中国から来たのは本当かもしれない。掖上に接する高取町は羽田郷で羽田氏の本拠地だ。秦と羽田は同族ではないか。
 つまり、初め葛城山東麓や高市郡に住んだ渡来人はほぼみな葛城襲津彦が連れてきたことになる。しかし、阿知使主は若狭湾経由で来たとも考えられる。履中が難波から逃げる時に助けるのが阿知使主だからだ。新羅と若狭の古い関係から考えるともっと前の時代から日本にいた可能性もあると思う。高取町の市尾カンデ遺跡(高市郡)から渡来人特有の大壁建物が見つかっており、それは4世紀末から5世紀初頭のものだという。ここの渡来人は少なくとも4世紀の後半にはここにいたことになる。この遺跡にはオンドル住居を含め40棟が発見されていてその年代は5世紀末から8世紀末まで。檜隈(ひのくま)の渡来人の集落が大きくなるのは6世紀後半以降だ。また飛鳥では5世紀代に馬韓からの土器が集中して出土するという。
 実は葛城襲津彦が連れてきたという渡来人は、記録で見ると阿知使主と来た人々とかぶるところがあって、先に阿知使主が連れてきていたのではないかとも思われる。ただ襲津彦が朝鮮半島侵攻で利益を上げたことや、それが葛城氏の隆盛につながったのは事実だろう。高市郡の渡来系氏族が出自を竹内宿禰に求め、阿知使主とともに来たとか葛城襲津彦の後裔だと言わないのは、竹内宿禰が天皇の血筋であり、彼らは日本の天皇家の系譜に自分たちを組み入れなければならなかったからだ。
 漢系の技術者集団は南淵(みなぶち)(明日香村稲渕)にもいるが、高向(たこう)(河内の錦部(にしごり) 今の富田林市周辺)と芦屋(摂津の菟原(うはら) 今の芦屋市周辺)にもいた。芦屋漢人が倭漢氏なら、葦田宿禰も阿知使主と何か関連があるのではないかと思える。この人の娘が履中の后だからだ。
 このとき新羅から来た鍛冶は倭鍛冶(やまとかぬち)と呼ばれた。
 吉備の造山・作山古墳周辺では400年頃の洛東江下流域系遺物に関わるものの出土が多い。5世紀代には高霊タイプの陶質土器が瀬戸内に集中する。高霊は洛東江中流の都市で大伽耶の本拠地だ。大伽耶の渡来人の流入が考えられる。大阪の陶邑は洛東江河口の渡来人によって始まり、後に馬韓の陶工が加わって体制ができたという。

5―2 5世紀の朝鮮半島情勢の推移と倭の五王

 400年頃新羅は日照りやイナゴの害で疲弊していたらしい。399年には高句麗に帰順し、402年に実聖王が即位して倭と国交を結び王子の未斯(みし)欣(きん)を質とした。百済は397年に阿(あ)莘王(しんおう)(阿花王の朝鮮名)が太子の腆(と)支(き)を質として倭に送っていて、405年には腆支が王になる。
 中国は420年に南朝の宋が建国する。
 413年、高句麗の広開土王が没し長寿王が立つ。高句麗は427年に平壌に遷都する。これに対し433年百済と新羅は和を結び高句麗に対抗する。442年安羅の北にある伽耶国は倭に攻められ支配される。任那と呼ばれる地域はほぼこの伽耶国に相当する。倭はここに日本府を置いたとされる。『雄略紀』に吉備上道(きびのかみつみちの)臣(おみ)田狭(たさ)が任那国司だとある。
 455年高句麗が百済に侵攻開始、百済は倭に援軍を求める。475年にとうとう百済の都、漢城が陥落し、蓋(がい)鹵(ろ)王(おう)が死ぬ。この漢城の陥落のときに渡来人の2次ピークがある。このとき百済から来た鍛冶は韓(から)鍛冶(かぬち)と呼ばれた。477年には百済の文周王が都を熊津(コムナリ)に移す。扶余も滅亡し、高句麗は最大版図を実現した。
 この頃金官国は衰退し大伽耶を中心とする連盟ができる。大伽耶国は479年に中国南朝に建国した斉に朝貢し冊封される。480年以降は南の三国が連合して高句麗に対抗する。
 新羅の記録では400年頃から倭の攻撃を受けている。440年頃から500年にかけては、慶州にある王宮の金城が倭人に囲まれるとか活開城が破られるなどの記録が5回以上もあり、辺境を絶えず倭人がうかがう状態だったようだ。
 そして421年から478年の間にいわゆる倭の五王が宋に朝貢している。
 5世紀後半から6世紀初頭にかけて、前羅南道の栄山江(ヨンサンガン)流域や西南海岸沿いに前方後円墳が10基以上できている。そして倭で育ったという武寧王が501年に百済の王に即位する。
 6世紀頃から倭政権は百済との結びつきを強める。
 
 激動の5世紀だが、この時代に倭の五王が中国に朝貢して朝鮮半島での優位を認めるように願い出ていることが中国の歴史書から知られる。これについて時系列で並べる。

  420年 中国南朝宋の建国 
  421年 宋に讃(倭の王)が朝献し武帝から除授の詔を受ける
       このとき受けた称号はおそらく「安東将軍倭王」
  438年 讃が没し、弟の珍が立つ
       朝献して自ら「(略)六国諸軍事安東大将軍倭国王」を名乗り、
       宋の正式な任命を求めるも「安東将軍倭国王」の号が与えられたのみ
       このとき随行した13人も将軍などの号を与えられる
  443年 済が宋の文帝に朝献して「安東将軍倭国王」とされる
  451年 済が「(略)六国諸軍事」を加号され「安東大将軍」となるが
       6国の中に百済は含まれず  随行した23人も将軍号などを与えられる
  462年 宋の孝武帝が済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする
  478年 興の弟、武が宋の順帝に上表して、「開府儀同三司」を自ら名乗り叙正を求める
       与えられた称号は前回と同じ。このときは随行者は号を与えられない
       「開府儀同三司」は名誉職で高句麗の長寿王が持っていた

 451年に倭の済が宋に朝献したとき、同行の諸武将も号をもらっている。済は絶対君主ではなく倭連合の盟主だった。しかし478年にはもうそうではなくなっていた。 
 一連の朝献で倭が中国に対して繰り返し朝鮮半島での覇権を認めるよう要請した事実で、倭が実質的に半島での軍事行動に指導的な立場にいたと推量できる。武は高句麗と対等の立場を求めた。彼が高句麗に対抗できるのは倭のみと考えていたことがわかる。しかし、中国は当然自国の事情を優先し、百済でさえ倭の前に置こうとはしなかった。これ以降は600年まで中国への倭の朝献はない。これは南朝が、武の上表の翌年の479年に宋が斉に取って代わられ、その斉も502年には梁になるといった混乱状態にあったことが大きいだろう。しかし倭の方も雄略の死後は短期の天皇が続く混乱期だったと思う。 
 451年から478年までの27年という短い間にそれまで長く続いてきた慣行を廃し、他の首長を退けて新体制を打ち立て、倭が半島の覇者であり高句麗と対等であるとの意識を持った首長、武とは誰か。私はやはりそれは雄略天皇しかいないだろうと思う。