青の一族

第7章 5世紀後半から6世紀にかけて


6 雄略天皇


6-1 雄略の政策6-1-1 暦法6-1-2 百済三王在位の記録と『雄略紀』の記述6-1-3 歴史の編纂と官制6-1-4 青の地名・古墳・神社6-1-5 阿保の名6-2 雄略の粛清6-2-1 安康天皇と軽皇子6-2-2 石上宮6-2-3 土師ニサンザイ古墳と軽里大塚古墳6-3 主要豪族の排除と工人集団の掌握6-4 清寧天皇と三代の名代6-5 雄略の外交-稲荷山古墳・江田船山古墳


 雄略天皇の時代は4世紀にあった画期に続く大きな変革のときだ。それにはいろいろな面があるので各々を見ていこう。

6―1 雄略の政策

6―1―1 暦法
『記』『紀』の記述は、允恭天皇までが中国、唐の暦法を使って書かれており、安康天皇以降は宋の暦法を使っている。このことから雄略朝頃から中国の暦日に基づいた記録を作り始めたことがわかる。これが5世紀後半から各氏族が自らの歴史を記録し始めたといわれる理由だろう。雄略朝で使われた暦は元嘉暦で、中国南北朝の南宋で作られ445年から509年まで使われた。倭では697年まで使われている。
『紀』の記述法については、安康までが倭の習いに従った書き方で、雄略から崇峻までは中国風な書き方だという。

6―1―2 百済三王在位の記録と『雄略紀』の記述
 暦法が新しくなったとして、『紀』の年紀は正しいのか。これを証拠立てるのに有力なのが武寧王の墓誌だ。韓国の公州市(昔の熊津)にある宋山里古墳群から墓誌が出土し、ここが武寧王陵と特定された。墓誌には斯摩(しま)王(おう)が532年に62歳で没するとあった。斯摩は武寧王の諱だ。蓋鹵王は漢城陥落のときに死ぬが、彼の在位については中国・韓国・『紀』の記述がほぼ一致しているので、まず一、二年の違いはあってもほぼその通りと考えていいようだ。
『三国史記』によれば、蓋鹵王の在位は455~475年、東城王は479~501年、武寧王は502~523年だ。『雄略紀』で雄略5年に武寧王が生まれているので、これが461年ということになる。そして雄略の治世は23年だから、彼が没したのは479年となる。『記』では彼の没年は489年だ。また『雄略紀』の中に、蓋鹵王の死後に汶洲王や東城王を百済の王に据えたとあるなど、記事が当時の朝鮮半島の情勢と対応している。だから雄略は少なくとも460年から480年頃に権勢を振るったと見ていいし、『紀』の内容も概要は大きく史実とはずれてはいないと思われる。
 それは記事の書き方からもうかがえる。雄略について「天皇は自分の判断を正しいとしたので誤って人を殺すことが多い」と表現したり、意に沿わない臣下を殺そうとして諫められて思いとどまる事例を挙げるなど、それまでと違って人間らしい天皇の姿が描かれる。また「大悪の天皇である」と批判したり、「有徳の天皇である」と持ち上げたり、描かれ方も一定しないが人の評価とはそういうものだと思うし、伝説の聖王ではなくまさに今生きている天皇を叙述していると思える。

6―1―3 歴史の編纂と官制
『紀』の記述の中に雄略の政策が表れている部分がある。「天皇は自分の判断で動いた」ということはつまり、それまでは群臣の協議によって物事が決まっていたのだが、彼はそうしたやり方をしなかったことを示す。既存の豪族ではなく渡来人を重用した。史部(ふひとべ)(書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみつかいはかとこ)が寵臣だったといい、二人とも下級官吏ながら文書や記録に関わる仕事をしていた。雄略が歴史編纂に意欲を持っていたということだろう。
 またこの二人は呉に二度遣いしている。呉は中国のことだから、これは『宋書』にある宋への朝献を意味するだろう。宋への遣いは朝鮮半島での覇権争いの後ろ盾のためだけではなく、中国の官吏制度や産業技術を取り入れるためもあった。『紀』には青と博徳が漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)や衣縫(きぬぬい)の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)を連れてきたとある。雄略は呉からの客のために道を整備したともある。
 官制としては人制がある。舎人・宍人・養鳥人・杖刀人・典曹人など職務を表す〈○○人〉という表記は宋由来のものだといい、『雄略紀』に集注している(但し、馬典人は高句麗由来の可能性あり)。これらのことからも倭の五王の武は雄略だということが裏づけられると考える。

6―2 雄略の粛清

6―2―1 安康天皇と軽皇子
 制度の整備と並行して彼が進めたのは、政権の一本化だ。力のある豪族を次々に倒した。それはいつの時代にもあることだが、彼の場合は徹底している。
 彼の兄とされる安康の時代の流れを追ってみる。
 まず、雄略と安康が兄弟なのは本当だと思う。雄略の本拠地は初瀬で、母の忍坂の地と離れていない。忍坂から北の石上(いそのかみ)に出たのが安康だ。山辺地域は大和の故地だ。雄略の父、允恭と同じく彼らは我らこそ正当な王権の継承者だと思っていただろう。同時に允恭一派は主流からはやや外れていたと思われる。允恭が天皇になる説話では、允恭が必要以上に自分を卑下しているように見えるからだ。しかし、そのときの主流から距離を置いていたことで雄略の粛清はかえってやりやすかったのではないか。
 安康の即位の前に、木梨軽皇子が軽大郎女(衣通郎女)と近親相姦の仲になって流罪、または自死したという話がある。軽皇子は允恭の息子ということになっているが、そうだろうか。3―2項で加古川流域の大日下勢力の古墳群のことを述べたが、それらがある播磨の地域に囲まれた位置にある加東市に木(こ)梨(なし)神社がある。社伝では崇神の時代の物部氏が八十(やそ)枉津日神(まがつひのかみ)を祭ったのが始まりだといい、木梨の名は木梨軽皇子が幣帛を捧げたことによるとある。軽皇子は播磨か摂津に勢力のあった首長で初めは大日下と連帯していたと思われる。実際に倫理の問題が原因かどうかはわからないが、軽皇子が逃げ込んだ物部大前(もののべのおおまえ)の家を安康の軍勢が囲んだというのだから実力行使で排除されたと考えるのが妥当だろう。物部大前はあっさり軽皇子を裏切っている。
 軽皇子事件のときはまだ次の天皇を誰にするか力のある豪族が合議して決めていた様子がわかる。『紀』『記』の天皇系譜での子供の記載は、実際の子だけではなく次期天皇候補や有力氏族の娘を並べたように思える。軽皇子もそうだが、安康の姉とされる長田大郎女(ながたのおおいらつめ)は履中天皇の娘の中蒂姫(なかしひめ)だと思われる。彼女の別名が長田大郎女だからだ。安康は履中の娘と結婚しようとしたが断られたという話が『紀』にある。中蒂姫は大日下の妻になった。豪族の娘を手に入れることはその父の力を受け継ぐことを意味する。だから安康は南山城・近江に力を持つ履中との連携をはかったが、履中は仁徳系の大日下の方を選んだ。山辺勢力は弱小だから当時の判断としては当然だろう。それで安康は大日下を殺して中蒂姫を奪い、妹の幡梭皇女(はたびのひめみこ)を雄略の妻にする。 

 6―2―2 石上宮(いそのかみのみや)
 安康の宮は石上穴穂宮だったという。石上は物部氏の本拠地と言われるところだ。石上神社は朝廷の武器庫で物部氏が管理したという。ここに安康の宮があるとはどういうことか。4―1項で、忍坂には近江の金属器製作集団が作った武器を納めた蔵があった可能性について述べた。大刀千振は初め忍坂に納め、後に石上に移したと『記』は言う。安康が宮を石上に持ったときにそれが行われたのではないか。
 そもそも大日下は物部氏の皇子で武器には事欠かないはずなのに、安康に敗れた。安康はそれ相当の武力を持っていたことになる。これには5世紀に操業を始めた鉄器生産地を領有することが鍵になるのではないかと思う。それらは葛城の巨勢と忍海・石上の布留・大県(柏原市)・陵南(りょうなん)(堺市)・猪名(いな)(豊中市)だ。このうち大県は生駒山麓、陵南は百舌鳥なので大日下の勢力範囲だろう。布留にいた物部を安康が押さえていたとすれば近江勢力と合わせて力は五分だったように思う。結局安康が勝った。
 しかし安康・雄略の血筋はその後間もなく絶えて石上は物部氏の本拠地と言われるようになる。6世紀になると6ヵ所の鉄器工房のうち操業するのは物部氏の地にある大県と布留、そして忍海に絞られる。

6―2―3 土師ニサンザイ古墳と軽里大塚古墳
 堺市の土師ニサンザイ古墳は5世紀後半の200メートル超級だ。古市には100メートル超級の軽里大塚古墳がある。これらの主は誰か。
 安康の血縁とされる軽皇子は、実は播磨系の首長で古市に進出して軽里に本拠地を構えていたのではないかと私は思う。彼の名は本拠地から来ているので、軽里大塚古墳が彼の墓なのではないか。この古墳は白鳥陵と呼ばれ、倭建の墓だとされる。『仁徳紀』に白鳥陵はもともと空だという記述がある。これが空だと当時の人はわかっていた。軽皇子が伊予に流されてそこで死んだという伝承があり、四国中央市の東宮山古墳がその墓とされる。この古墳は6世紀中頃の築造なので時代が合わないが、流された事実がまったくなければ伝承も生まれないだろう。流刑は事実で彼はそこで死んだが、彼の氏族が本拠地に空の墓を作ったことはあり得ると思う。
 軽里大塚は倭建の墓としては時代が違いすぎる。ちなみに倭建の墓だという白鳥陵は古市と、三重県の能褒野王塚(のぼのおおつか)古墳(4世紀末)と、御所市琴弾原白鳥陵(ことひきのはらしらとりりょう)(築造時期は不明)の三つがある(他にもあるが正式にこの三つとされるらしい)。仁徳は5世紀前半には没しているはずなので、『仁徳紀』にある白鳥陵の記述は後の挿入だと思う。仁徳が言ったのは古市の白鳥陵ではなくて三重か御所市の墓、あるいは他にもある白鳥陵だという可能性がないと断言はできないが考えにくい。
 この軽里大塚古墳と相似形だという土師ニサンザイ古墳は手掛かりが少ない古墳だ。もともと百舌鳥の地は、この時代には湿地帯であまり住むに適さない土地だったと推測する。弥生時代からの遺跡が島的に存在するものの、古墳も5世紀の大古墳を除けば数は少なく、続けて古墳を作るような首長が出なかった。しかし、このウォーターフロントは弥生時代の遺跡の文化から見て筑後川流域の九州勢の移植が多かったことが知られる。高石市の等乃木(とのき)神社は752年に中臣一族の殿来氏が祖の天児屋を祭ったと社伝にある。『仁徳記』にも「免寸(とのき)川の西の巨木で船を作った」と、その名は出ている。そして巨木の楠伝説は『肥前風土記』の神崎郡佐嘉郷にもある。 
 高石市には今も富木(とのき)の名が残り、富木郷には大日下の部民がいたという。
 堺市にある日部(くさべ)神社は日下部首一族がこの一帯に住んだことを示す。日下部の名は北部九州・出雲地方を中心に全国にあるが、主要三族の土地は生駒山西麓の石切神社付近・尾張日下部(愛知県稲沢市)とこの堺市の日部神社付近だったという。
 こうしたことを考慮すると、仁徳陵のある百舌鳥古墳群最後の大古墳、土師ニサンザイは大日下王の墓の可能性がいちばん大きいように思える。
 大日下王が軽皇子と連携していたとすれば、土師ニサンザイと軽里大塚古墳が同じ工人によって作られた可能性がある。

6―3 主要豪族の排除と工人集団の掌握

 安康天皇は、大日下王の息子で、このときまだ7歳だった眉輪王に殺されたことになっている。実際は臣下か一族の誰かに殺されたのだろう。眉輪王は葛城の円大臣の家に逃げ込んだので、雄略は二人とも殺した。眉輪王が円大臣の家に逃げ込んだのは本当かどうか怪しい。二人のつながりがあまり見えないからだ。むしろ雄略が葛城潰しの口実にそうした話を作り上げたかもしれない。眉輪王が安康を殺した話も、幼い子供まで粛清の対象にする雄略の言い訳として入れられた気がする。安康の墓は記録にはどことも記されないのだが、佐紀のヒシアゲ古墳だという説がある。
 円大臣を排除し、その娘の韓媛(からひめ)と結婚したことで、雄略は葛城氏の持っていた工人を手に入れた。秦酒公(はたのさけのきみ)を気に入っていて、それまで各豪族が自分の配下として徴用していた秦人をとりあげ、彼に統括させた。これで工人集団もかなり一本化できたように見える。雄略は次には有力氏族を潰しにかかる。
 安康の大日下殺しは仁徳勢力を弱めただろう。続く雄略の時代には市辺之忍歯王とその弟を殺す。力で彼らの妹たちを奪ったのだから仕返しされないためにもそうなるだろう。これで丹後・近江勢力が弱まった。自分の兄弟の坂合黒彦(さかいのくろひこ)と八釣白彦(やつりのしろひこ)も殺す。彼らもまた血のつながった兄弟かどうかは怪しいが、本拠地は朝倉に近いのでそうかもしれない。黒彦のものとされる墓は吉野郡大淀町にあり、八釣は明日香村の地名なので、彼らはその周辺の人で渡来系に思える。
 次には吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)一族70人を殺す。吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の妻を横取りする。伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討伐する。
 こうして有力氏族の力を削ぎ、478年の宋への朝献のときにはそれまでとは違って雄略が唯一の倭王として皇帝に謁見する。
 しかし、中央集権までの道のりは遠く、それぞれの氏族はまだそれぞれの思惑で動いている。歴史には吉備上道臣田狭の謀反や紀大磐宿禰の専横の話などが記されている。 

6―4 清寧天皇と三代の名代

 雄略の子とされる清寧天皇の宮は磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)だという。『帝王編年記』はこれを十市(とおいち)郡白川村(三輪山東麓)とし、『大和誌』は十市郡池ノ内村(桜井市の西部)とする。どちらも母の韓媛の出身地とも父雄略の本拠地とも近いので、清寧は雄略の息子としていいと思う。彼の事績も雄略の後を継いでいる。
『記』には清寧天皇の記事はほとんどない。『紀』でも、雄略の遺言を実行する形で清寧が吉備上道臣の妻だった稚媛(わかひめ)の息子の星川皇子(ほしかわのみこ)を討ち、上道臣の所領の山部を奪った事件があるのみだ。清寧天皇は生まれつき白髪だったというから白子だったかもしれない。白子は発達障害になることが多いという。彼は子もなく早逝したようだ。 
 雄略の母の名では多くの刑部の名代ができた。安康・雄略・清寧三代の領地はどうなっているか見てみよう。
 安康の名代は穴穂部で、隠岐・筑前・大和・山背・河内・下総にある。雄略は長谷部で、周防・大和・伊勢・尾張・三河・遠江・上総・下総・下野・美濃・信濃・越中。西日本が少ない。やはり、土地に根を下ろした豪族をその土地ごと支配下に入れるのはなかなか難しい。それで雄略は東日本に重点を置いたようだ。そのひとつのポイントは伊勢の朝日郎との戦いだったと思われる。青墓で戦ったと記されていて、そこは伊賀国佐那具村だという説がある。朝日郎は伊勢の朝明(あさけ)郡(三重県朝日町が中心)の首長だったと思われる。雄略軍はここを突破し、東に侵攻した。その結果、伊勢・尾張・三河・遠江に名代を作ることができたと私は見る。
 上野・下野・武蔵にある名代は、白髪部(しらがべ)(清寧天皇の部民)・刑部・藤原部のほかは檜隈部(継体天皇の子の宣化天皇の部民)だ 。上野には白髪部・長谷部・雀部(仁徳天皇の部民)・檜隈部・石上部(欽明天皇の部民)、下野は白髪部・長谷部・雀部・石上部がある。上総・下総・常陸でも全18部の中で雄略系が11を占める。
『雄略紀』には吉備下道臣を討ったとあり、『清寧紀』には吉備上道臣から所領を取り上げたとある。吉備で最も多い名代は白髪部だという。白髪部は石見・備中・周防・肥後・山背・摂津・和泉・尾張・遠江・駿河・安房・常陸・上野・下野・武蔵・美濃の16国に及んでいる。虚弱な清寧を憐み、雄略が清寧の名代を多く設立したのかもしれない。あるいは清寧の時代になって星川皇子事件を機に吉備での名代の設立が進んだかもしれない。三代の名代は重複したものを除き25国にある。
 白髪部は筑前にもあったようだ。佐賀県三養基(みやき)郡北茂安町(きたしげやすちょう)に白壁の地名がある。
 この西隣に米多国造(めたのくにのみやつこ)の領地(神崎郡三田川町・三養基郡上峰町(かみみねちょう]))がある。『先代旧事本紀』米多国造に稚沼毛二俣命(わかぬけふたまたのみこと)の孫の都紀女加(つきめか)が任命されたとある。上峰町にある上のびゅう塚古墳(49㍍、5世紀)は都紀女加の墓に治定されている。『記』は、米多国造の祖は意富本杼王(おほほどのみこ)(雄略天皇の伯父)だと言い、『上宮聖徳法王帝説』の系譜では都紀女加は意富本杼の子だ。つまり都紀女加は雄略のいとこだ。雄略は異母兄弟はみな殺したが母系の縁者は自分の政策の担い手としたようだ。
 米多のすぐ西には吉野ヶ里遺跡がある。筑前・豊前・肥後の7名代のうち6が雄略系だ。雄略は中国外交の基礎として筑後川沿いの地盤を固めた。

6―5 雄略の外交―稲荷山古墳・江田船山(えたふなやま)古墳

 有名な稲荷山鉄剣が出土した稲荷山古墳(120㍍)は、埼玉県行田市にある前方後円墳だ。鉄剣には金象嵌銘文があって、ここに獲加多支鹵(わかたける)大王の杖刀人として勤めた乎獲居(おわけ)が辛亥年に作った剣だと記されているので、雄略が実在したという説が定着した。辛亥は471年とするのが定説だが531年説もある。また、乎獲居の祖が大彦だと記されていることからも書かれた歴史やその他の資料の確実性が増した。
 稲荷山古墳からは挂甲や馬具が出土していて被葬者は武人だったようだ。古墳は大仙陵の四分の1で作られている。三人が葬られていて、5世紀後半の須恵器が出ているが、鉄剣は5世紀末から6世紀初頭の追葬の部分から出土した。
 5世紀後半の古墳で200メートル越えは大阪と吉備にしかないが、これに次ぐ186メートルの舟塚山古墳が茨城県石岡市にある。同じく茨城県桜川市に120メートルの長辺寺山古墳がこれに続き、同じ大きさの稲荷山となる。この時期大きな古墳は、吉備にいくつかあるほかは大阪と関東にほぼ限られてくる。関東の古墳と言えば群馬か千葉に多く、稲荷山古墳はそれまでなかった埼玉県の行田市地域に突如巨大古墳が現れた様相だ。これはやはり允恭に始まる地方の開拓政策の結果だろうと考える。埼玉県の西半分には素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭る氷(ひ)川(かわ)神社が圧倒的に多い。氷川は斐伊川のことで、出雲族の後裔として忍坂大中姫一派が、その昔祖先が足を踏み入れた地に再びやって来たということだと私は思っている。
 江田船山古墳(62㍍)は熊本県玉名郡にあって5世紀末から6世紀初頭の築造だ。多数の中国系朝鮮系遺物が出土した。そうした副葬品の中に銀象嵌の名文を持つ大刀がある。獲加多支鹵大王のときに无利弖(むりて)という典曹の役所で務めた人がいたと記す。年号はない。ここでも雄略の名が出たことで、ヤマト政権はこの時期関東から九州に及ぶ広域の権力を持っていたという説があるが、そうではないだろう。雄略は特に武蔵と肥後に力を入れたのだ。大きい豪族のいない関東で、しかも既存の勢力との結びつきが少ない武蔵に入った。肥後は宋との通行のためだ。これも既存の朝鮮半島経由の中国外交とは一線を画して独自のルートを開拓しようとした結果と考えられる。 
 時代は下って遣唐使のことだが、中国に渡る航路に北路と南路があった。北は博多を出てから朝鮮半島の沿岸を進むコース。南は博多を出て五島列島に行き島の南端から東にほぼ直進して長江河口に着く。この南路が雄略の取ったコースではなかったかと思う。但し雄略の場合は有明湾から出発する。これには景行が開拓した筑後川沿い地域の協力が必要だった。
 江田船山古墳には石人・石馬がある。百点以上の石人・石馬が出た岩戸山古墳は筑紫に磐井の墓とされる。地理的な近さからも江田船山の主と磐井が関係があったのは当然に思える。古墳からの出土品に中国南朝の鏡や、百済王権との関連を示す金銅製冠・飾履(しょくり)・土器が出土している。この古墳の主は中国にも行ったが、百済とも通じていた。