フェミニズムの陥穽――『帰還』
アーシュラ・K・ル=グインがフェミニズムに意識的な作家であることは念押しするまでもないことだろう。ル=グインを取り上げるならば、フェミニスティックなSFの代表作として、改作された『闇の左手』を論じるるのが順当なところかもしれないが、ここでは《ゲド戦記》の第四巻として書かれた『帰還』(九〇・岩波書店)について考えてみたいと思う。この作品があまりにも多くのことを考えさせる問題作であるからだ。《ゲド戦記》は、アースシーという架空の多島世界を舞台に、不世出の魔法使いゲドの冒険を描いたハイ・ファンタジーであるが、もはや『指輪物語』に次ぐ古典の位置を占めていると言っても過言ではあるまい。ル=グインの作品は象徴性が高くメッセージ性が強いために人によって好悪・評価が分かれることが多く、《ゲド戦記》についてもユング心理学に多くを負いすぎているといった批判がなされることがある。実際に誰が読んでもあからさまにそのことが分かってしまうため、その批判に反論することはなかなかに容易ではない。「たとえユング心理学のなぞりのような構造を持っていようとも、アースシーは魅力的な世界だし、物語としてはおもしろいではないか」といったような言葉しか返すことができないのである。要はメッセージ性が読者にとって鼻につくかつかないか、ということだ。
《ゲド戦記》がこれほど広く読まれたのは、そんなことは気にならなかったという読者が大勢を占めたからだろう。あるいはこれぐらいはっきりしていた方が分かりやすくてよいという読者もたくさんいたことだろうと私は思うのである。もともとこれは児童文学なのだから。そして私自身も《ゲド戦記》を高く評価している。好きな作品の一つと言ってもいいかもしれない。描かれる世界そのものも、またファンタジーの象徴であるとル=グイン白らが断言するドラゴンの造形も魅力的だし、ゲドをはじめとするキャラクターも型通りであるのかもしれないがよく描けている。ル=グインの他の作品と比べてみても、破綻もなく、説教臭くもなく、よくできている方だ。実際、『こわれた腕環』で描かれるような迷宮的な地下世界が、あのようにリアリティを持って描かれたことはそれまでなかったのだ。
さて、それでは《ゲド戦記》三部作から十六年を経て書かれた『帰還』はどうだろうか。これはフェミニズム・ファンタジーと呼ぶよりほかない作品なのだが……。
私自身はこの作品を好きにはなれそうもない。作品を解析することで、それなりの評価を与えることはできるのだが、それ以上の好意をこの作品に抱くことはできない。つまり、『帰還』が批判されたとして、それを積極的に弁護しようという気持ちにはなれないのだ。『帰還』に対する評価を、それもおおむね女性によるものをいくつか読んだが、みなそれなりに好意的であった。私はやや驚いたが、だからといって私は自分の評価が絶対なのだなどとはさらさら考えてはない。作品の評価というのは常に相対的なものだし、個人の好みが反映しないということなどあり得ないことは百も承知だ。私には『帰還』のメッセージ性は鼻についたのだ、とも言えよう。その上で、この作品をファンタジーとして評価できない、ということを語ろうと思う。
物語は『さいはての島へ』の直後から始まる。主人公は『こわれた腕環』のアルハ/テナーである。テナーは自らの魔法の力を伸ばすことをやめ、ただの女としての人生を歩んだ。夫の妻となり、息子・娘の母となり、そして今や後家になったのである。テナーは殺されかけ、全身に大火傷をした少女テルーを救い、養女とする。テナーはまた、冥界より竜の背に乗って帰還したゲド、力を使い果たして魔法使いでなぐなり、打ちひしがれているゲドをかくまい、世話をする。やがてゲドは普通の男として生きることを、テナーを愛することによって受け入れる。テルーは、竜の子供テハヌーであることが明らかにされる。彼女こそ新しい女の魔法の力そのものであることが暗示され、すべてが生活そのものへと帰っていくところで物語には幕が引かれる。
解説には「フェミニズムの問題。男の専有物としての魔法知、の相対化の問題」が語られているとある。ル=グイン自身のステートメントもあるようだが、私はそれを目にしてはいない。あるいは、《ゲド戦記》のゲドの行使する魔法の世界が、〈力=支配〉という男性的論理に従ったものでしかない、という反省がこれを書かせた、というようなことなのだろうか。
前三作と『帰還』とのあいだには明らかに溝がある。『帰還』のゲドは三部作のゲドではなく、またテナーもテナーではない。彼らは前三作で見せた知恵も強さも、すべてどこかに置き忘れてきてしまっている。殊にゲドは、魔法を失ったことで非常に弱々しくなっている。『さいはての島へ』の最後では、自然の懐へかえってやすらぎたい、穏やかな余生を送りたいと考えていた彼は、故郷でやすらぐどころか、魔法を失った自分を嘆いてばかりの惨めな男なのである。そしてゲドは自分が普通の男として一人前であることを認識して、救われるのである。なんという卑小さか。
また、ゲドは「男が立派になりうるとしたら、その底には恥の意識がある」と語るが、しかし三部作のゲドは自らを立派だと意識していただろうか。大魔法使いではあった。多くの力を持っていた。だが、影との合一を果たすということは、自らの限界も弱さも認識するということであり、実際に、ゲドは弱さを抱え、人を愛することのできる人物として描かれていた。自然を、世界を愛し、調和と平和を目指す人物だった。そして生と死の本質を見極め、「受け入れることが力だ」と理解し、死をも受容した人物だったのである。なぜ、ここで力を失ったことに直面できないような人物にゲドを描かなければならなかったのだろうか。
また、テナーにしても同様である。あれほどの知恵を身につけ、自由の重さを認識したはずの女性が、人種差別的な目で見られながら、家庭という檻に閉じこめられて二十年を送ってきたという設定はあまりにも無理がある。いかにテナーが自分には与えられた選択肢を選ぶしかなかったのだ、と弁解したところで。
テナーは久々に戻ってきた息子の態度を見ながら考える。「ヒウチイシ(テナーの夫の名)の答も二十年いっしょだった。イエスかノーかをけっしていわないで、ものをきくこちらの権利を拒んでしまうのだ。こちらが知らないのをいいことに、逃げ場をいつものこして。なんて貧しいの。なんて情けないちまちました自由なの」。息子の態度には家父長制的な傲岸さが感じられ、テナーの夫もまたそうであったのだろうと推測させるのだが、およそあのテナーがそんな夫と二十年平気で暮らしてきたということの方が信じがたい。私には『こわれた腕環』のテナーと『帰還』のテナーを同一人物だとはとうてい見なしがたいのである。
要するに、ル=グインは過去の作品を否定することになっても、フェミニズムの問題を優先したかったのに違いない。いかにも知的な、論理先行型の彼女らしいあり方だと思う。そんなにまでもル=グインが気にせざるを得なかった《ゲド戦記》における男根主義とは何だろうか。それは魔法の体系に関するものであるらしい。
ロークの魔法使いの塔には女の賢人がいないこと。その魔法の質が、英雄を目指すものであること。魔法が力であること。それが男の専有物であること。……だが、ゲドは自分の魔法には村のまじない女にも劣る分野があることを素直に認めている。そしてル=グインの作り上げたゲドは少なくとも、日常に関わるまじない女の魔法を卑しいものだとは思っていない。男と女が違っていても、その傾ける情熱の対象が異なっていても(例えばいささか図式的だが、前者が世界全体に、後者が日常に、といった具合に)、構わないのではあるまいか。大事なのは、お互いを認めあい、尊重しあうことなのではないか。ゲドが現実にそうしていたように。今のル=グインは、男と女とのあいだに差はいささかなりともあってはならない、いやそれどころか、テヌハーがドラゴンの力を暗示するように、女こそが上位に立つものなのだ、とでも考えているのだろうか。
ここでテナーのことを考えてみよう。テナーはオジオンのもとでしばし学ぶが、普通の生活に入ってしまう、という設定である。女が魔法の力を持って英雄になるというのはそぐわない――と。しかしこの決めつけには無理がある。確かにゲドは英雄的行為を成し遂げる。だが彼は、自分を呼ぶ声のままに動いているだけだ。英雄になろうとはしていない。結果的に英雄と見なされる行為を成し遂げたこと、それは世界そのものの要請に過ぎないのだ。
力を持っているゲドは自由そのもののように見えたが、何を代償にしていたのか、とテナーは問う。テナーにとっては、ゲドの魔法は自由でないから、マイナス評価なのだ。本当に自由であること、つまりドラゴンそのものであることが、ル=グインの理想とする魔法のあり方であり、生き方だったのだ、ということがこの科白からは感じられる。だがしかしそれは作品全体に反映しているようにはまるで見えない……。それを別のファンタジーの形で、新しいファンタジーの形で示すこことはできなかったのだろうか。もうそこまでの余力は彼女には残されていなかったのだろうか。
さらに物語の別の部分にも踏み込んでいこう。『帰還』の主人公は二人とも、青年期はおろか、壮年期も過ぎた、初老の人間である。だが、彼らの寄る辺なさ加減というのは、ル=グインお得意のユング心理学の用語を使って言えば、中年の危機なのだ。危機を乗り越えるためには、ユング心理学にのっとるならば、錬金術的個性化の過程が描かれねばならないわけだが、そしてそれはファンタジーの題材としては非常に魅力的なものではないかと私には思われるのだが、どうやらル=グインはそちらの方へは行かなかったようだ。日常意識へ日常意識へとル=グインは主人公たちを引きずっていこうとする。
波瀾に満ちた冒険の時を過ぎれば、別世界の住民たちにも待ち受けるのは、つまらない日常ではあろう。恋愛も結婚に収斂してしまえば、平々凡々たる日常の平和にすり替わってしまうのと同じように。だが、物語の中のつまらない日常が、現実と同じである必要はない。冒険の終わったあとに、ただの日常があるのは分かり切っている。だが、その日常にことさら偉大な冒険者である賢者を引きずり降ろし、さあ、具体的な生活を味わってみろ、と言ってしまうとは、物語作者の立場を放棄するものなのではあるまいか。
テナーはゲドとセックスをし、彼がそれまで味わったことのない神秘を教えた、と書かれているのだが、〈愛のあるセックス〉程度で、魔法を越えられるという発想は、到底堪え難いほどに卑近である。
そしてさらにテナーはゲドが女を愛することを、そして生活を知らないとのたもう。『さいはての島へ』でゲドは言う。「もう、力とはおさらばする時だ。おもちゃは捨てて、先へ行かなければ。……あそこへ行けば、わしもついには学ぶだろう。行為も術も力もわしに教えてくれないものを。わしがまったく知らずにきたものを。」と。この言葉を受けて、『帰還』でのゲドの物語は展開しているのだ。だが、まったく知らずにきたものが、女の愛、そして生活そのものだというのはあんまりである。
「力も術も」なのではない、ゲドは「行為も」と言っているではないか。ゲドは『帰還』で、テナーを守るために熊手を使い、テナーと肉体的にも愛し合う。これは「行為」ではないのか。「行為も」ということで、そうしたことすべてを超越した世界をゲドは示唆していたのではないか。『帰還』が二人に与えた結末はあまりにも世俗的であって、ファンタジーとは何ら関わりの無いものとしかいいようがない。
愛に関して言えば、『こわれた腕環』で、ゲドはテナーに名前を告げている。つまり、ゲドはテナーを愛していることを宣言しているのだ。恋だったのか、もっと別の同志愛のようなものだったのかは分からない。だが、ゲドはテナーを愛していることをこういうふうに口に出して言っている。「おたがい、ひとりでは弱いけれど、信頼があれば、わたしたちは大丈夫だ」「ひとりでは、誰も自由になれないんだ」……。このような愛が、セックスのある愛と比べられるだろうか?
ル=グインはかつてキャサリン・カーツの『グウィネド王国年代記』というファンタジーを俎上に上げ、その文体における問題を指摘してこのように語ったことがある。
「つまり、これはジャーナリスティックな文章なのです。ジャーナリズムにおいては、作者の個性と感性は意図的におさえつけられます。目的は客観的印象を与えること。(中略)当面の日常的な事柄を表現するための言葉が、根源的な遥かなる存在の表現に適用される。惨憺たる結果になるのはいとも当然です」
「一般的な通念では、物語のなかに竜やヒポグリフが登場すれば、ケルトか中近東の中世のおもむきのある舞台設定であれば、また、魔法が通用していれば、それだけで、その作品はファンタジーとみなされてしまいます。これは誤解です。」
「それにしても、なぜファンタジーでは文体がかくも根源的な重要性をもっているのか。(中略)それは、ファンタジーにおいては、世界に対する作家のヴィジョン以外にはなにものも存在しないからです。歴史から借用した現実も、時事問題も、ペイトン・プレイスに住む単純素朴な一般市民もファンタジーには存在しません。想像力の代わりとなるような、レディ・メイドの感情反応を提供してくれるような、創造行為の欠陥や失敗を覆いかくしてくれるような、そんな居心地のよい日常性のマトリックスはどこにもありません。」 「エルフランドはポキープシではありません。この地にトランジスタニフジオの音声が鳴り響くことはありません。」(『エルフランドからポギープシヘ』七三年・山田和子訳『夜の言葉』岩波同時代ライブラリー所収)
《ゲド戦記》三部作を書き上げて間がない頃の、ル=グインのファンタジー観を、それもハイ・ファンタジーに対する思いを表明したテンションの高いエッセイ(講演記録か何かか)である。今現在ル=グインがファンタジーについてどのような考え方をしているか私は知らないが、私は初読当時(八五)と同様に今もなお、ル=グインのこうした意見に共感するところがある。ドラゴンが、魔法が出てくれば、それだけでファンタジーだと思ったら大間違いなのである。
ファンタジーは、言葉だけで確かな手触りのある別世界を作り上げなければならない。だからこそ、この世と同じ因果律で動いていてはまずいのである。もちろん、私も外面だけで作品を分類しているという現実はある。そうでもなければこの大量の本を処理することができず、批評行為自体が成立しなくなってしまうからだが、ファンタジーと言われている作品群を評するときに、常に、真正のファンタジーと言えるかそうでないかを考慮して評価を下していると言えるだろう。そして私にとって『帰還』が真正のファンタジーでないと思えるのは、ル=グイン自身が批判したこの点、まさにこの文体によって、それがただのフェミニズム小説に堕してしまったからなのだ。
これがファンタジーの中のせりふだろうか。「エルフランドにはラジオの音など響かない」と言い放ったル=グインは宗旨替えしたようである。「エルフランドにも卑小な日常があり、性差別はあり、苦悩する女がいます。エルフランドはポキープシと変わりがないのです!」と。「テーブルのかたづけぐらい、あんたにもできるでしょ。皿を流しに運んで、水につけといて。ゆうべのといっしょに洗うから。」
ヒバナは一瞬びっくりしたような顔をしたが、すぐに、「それは女の仕事だろ。」と帽子をかぶりながら、言った。
「いいえ、この台所で食べる人間だれもの仕事よ。」
「おれのじゃないね。」ヒバナは頑固に言い放って出ていった。
(中略) 「今となっては、もう、だめね。」台所にひき返してきて、テナーは言った。「失敗よ、失敗したのよ。」テナーは眉間や口もとに頑固なしわをよせている自分に気づいた。「石にいくら水をかけたって、芽なんか出てきやしないものね。」
ファンタジーは別世界を描く。だからそこが男根主義的な世界であってもいいとは私も思いはしない。むしろ、ここでなら女がその女性性のままに尊重され、女と男とが対等である世界を描けるのではないか。男が支配する世界ではない世界を。
たぶん私たちの想像力はそうしたものをなかなかに描けないのだろうと思う。あまりにも男社会に慣れすぎてしまっているので、本当に対等な社会など、想像できなくなっている。その一つの回答を私は小野不由美の《十二国記》に見ているのだが、それはまたそれとしてここでは多くを語るまい。
ファンタジーは、フェミニズムに奉仕するのもよいだろう。だが、いくらフェミニズムのためとはいえ、ファンタジーであることを投げ捨ててしまっては、もはやファンタジーではない。ドラゴンが出てきても、竜の子供が、未来を示唆しようとも。《ゲド戦記》。この作品の普遍的な魅力が、『帰還』によって否定されるのを見るのは、私にはつらすぎた。ファンタジーは、魂の独立王国でありたい、私はそう願っているからである。
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