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沙羅渓谷

前向きに生きるための物語――『サラサラ姫の冒険』

 日本のフェミニズム・ファンタジーの嚆矢はなんだろう。ただのフェミニズム小説であれば、戦前の作品から名前が挙がるのだろうが、幻想小説におけるそれとなると、いささか難しい。女性であることを意識した幻想小説ということで言えば、フェミニズムの視点を持っ作家として知られる河野多恵子の『不意の声』(六九)などを挙げても良いのかもしれない。だが、現代的なリブ運動の展開に伴って描かれるようになった、非常に意識的なフェミニズム小説というと、やはり八〇年代後半からの大原まり子の諸作品や松浦理英子の作品などに思いが行ってしまう。それ以前の作品で、フェミニズム・ファンタジーの系列の中に入れられるものがないものか、と考えているうちに、この作品に思い当たった。
 森のぶ子の長篇童話『サラサラ姫の物語』(五八・講談社青い鳥文庫・品切)である。この時代には、フェミニズム運動はおろか、いわゆるウィメンズ・リブ運動すら起こってはいない。男女の性役割はステレオ・タイプの理解だなどとは夢にも思われてはいない。しかも急速に経済大国としての道を歩み始める高度成長期前夜、もはや戦後の無軌道さもいずこかへと押し込められていた時期である。そのような時代に書かれた作品として、現代のようなフェミニズムの意識は持っていなかったにせよ、若い著者が描き出したヒロイン像は、まさしく現代のフェミニズムに通ずるものを持っていると私には思われる。この作品は何度も本になりながら、不当に忘れられているけれども、今なお新鮮な印象を与える童話なのだ。
 砂漠の王国サラバンドのサラサラ姫という美しく健やかな女性が物語の主人公である。彼女は方々の王国から結婚の申し込みを受けるが、自分を産むときに亡くなってしまった母の出身地であるらしい北の海の王国へ嫁ごうと考える。遠い国へ娘を嫁がせることに不安を感じる王は、北の国の王子を知る者たちに話をさせるが、それぞれ矛盾したことを言うばかりである。サラサラ姫は『それぞれ自分の立場でものを言っているからだ』ということに気づき、そして『自分の目で確かめなければ本当のことは分からないのだ』と、一人で旅に出てしまう。クシナンテという若者をただ一人の伴として。
 姫は苦しい旅の途上で思いもかけなかったことを学ぶ。自分一人の生き方が、この世のさまざまなできごとにつながっていること。自分の眼で見れば確かめられると思っていたのも間違いで、真実は一つではないのだということ。いついかなるときにも未来へと向かう希望を忘れてはならないということ……。物語の最後で、サラバンドヘの帰途にあるサラサラ姫たちの一行は嵐に出会う。姫は自ら一行を励まし、嵐に耐える準備をする。不安に満ちた二昼夜の後、とうとう嵐は過ぎ去り、姫たちはサラバンドヘとたどり着くのであった……。
 文庫版の解説で山室静は、あまりにもいろいろなものを盛り込みすぎたために後半がご都合本意の簡略なものになり、作品が薄手になったことを指摘し、《なぜ》と問う心を前面に強く出し、作品に社会的意義を持たせたいとする意欲が裏目に出たのだろう、と述べている。確かに後半は駆け足気味で、前半のゆるやかな物語展開とは、おもむきが違う。もう少し書き込まれていればと思わぬでもない。しかし私は、姫がどんどんと自立精神を身につけ、自分の生き方を見つめ直していく後半こそ物語の山場であり、この童話の新しさや魅力がある部分だと思う。
 この作品を書いた時点でまだ二十六歳だった森のぶ子は、自分のこれからの生き方を問うようなものをこの作品に盛り込まずにはいられなかったのだろう。森が社会人としての勤めを大切にしていて、童話作家として立つことに積極的ではなかったと、四室静の解説にあるが、そうした生き方にかかわる一つの意思の表明がこの作品であったのかもしれない、と私には思われるのである。
 自立する姫、指導者である王女など、今ではむしろファンタジーのステレオ・タイプであるかもしれない。だが、一方で、自立していない姫君、夫や父親に従うだけの王女たちも量産されている。もちろん昔話(メルヘン)の世界では、そうしたステレオ・タイプはステレオ・タイプのままに放っておかれている。グリム童話などのフェミニスティックなパロディが書かれ、世間にインパクトを与えるゆえんである。
 やはりフェミニズムの視点から書かれた童話にダイアナ・コールズ『アリーテ姫の冒険』(八三・学陽書房)という作品がある。かしこい王女であったアリーテは、横暴な魔法使いと結婚させられ、無理難題を押しつけられるが、勇気と知恵で乗り切る、というものである。フェミニズム運動展開後の作品であるにもかかわらず、あるいはかえってそのせいでなのかもしれないが、物語展開はあまりにも女性称揚的で浅薄この上なく、読むに耐えない。昔話のパロディの一種と言えるが、昔話のもつ美しさや簡潔さには到底及ばず、これがグリムなどのメルヘンの強力さに対抗できるとは到底思えない。そのような作品の紹介者である〈ウィメンズ・ブレイス〉というグループは「この "The Clever Princess" を読んだとき、やっと自分の力で問題を解決していける女の子が主人公の物語をみつけた、とほっとする気持ちでした」などと言っているのだから度し難い。フェミニズムの主張も良いが、物語としても、そして文学表現としても不充分なものを子供たちに与えて平然としておれる感性には、私は到底ついていけない。こんなものを平気で世に送り出しているから、フェミニズム運動だのフェミニズム文学が男性上位の文芸社会でバカにされてしまうのである。
 それに比べると、四十年近く前の作品であるにもかかわらず、『サラサラ姫の物語』ははるかに魅力的な世界を造形し、なおかつ自分の力で自分らしく生きようとする姫を描き出すことに成功しているのである。私がこの作品にフェミニズム・ファンタジーとしての位置づけを与えようとしたのも、『アリーテ姫の冒険』程度でフェミニズム童話と言えるのなら、こちらの方が内面的にはるかに優れたフェミニズム童話だと思ったからにほかならない。そしてこの作品こそ多くの少女たちに読まれてほしい、と思う。
 女は、そして男も、文化的にステレオ・タイプを押しつけられながら成長する。女の子に生まれたその日から求められるのは、可愛さとおとなしさである。やや成長してくると、素直さと優しさ、明るさが求められる。女の子に親たちは体力を付けよ、勇気を持て、独立心をもて、たくましくあれ、などとはあまり要求しない(特に日本の男親は男女役割的な差別のある躾にこだわるという統計結果がある)。とは言いながら、思春期前の少女たちは必要以上に〈女の子らしく〉などは生きていない。だが、思春期を迎える頃になると、〈メンス〉という、生理現象であるにもかかわらず非常に象徴性の強い、精神に衝撃を否応なく与える体験を通じて、女の子は自分が女であることを認識し、受け入れなければならない。女であることがプラス・イメージであればよいが、マイナス・イメージであった場合、女としてのアイデンティティを獲得するための葛藤が起き、思春期を乗り越えるために特別な苦労が必要となるのである。(それは男の場合でも変わりはないのだが、男は男に対してマイナス・イメージを持つことが女に比して少ないので、目立たないのだろう。また男は男の否定は素通りし、人間の否定という方向へ向かうということも考えられる。)
 文化的な刷り込みによる男女観の形成の力は強い。特に子供たちにとって大きいのはテレビとマンガ、ファミコンだろう。RPGなどでは、男が主人公、女は補助、といった役割分担が今でも多い。マンガも少年ものでは男が、少女ものでは女が主なのは当然だろうが、女が主人公の少女向けマンガの場合でも、女は強くたくましく、なおかつ優しくかわいく、好きな男には従順だ、という男に都合のいい設定がなされることがしばしばである。これでは女であることと、自分の人間としての個性を合致させられない少女がたくさんいても驚くにはあたらない。
 そんな思春期でつまずきそうな個性を持つ少女たちには、女も人間であり、こうして主体的に生きていくのだ、ということを示してくれる作品が絶対に必要だ。もちろん現代では主体的に生きる活発な少女たちを主人公とした物語も数多く書かれている。その草分けであり、しかも作品の深さにおいて現代の少女ものには見られないもののある、『サラサラ姫の物語』は、時代を越えて読み継がれるべき作品であろうと私は思う。

高原英理『少女領域』(国書刊行会)がその答えを半分は教えてくれる。野溝七生子の名前が上がっているので、ここで取り上げた作品よりよほど古い。同書は、戦前から現代に至るまでのフェミニスティックな作品を「この世から逃れんとする意志」という魅惑的なコンセプトで評論を展開している。フェミニズム文学について考える場合は、今や必読の一冊と言える。
★『アリーテ姫の冒険』は劇化もされたようだが、アニメ化もされた。原作を半分以上無視した作品で、おもしろく分析できそうだ。

★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★