アネムジア書評集

石堂藍『本の雑誌』新刊めったくたガイド2006年4月号
ミルチャ・エリアーデの玄妙な幻想小説「ダヤン」を読んだ妻クリスティネルは、陶酔しながらも、この結末を理解する読者はどれほどいるだろうか、と言ったという。稲生平太郎の『アムネジア』(角川書店一六〇〇円)もまた私に似たようなことを思わせた。この小説は人を酩酊させるが、その全体を呑み込める読者はどれほどいるだろうか、と。まったく驚くべき作品である。物語は主人公の青年、島津が路上で頓死した一人の老人にこだわりを持ったことから転がり始める。島津は、戸籍上ではとっくに死んでいたという老人の謎に踏み込み、闇金融や永久機関などのいかさま話の世界へといざなわれていく。読者もまた島津とともに迷宮的な世界へ入り込んでゆくことになる。謎に満ちた作品だが、合理的解釈が成立しないわけではなく、その筋道を見つけるだけでも、物語を読み解いていくときに特有の知的な興奮は得られるかもしれない。しかしこの作品は通常の解釈を越えて謎めいていて、この謎が解けるものなら解いてみよと読者を挑発するかのようだ。これにいくらかでも近い感触の作品は、ファウルズ『魔術師』、プリースト『魔法』、津原泰水『少年トレチア』などか。小説が好き、読書を愛するというなら、最終的に本書を呑み込めるかどうかは別にして、一度は読解に挑戦せずにいられないような作品である。(2006/2/7)

笛寝さんの感想(ブログより)
『アムネジア』は『アクアリウムの夜』と同じく、不可視・不可知の存在についての話ということができるけれど、前作が、そうしたものをめぐる物語として、つまりそれにかかわる人間を軸にして読めるのに対して、今回の作品は、そのもの自体・あるいはそれとのかかわりそのものををより前面に打ち出した風に読めた。
どちらも不可視・不可知なるものを如何に描くかということでは同じ線上にあるし、どちらもかかわるのは人間であるだろうから、両者は常に存在するのだけれど、『アクアリウムの夜』では、少年・少女たちの運命がより明示的に描かれ、そこに感情移入することによって、不可視・不可知なるものに対する人間のありかた・変容に直接触れることができる。それゆえに神秘の顕現に出会ってしまった人間の物語として、読み手(一般化していますが、結局は僕ですね)に立ち現れてくるように思える。『アムネジア』も変容した、あるいは思い出した人間の物語ということは当然可能だけれど、いろいろな仕掛けの方に目を奪われてしまった、というのが正直なところ。
『アムネジア』を読み進めているときには、謎の捜索という軸はあるけれど、断片的、あるいはある情景・記憶(?)が唐突に出てくるなあ、という印象を抱きもした。ただこうした断片が、終盤に向かうにつれ、徐々に形をなしてくる。いや形をなしてくるというよりも、なんとなく提示されて来るという感じかな。
不可知・不可視なるものは、そのもの自体を描くことができないがために、またこの世には断片的な形でしか現れないがために、こういう形になったのだろうと思えるようになった。
そこにおそらく本書のキーワードである、記憶と物語(これら同時には語りに直結するだろう)が絡んでくる。
われわれはなんらかの神秘的なものを語ることができるのか、または、それに接した体験の記憶を持ち続けることができるのか、それは真正の記憶なのか、何を憶えていて何を憶えていないのか、何を捏造しているのか。現世とは、われわれの生の物語とはいったいどのようなものなのか。
この書は語り手の手記の形で提示されていたものだったということが、最後に判明する。
これは、いわゆる「信頼できない語り手」の問題を越えて、この世の語りすべてがそのようなのものだというのか。
あるいはわれわれが確固たる現実だと思っていることを、相対化するための仕掛けなのか。
本当のところは何もわからないのだ、ということを際だたせるためのものなのか。
何も答えはないけれど、上にも書いたように、不可知・不可視の存在をそのまま描き出すことは不可能である、ということを考えると、こうした断片の寄せ集めこそが、それに迫る方策なのであり、そこにはあらゆる問題が、また断片のように、立ち現れてくるのだ。わかったようでわからないのものなのだ、きっと。
不可視・不可知の存在にかかわる物語が裏金融の話を軸に語られていること、これは聖と俗の対比・転換かなとも思ったけれど、この枠組みで考えるのは単純な読解かなあ。
はっきり言って、何も明示的に語られていないので(これは正しい書き方だと思う)、こんなことを考えながら読んだとしかいうことができない。
考えたことをきっちりとまとめて、筋道を立てて書くことができるほどには、頭の中が整理されていないので、これまた断片的な書き方しかできないのだけれど、こうしたいろいろなことを考えながら読むことができるというだけでも、『アムネジア』おそるべし、なのである。

naoyaxさんのmixi書評
ゴシック文学を専門とするという奈良女子大学大学院教授・横山茂雄氏のペンネームによるオカルティック・スリラー・フィクション(という分類でいいのか……?)。
著者はすでに1990年に『アクアリウムの夜』というクトゥルー神話の系譜上に位置づけられるジュブナイル・ホラーをものしており、本書は小説としては2作目にあたる。僕はこのほかには横山茂雄名義の『聖別された肉体――オカルト人種論とナチズム』を読んでいるにすぎないが、著者の興味はオカルティズム、幻想文学、ナチズムなどを網羅しているようだ。

――とある編集プロダクションに勤める主人公が、編纂中の社史に登場する人物が謎の死を遂げたことに興味を抱き、調べ始めたことから怪しげな闇金融や未知の動力機関を製作しているというグループに巻き込まれ、自らが失った記憶に気づかされていく……というのがあらすじといえるだろうか。
とはいえ整合性のあるストーリーではなく、映画でいえばデヴィッド・リンチの『ロストハイウェイ』や『マルホランドドライブ』を彷彿とさせる、記憶とアイデンティティが攪乱されていく展開になっている。
まず最初に断っておきたいのだが、僕は著者の試みを大変高く評価するものである(もうひとつあらかじめ断っておくと、この作文はレビューの名を借りた僕の妄言である……)。
著者はオカルティズムを「科学的」に解明しようというのでもなく、表層的に面白がるだけでもなく、オカルト現象の諸相の中に何らかの共通性を見てとり、その奥底に隠されているアーキタイプを探り出すことにこそ関心を抱いていると思う。
これは僭越ながら、僕の関心と一致している。
著者には『何かが空を飛んでいる』というUFO現象に関する著作もあり、そこではかつての妖精目撃談との共通性を指摘しているという。
僕もやはりオカルト現象について、その奇妙な言い伝えや共通点が気になっていた。妖精・小人・宇宙人のイメージが(かつては)緑色なのはなぜか? 妖精を見るためには「目の隅で見なければいけない」というのはなぜか? 良い妖精と悪い妖精、良い宇宙人と悪い宇宙人がいるのはなぜか? UFOや妖精、幽霊が出没する森、四辻、基地(広大な敷地)、山、沼、井戸などを含め水のある場所など、またレイラインとの共通点はなにか? エイリアンクラフトと呼ばれる前 にあらわれた未確認飛行物体はなぜその時々の文化的背景を基準にしているのか(フーファイター、飛行船など)? UFOの内部に入ったという人たちがそこに実にがらんとしたスペースしか見出せないのはなぜか? UFO、幽霊、人体消失などに伴って出現する「雲」とは何か? 宇宙人やMIBが発する言葉はなぜとりとめないのか? なぜ目撃者は「ふと気がつくと~していた」などと時間と空間の感覚が消えうせているのか(そう、まるで夢の中の出来事のように)……などなど。
僕はかつてこの謎を解いた、と感じたことがある。それは

「電気現象の刺激による側頭葉幻覚=明晰夢」

というものだ。側頭葉に対する電気刺激が幻覚・幻聴・体外離脱感覚などを生み出すことは知られている。一方、地磁気(また水の流れも微弱な電気を生む)は特定の場所で強くなるなど一定ではない。天候によって雷や帯電などの変化もあろう。こういった自然の電気現象(球電の動きはUFOに酷似している。また鉄のような色に見えるときもあるという)によって引き起こされる幻覚(幻覚ゆえに文化的背景が反映される)がオカルト現象であり、また特に電気に感じやすい脳を持つ人がいわゆる霊感体質なのではないか、と(外的要因を必要とせず、暗示によるものもあるだろう。こっくりさんなど)。
このでんで行くと、いわゆる「電波が俺にメーレーしている」という発言も的を射ているのではないだろうか?電磁波もまた光も電気現象である。
一般にも、阪神大震災のときに見られたという発光現象が地盤のずれに伴う岩盤の摩擦による電気現象だったという説が某番組で開陳されたのをはじめ、日本のとあるアパートでおきたポルターガイスト現象を電気で説明する番組が出てくるなど、「オカルト=電気」説はポピュラーになった感がある。
もっとも当初は独自の発見と思っていたのだが、すでに幻覚説はあちこちから出されていたようだ。『夢魔』(スタン・グーチ著/未来社刊)では側頭葉ではなく小脳説が展開されていた。
著者と僕の関心はさらに、オカルト現象自体のみならず、それを取り巻く人々の織り成すドラマへ向かうという点でも共通しているようだ。

脱線はこのくらいにして、さて本書であるが……著者のやりたいことは上記のようにすごくわかるのだが、残念……というのが正直な感想だ。
もう少しなんとかならなかったものか、とも思うのだが、あるいはこれが創作上のというよりも著者の社会的地位からしての限界なのだろうか。
「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。オカルト本でよくある手口のように、たとえ創作であってもノンフィクションという体裁をとればそのほうが衝撃力が強いのはいうまでもない。
「これはデジタル合成による写真です」と言って提示されるのと、「昔の病院跡で撮った写真に偶然……」と言われるのと、どっちが怖いかという問題である。まずそういう観点から本書は『モスマンの黙示』(ジョン・キール著/国書刊行会刊)や『彼らはあまりにも知りすぎた』(濱田政彦著/三五館刊)などのノンフィクションの体裁をとった本をこえられていない。とはいえそこはアカデミズムに身を置き続けるためには乗り越えられないラインなのであろう。
ではフィクションとしてはどうだろう? サイトによると著者も高く評価している『モスマンの黙示』(なぜ誰も指摘しないのか不思議なのだが、この本はあきらかに『ツインピークス』のタネ本である)に盛り込まれた謎また謎の情報量には明らかに負けている。より大きなイメージを背景に設定すべきだったのではないだろうか?
オカルティズムを信奉する人々によって現実的な事件が引き起こされる設定といえば、なんといっても名作『フーコーの振り子』(ウンベルト・エーコ著/文藝春秋刊)が思い起こされるが、西洋近代におけるオカルト史を背景にした同書のように、日本におけるオカルト史を背景に持ってくることは出来なかったものか?
例えば戦前の宮中を巻き込んだ元海軍大佐矢野祐太郎による神政龍神会事件などは小説にもってこいではないだろうか? 松本清張の『神々の乱心』は全く粗笨な小説ではあるが、天皇毒殺や国家が関わった阿片政策、満州のかかわりなどスケールの大きさをにおわせる可能性があった。本書にも満州など出てくるが、やはり情報量が少ないのが惜しまれる。
日猶同祖論についての小文もあることだから、そこらあたりの右翼や軍部などの魑魅魍魎たちをからめるのも面白いと思うのだが……。他にも北一輝、出口王仁三郎等々、日本のナショナリズムと結びついたオカルティズムは実に興味深いと思う。
UFO関連でいえばCBAなども面白いのでは? その内部抗争や三島由紀夫を含む文化人達も巻き込んだ当時のUFO業界(?)はそのままアメイジングな題材ではないだろうか?
ただ……もしかしたら著者はこれらの題材をとりあげるのを躊躇したのかもしれない。これらはあまりにも現実と密接に関係している。本書のように、また『フーコーの振り子』のように、オカルトに近づきすぎるのは危険な行為なのだ。それは別の意味でも……。
そう、僕はオカルト=電気説からさらに踏み込んだ仮説を立てている。もしかりにその電気を人為的に起こすことができたら……。

以上、勝手な放言にお気を悪くされた方には深くお詫び申し上げる。
著者を尊敬し、その著作を読むことを楽しみにしていることに変わりはない。

追伸 かみのけ座といえば昔ある都市伝説を読んだ記憶があるのだが……。
確か兄弟だったか親戚だったかが、かみのけ座からお迎えが来ると突然口走り、ノートを見せられるのだが、そこには判読不明な文字や図がびっしりと書き込まれていたという……髪の毛というイメージとあいまってその意味不明さが大変怖ろしい小話だったと思う。ただどこで読んだのか……これもまたアムネジアなのか……(笑)? 06.3.22



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巽昌章「空間と視線(中井拓志『獣の夢』その他と共に)」(2006/5『メフィスト』後に『論理の蜘蛛の巣の中で』講談社に収録)
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