男が子供を産むと――『アリスの穴の中で』
フェミニズムという言葉が流行の気配を見せた八〇年代末に(たとえば『宝島』でフェミニズムの特集が八八年に組まれている)、意識的なフェミニズム小説が女性によって書かれることがなかったのは、どうしてなのだろう。吉本ばななが『キッチン』でデビューしたのが八七年、村上春樹の『ノルウェイの森』がやはり八七年で、若い女性の圧倒的支持のもとに、ミリオン・セラーをマークした。このころ、若い女性は「こういう感じ、分かるよねー」を合い言葉に、ばななと春樹を読んでいたのである。さらに長野まゆみが八八年にデビューし、やはり少女から若い女性までの支持を集めて今日に至っている。それらがある意味ではフェミニズム小説の占めるべき位置を占めてしまったのだとも言える。女たちは少なくとも、自分の感覚を分かってくれている小説に出会って、安心したのだろう。そして日本ではフェミニズム小説が積極的に書かれることもなく(ということはその要請もないということだ)、フェミニスティックなファンタジーが欧米のように当たり前のものにもならなかった。そのころに男性作家がフェミニズムの小説を書いているのは不思議といえば不思議だ。あるいはそういう時代の気配を、男だからこそ敏感に察知したものか。
上野瞭の『アリスの穴の中で』(八九・新潮文庫)は現代を舞台に中年男性の妊娠・出産という事態を真面目に描いた長篇小説で、一種のフェミニズム・ファンタジーなのだ。あとがきで上野は、自分も含めて「女性に理解ある男」を俎上に乗せ、「男性は女性の側に立てるのだろうか」ということを突き詰めて考えようとした、というようなことを述べている。つまり上野は、フェミニズムの盛んになりつつある時代における、自分の中の男としての意識をある意味で問題にしたのである。「女性解放とか考えたこともない」とは上野自身が語るところである。またこれは家族問題を考察する三部作の一作であることもあって(他の二作は『砂の上のロビンンン』『三軒目のドラキュラ』。いずれもテレビドラマ化されている。寓話的だが、幻想ものではない作品)、家族の中の女の立場に目を向けざるを得なかったという状況があるのだろう。「家」の問題は、すなわち「女」の問題でもあるのだから。
この作品は幻想文学方面の読者のあいだではさほど話題になることもなかったが、ありふれた現実の中に〈男の妊娠〉という荒唐無稽なを事象を放り込み、しかもそれをあくまでもリアリスティックな筆致で描くことで現実を異化しようとする、非常にすぐれた作品である。またそのリアルな現実が幻想へと転換させられてしまうようなメタ的構造も有しており、私はこの小説をかなり高く買っている。
そしてまた、フェミニズムという視点から読み返してみても、再読に耐えうる作品だ。
短大生の娘と中学生の息子のいる壮介と玲子を中心に物語は展開する。壮介は五十歳を迎えようとする何の変哲もないサラリーマンだが、ある日妊娠していることが判明する。その事実をどうしても受け入れることができない彼は、半ばノイローゼ状態になりながら悶々と日々を過ごしている。玲子との恋愛時代や若き日の性衝動などを回想しながら、壮介は自分が失ってしまったものに思いを馳せる。玲子はパートで働く主婦で、家事、子供の世話から家計のやりくり、そして身よりのない叔母を完全看護の病院に預けて時折見舞う、といった家庭にかかわる一切を引き受けている。四十五歳という年齢が、二十年に亙る結婚生活が、玲子を冷ややかできわめて世俗的な女性にしているが、同時に彼女もまた人生に愛を求めていることが語られている。
さらに病院に入院して過去の日々を夢として見続けている叔母のゆき。ゆきこそ、この小説の隠れた主役だ。彼女の回想は、男たちの粗暴さや戦争を起こして人を殺してしまう男たちの生き方を軽蔑しながら、女として矜恃と誇りをもって生きることに貫かれ、感動的である。ゆきの回想には、さまざまな局面における女性差別の状況が的確に描かれており、回想の中のゆきを主人公とした小説であれば、それこそ普通のフェミニズム小説になるのかもしれないと思わせるほどだ。
産みの苦しみの中で壮介が見た幻想のゆきは語る。「子どもを産むことは、悲惨なことでも不幸なことでもないはずよ。……女はね、ずっと昔から子どもを産んできたの。……これまで、女だけが人間を産んできたことを、男のあなたたちは一度もふしぎに思わなかったのよ。不公平だとも、損だとも思わなかったのよ。おばさんはね、そのことのほうがおかしいと思うの。どうして男も、人間を産みたいと思わないのよ」……
これは究極の性差別意識批判であろう。性差は子供を産む・産まない、というところにある。あるいはほとんどそこにしかない。昆虫も魚類も人間もその意味では変わりはしない。生物学的に、雌雄の差は、子供(卵)を産む・産まないで決定されるのである。獣はともかくも、人間なのだからそれを見直してもいいのではないか――人間だからこそ、女だけが子供を産むということに異議が唱えられる、というのは大した逆転の発想である。産む・産まないという差別がなくなれば、当然男女関係は根本から変わってしまうのではないか……。
だがしかし、上野瞭は壮介に「無意識にじぶんの産んだ子どもから逃げている」態度をとらせることで、子どもを産んでも人間の意識がそんなに簡単に変わるわけではないことを示唆する。かつて私のインタビューに答えて上野はこう語っている。「人間が変わるっていうことはそう簡単なことではない。百八十度変わってしまうことなんかない、と思う。日本人は戦争で負けてもそんなに変わらなかったんだから……。男が子供産んだぐらいじゃそうそう変われないですよ。でも全然変わらないっていうことじゃなくて、少しずつ変わっていく。どっかで時間をかけて変わるということを考えないと」(『幻想文学』29号)。これはフェミニズム運動への戒めとなる言葉でもあろう。人間はろくでもない生き物で、そう簡単には変われないかもしれない。だが、少しずつでも変わることを信じていなければ、どんな努力も空しくなる。変わることを信じて、日々を積み重ねていくほかないではないか、と『アリスの穴の中で』も静かに語りかけるようである。
★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★