《不思議な物語》概略
こんなことは世間的にはいささかの自慢にもなるまいが、私は「不思議な物語」の日本でいちばんの愛読者であろう。
自分の作っている雑誌に連載してもらっているエッセイなのだから、愛着があるのは当然と言えば当然だが、毎号ほぼ見開き二ページで収まってしまうこのエッセイほどに読み返したものは、『幻想文学』の中ではまずあるまい。
物理的な理由としては、「不思議な物語」が私には読むことができそうもない洋書の紹介であるということが挙げられる。純粋に書物あるいは物語の情報として蓄えておきたいのである。
精神的には、読むとほっとする、という効用がある。なにしろ世間でどんなに評価されていようが、自分の批評眼に適ったものでなければ、みごとなまでに堂々と貶す。傑作と言われているものでも、一読の価値がある、程度の表現になる。そういう姿勢の人が存在するということ自体が私にとっては一種の救いになる。
私はとても厳しい批評家だと言われている(らしい)のだけれども、常々それをたいへん心外なことに思っている。私は作品に対してとても優しいし、作家に対してもかなり思いやりをもって接している。言葉で表現して発表するときはそれなりに注意を払うし、評価そのものに関しても、公的な場ではかなり識閾を下げている。にもかかわらずそういうことを言われると、読者はいったい何を読みたいのか、と茫然とし、孤絶感を味わうこともある。そんなとき、稲生平太郎のように高いレヴェルを求める批評に出会うと、だいじょうぶ、批評をやっていてもいいよ、と言われたような気分になるのだ。
さらに言うと、「不思議な物語」は多くの場合価値の判然としない書物を買い求め、取りあえず読んでみて拾うべきものがあれば望外の僥倖、というような一種の徒労にも似た作業であって、そんなことを続けているという事実そのものにも私は慰められる。
稲生平太郎は「不思議な物語」の連載を始めるにあたってこのように言っている。
ここ十年ほどのあいだに欧米の幻想小説や怪奇小説は随分と翻訳紹介されたけれど、たとえば E・F・ブライラーの The Checklist of Science Fiction and Supernatural Fiction(1978)や The Guide to Supernatural Fiction(1983)を繙けば一目瞭然、それらはほんの九牛の一毛にすぎない。もちろん、屑みたいな作品が多いのは判っている。でも、死ぬまでにできるだけ沢山〈不思議な物語〉を読みたいと念じている僕みたいな人間は、夥しい量の物語の山のどこかに素晴しい宝が隠されているかもしれないと、今日も古本屋に註文の手紙を書き、本棚に手を伸ばす……。原稿をもらって初めてこの文章を読んだとき、いかばかり共感したことか。ただの本好きというのではなく、ある特定のジャンルが、あるいは特定の傾向の作品が好きだという読者は、程度の差こそあれ、みな同じ情熱を共有しているのではあるまいか。
そして『幻想文学』という雑誌というのは、恐らくはその情熱を支えるために最も機能してきた。つまりこうした〈不思議な物語〉を読みたいと思う読者のための水先案内を務めるという役割である。だから、稲生平太郎の「不思議な物語」は『幻想文学』という雑誌の中にある、一つの小さな『幻想文学』なのだとも言えよう。
現在も稲生平太郎がこの情熱を持ち続けているかどうかは知らない。私自身にしても、「できるだけ沢山の幻想文学を読む」というような気概はだいぶ衰えたようにも思う。だが、今もなおまだ新たな本を読むことそのものに執着するとしたら、自分がまだ知らなかった世界を開いてくれるような「素晴しい宝」があるかも知れぬという、妄想にも似た思い以外にはないだろう。
さて、稲生平太郎の言う「素晴しい宝」とはどのようなものなのだろう。
初めに述べたように、この連載は、手放しで作品を褒めるようなことがほとんどない。かなり出来が良くても「佳作」どまりで、「傑作」とされるのはほんの僅かである。自分でも「滅多に褒めないと定評のある」と苦笑していたり、東雅夫も「(けなしているのであっても)この欄に取り上げられたということだけで価値がある」とフォローしていたりするのを見れば、そのシビアさがよくわかるだろう。まあつまらない作品を取り上げていることも実際にあるのだが、そうしたものも含めて、稲生平太郎がどんな小説に興味を抱いているのか、何を評価しているのかを見ていきたい。
「不思議な物語」が取り上げる最も古い作品はウォルポールの『象形文字譚』である。ゴシック小説の鼻祖の作だが、むしろ綺想小説の先駆というべきもの。作品そのものへの評価は低いが、珍しい作品ではある。
ちなみに「不思議な物語」ではナンセンス系のファンタスティックな小説が取り上げられるということがほとんどない。『象形文字譚』がほとんど唯一と言ってもいいナンセンス・テイルであるが、解説を読むかぎりではあまり朗らかな感じの作品ではないようだ。
やはり綺想小説の系列に入るかと思うマコーマック『地下牢の検査』も取り上げられているが、スコティッシュ・ネクラネスの作品であるため、どうにも暗い雰囲気だし、この作品集を稲生平太郎は褒めているけれども、評価しているのは、メタフィクショナルな作者の意識ではないだろうか。
とはいえ、ユーモア小説が嫌いなわけではない。ドン・デリーロの『ホワイト・ノイズ』は笑える小説だったと褒めていたりするし(どこが笑えるのか私にはよくわからないのだが)、またマーヴィン・ウォール『不運なファージィ』については、滑稽小説として読みたいとも語っている。ただ『ファージィ』は単純なユーモア・ファンタジーではなく、諷刺小説としての側面があって、決して明るいだけの作品ではない。『ホワイト・ノイズ』もしかり。
いずれにせよ、あからさまな綺想小説、ユーモア・ファンタジーの類は多くはない。
「不思議な物語」が多く取り上げるのは、簡単に言ってしまうと、怪奇小説あるいはオカルト小説である。怪談、モダンホラーから神秘主義小説、イニシエーション小説まで幅は広いが、ある一定の特徴がある。
そのほか、メタフィクショナルな要素を持つ、構造的に複雑な作品も多く取り上げられている。『異形のテクスト』のように、長編小説の型から逸脱しようとする作品群を特に論じようとする人なのだから、それも当然のことか。こうした作品のいくつかはオカルティックなテーマともクロスしていて、稲生平太郎の趣味をより明らかに窺わせる。
さて、数の多さということからすると、魔術を扱ったオカルティズム小説が最も優勢である。ただしこれらの作品についての評価はおしなべて低い。高く評価しているのはキャンベル・プレイドの『影のブラザー』ぐらいのもの。十九世紀小説にしては珍しく、アクションが速くて退屈しないということと、精霊を呼びだすシーンの迫力を評価している。またプレイドのオカルティズム小説『親和力』についても半ばは評価している。このほか、幽霊小説が魔術小説へと転換するJ・M・フォークナー『失われたストラディヴァリウス』も比較的評価が高いが、これは多分普通の幽霊小説からの意外な展開が気に入ったからなのだろう。「驚かされる」ということは、稲生平太郎にとっては「良い小説」に直結するものらしい(もちろん下手で驚くとか無知で驚くとかいうのは論外)。
オカルティズム小説は心霊主義・神智学が大流行した世紀末に多数書かれたものらしいが、クズが多いと稲生平太郎は述べている。また、オカルティストの書いた小説は、大方の場合まったくどうしようもないとも言っている。私の知るかぎりでも確かに酷いものが多い。なんでこんなものを書きたがるのか、と別の興味が湧くようなものばかりで、オカルト研究の上では読む意味もあるのかもしれない。稲生平太郎が、小説としてはダメだと知っていながらそういうものを読むのは、やはりオカルトそのものへの興味からなのだろう。またオカルティストならではの特異なヴィジョンのようなものが、万が一描かれぬでもないと期待するのかもしれない。その気持ちはわからぬでもないが、現実は厳しい。「不思議な物語」で、オカルティストの書いた小説として褒められているのはJ・W・ブロウディ=イネスの『悪魔の恋人』ぐらいだが、これはオカルト小説ではなく、超自然的要素の濃い歴史ロマンスであるようだ。
「不思議な物語」では、魔術小説のほか、スピリチュアリズムの小説、神智学小説、疑似科学的なオカルトもの、オカルト活劇、霊媒ものなどが取り上げられるが、研究上興味深い、とか、娯楽小説としてはまあまあ、といった言葉はあっても、直接的なオカルトものにはなかなか良い点がつかない。
ところが神秘的な傾向の作品となると、失敗作であっても積極的に認めようとするし、かなり褒めるものも出てくる。例えばジョージ・マクドナルドの『予兆』。成功作とは言えないこの作品にマクドナルドならではのヴィジョンの表現を見ている。エリアーデの『禁断の森』にしても失敗作だと言いながら、かなり肯定的。要するにこの二人の作家は好きな作家だから、なのかも知れないが、たいへんによく理解を示している。またブライアン・ムーアの『冷たい天』はかなり評価しているし、ジョン・ファウルズ『マゴット』のような現代的な作品も、結末はともかくとしておもしろく読んだ様子が窺える。
このほか心霊的な作品としてオリファント夫人の『包囲された都市』を高く評価する。内容的にもそうだが、たぶん「藪の中」的な構成のおもしろさも買われているのだろう。 幽霊小説として高く評価されるのはメトカーフの短篇『ブレナーの息子』。暗示的で、「きわめて謎めいた作品」とされている。一方、普通のひねりのない幽霊小説、幽霊屋敷物などは、退屈だの興味が抱けないだのと言われてしまうのだ。
従って、いわゆる怪談の作家として稲生平太郎がロバート・エイクマンを高く評価するのは理の当然というか、当たり前すぎてひねりがない感じすらする。エイクマンは単純な怪談の書き手ではなく、描写の積み重ねで怪異をそれとなく暗示するという方法を取っており、それは最大限に評価されている。もっともエイクマンの作品でも比較的単純な話になることもあり(例えば邦訳のある「待合室にて」など)、そうすると、凡庸、というスタンプを押されてしまうのである。
このほか、個々の怪奇短篇を見ていくと、ハーヴェイでは、現実と虚構の交錯する 'The Follower' 、異教的モチーフを取り入れた心理的吸血鬼もの 'Miss Avenal' が評価され、ロウダ・ブロートンでは、開かれた結末を持ち、性的暗示の強い 'The Man with the Nose' を傑出した作品とする。
さらにバリの『さようなら、ミス・ジュリー・ローガン』も、評価はともかく、興味深く読んだと語っている。「ホッグに魅惑を覚える読者などには一読の価値があると思う」と言っていて、暗いエロティシズムに関わることなのではないかと推測するが、よくわからない。(こうした一連の作品への嗜好とサーバンへの高い評価を考え合わせると、稲生平太郎の抱くエロティシズムの感覚というものが漠然と理解されるように思う。それは彼の書く小説と切り離せないと感じるが、あくまでも臆測の域を出ない。)
もう一つ稲生平太郎の評価の基準として大きな位置を占めているらしいのが、言語による喚起力である。批評家としてはごく当たり前のことだが、評価の水準がかなり高いのでは、と思われる。なにしろ、そういう意味で評価されているのがサーバン『石の環、その他の奇妙な物語』『人形つくり、その他の不気味な物語』と、マーガニタ・ラスキ『ヴィクトリア朝の寝椅子』ぐらいなのだから。ただし私は原書を読んでおらず、水準が高そうだというのは、純粋な当て推量である。前者はエロティシズム、後者は時間というモチーフにおいても魅力を持つと評価されている。
作品としての評価はともかく、その特異で強烈なヴィジョンが称揚されている作品としては、マチューリン『宿命の復讐、もしくはモントリオの一族』、リンズィ『悪魔の岩山』を挙げることができるだろう。ヴィシャック『メデュウサ』も言語化には失敗しているがそのような作品として見ているようだ。こういう作品にはたいへんに同情的であって、要するにウェル・メイドだがコンヴェンションに則っているようなものよりも、破綻している失敗作であっても、尋常な領域から逃れようとする作品を評価するということなのだろう。
というわけで、現代小説となると、現実が侵犯されるような作品を高く評価することになる。マイクル・ビショップ『誰がステイーヴィ・クライを造ったのか?』、アラスター・グレイの『哀れな人々』、そしてクリストファー・プリーストの作品群。『誰がステイーヴィ・クライを造ったのか?』については、メタホラーであると同時に純然たるホラー・ノヴェルでもあるという離れ業を達成した「極めて刺激的な作品」と言い、『哀れな人々』については、『悪の誘惑』ばりの精緻な重層構造を持ちながら、なおかつ笑える作品だとして、「九〇年代のイギリス(あるいはスコットランド)小説の大きな収穫のひとつであることは疑えない」と評価する。プリーストについてはほとんど絶賛していて、特に『静かな女』については「きわめて刺激的な作品として高く支持、評価する」と断言している。これらの作品では完成度が重視されていることを強調しておくべきだろう。こうしたメタフィクションの形式や現実侵犯というテーマは現代ではどちらかといえばありふれたもので、それをどこまで精緻に展開できるかが問題だからだ。従って、マコーマック『パラダイス・モーテル』やジョナサン・キャロル『空に架かる子供』などは批判されることになる。
「不思議な物語」で評価されている作品をざっと眺めてきたけれど、15年ものスパンがあるため、今となってはこうした評価もどのように変わっているか知れない、ということが頭をよぎる。だが、ともかくも私は「不思議な物語」をこのように読んだ。その総体から、私は私なりの稲生平太郎像を描く。私の知る限りの横山茂雄とは重なったり重ならなかったりする。ものを書く=読むという行為は常にそのような状況を生み出す。だからこそ、おもしろい。