思春期をめぐる物語
稲生平太郎
『アクアリウムの夜』は僕にとってまさしく処女作だけれど、実は脱稿してからようやく陽の目を見るまでに四年以上かかったという作品でもある。詳しい経緯は省略するが、長らく匡底に秘めていたというような事情では、残念ながら、ない。
作品の原型らしきものが生まれたのは、かれこれ十数年前に遡る。スコットランドの首都エディンバラを初めて訪れたときのことだった。この最初のスコットランド旅行いらい、ハイランド、とりわけその北部の地の果てともいうべき荒涼たる景観、別の惑星のごとき風景に僕は魅せられてしまうことになる。ハイランドといえば、たとえばネス湖周辺をひとは思い浮かべるかもしれないが、あのあたりの話ではない。
それはさておき、たしかエディンバラのお城のそばだったと思う、小説の主人公たちと同じように、そこで僕は奇妙な見世物に出くわした――「カメラ・オブスキュラ」である。この光学器械の元祖については本を通しての知識は持っていだけれど、実物にまさか遭遇しようとは思いもしなかった。
その日の夕方、街を流れる川に面した公園のベンチで、僕は小さな手帳の余白に物語を綴りはじめていた。グラスゴウからベルファストヘ向かう船の上でも、飛び交う海鳥の群れを眺めながら書いたのを憶えている。そして、数十枚書いたところで旅は終わり、手帳は机の抽出に放りこまれた。
それから六年ほどして、友人のGから突然電話があった。彼は当時角川書店から出ていた雑誌『小説王』の編集にかかわっていて、何でもいいから小説を書けという。そこで思い出したのが例の手帳だった。
結局、三回連載したところで雑誌は廃刊、僕の手元には九十枚ほどの原稿が残ったことになる。出版のあてはなかったけれど、一年ぐらいだろうか、僕は暇を見つけては書き続け、ようやく脱稿にこぎつけた。
エディンバラで衝動的に書き始めたときも、雑誌で連載を開始したときも、筋らしきものはほとんど決まっていなかったし、それは後でもおなじことだった。決まっていたことといえば、少年小説の枠組を利用するということだけ。少年小説というジャンルが本当にあるのかどうかは知らない。僕が思い描いていたのは、小さい頃に読んだ子供向けのSF小説、怪奇小説、冒険小説の類、それに、『中一コース』とかの付録についてた小説なんかだった。ともかく、記憶に残留するその枠組を用いて、まったく別種の物語を語ること、それが僕の願いだった。
それともうひとつ、できるだけ荒唐無稽な要素を投入すること。しかし、これには苦しめられることになる。荒唐無稽なのはいいにしても、物語としてのリアリティは成立しうるのだろうかと。リアリティが成立しなければ、意味はない。色々な仕掛けはほどこしたつもりだが、この点については、今なお心もとない。
出口も分からずに長い物語を綴るというのは、奇妙な体験だった。物語の全貌が見えたのは、ようやく最後から二番目の章を書き終えたときだったけれど、それもそのときそう思っただけのことで、校正その他で幾度か読み返してみると、後半部分の「記憶」が欠落していることに気づく。読み返すたびに、ああ、そういう筋だったのかと思う。自働書記を採用した部分もあったが、皮肉なことに、そういった箇所には記憶がある。こんなことを書いていると、帯にも「サイキック・ノヴェル」とあることだし、霊媒とまちがえられそうだけど、でも、おそらく物語を紡ぐというのはそんなふうなのだろう。
この原稿を書いている時点で出版から二ヵ月ほど経過、友人知己たちからの反応も既に入ってきており、あらためて物語というのは読者が創造するものだということを思い知らされた。それぞれの読者がそれぞれ独自の読みを提出してくれるのは、作者にとってきわめて刺激的というほかない。読みといえば、僕の場合、小説をあれこれ分析するというのを商売にしているわけだが、『アクアリウムの夜』を書いていたときも、読み返したときも、ついこの癖がでて、まるで他人の作品のように、この一節にはこれこれの意味が隠蔽されてるとか解釈してしまうのには困った。こういうのはいったい何て呼べばいいのだろう――悲しき職業病? 自我の分裂?
とまれ、物語においては、作者の意図なんて、小さな役割しか果たしてはいないだろう。それを承知のうえで発言するなら、『アクアリウムの夜』は、少なくとも書き手たる僕にとっては、思春期をめぐる物語でなければならなかった。漠然とした意味での思春期ではなく、僕にとっての思春期。書き終えてから思ったのは、この作品は、僕が思春期に実際にいた「世界」を綴ったものにほかならないということ。私小説というとひとは笑うかもしれないが、僕にはまさしくそのようなものとしてある。
この物語を書くことは、思春期の呪縛から脱するための一種の治癒行為でもあった。そして、さらに、ある意味では『アクアリウムの夜』は教訓譚として意図された。万人のための教訓でないのは、もちろん確かだけれども。版元のS氏は教訓譚どころか危険な物語という意見だった。そう、それならば、破綻した教訓譚と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。
(『ブックガイドマガジン』3号[1990.12.10発行]より転載)★無断転載を禁ず★