女が一番望むことは……――『五月の鷹』
お伽話の世界では、女と男の役割はステレオ・タイプで描かれる。グリム童話の書き換えについては最初の章でも述べたが、お伽話的発想による刷り込みには根強いものがある。女たちは夢見る幸せな結婚を。というわけである。だが、お伽話の中には、賢女が出てくるものも多い。それはたいてい異形のものである、というところが非常に象徴的だ。アン・ローレンス『五月の鷹』(八〇・斎藤倫子訳・福武書店)というジュヴナイル・ファンタジーを見てみよう。
アーサー王の騎士の一人、ガウェインは霧に巻かれてとある館に一夜の宿を乞う。ところが館の主グリムの娘がガウェインに抱いてほしいと迫るのである。高潔な上にも高潔な、騎士道の上から理想的な人物であるガウェインは、穏やかに彼女を拒む。ところが、後日彼はグリムから娘を傷物にしたと訴えられるのである。彼は身の潔白を証明するために、《すべての女が最も望んでいることとは何か?》という問いの答えを一年以内に見つけなければならなくなる。王妃グウィネヴィアはその答えを知っているのだが、彼に教えることはできない。
こうしてガウェインはあてのない旅に出て、答えを探し求めるのだ。そして放浪の末に答えを知る老婆に出会い、彼女との結婚と引き替えに命を救われる。「おりこうさん」のガウェインは屈辱を感じさせるような老婆の態度にも耐え、壮麗な結婚式を挙げる。すると……。あとはお伽話と一緒だ。老婆は魔法にかけられていた美女だったのだ。
この作品では、アーサー王の宮廷の世界を歴史に照らし合わせて描こうとか、あるいは現実的な血肉を感じさせるような人物を配してリアリズムを目指そうとかはしていない。解説で訳者が「作者自身が楽しんで――ほとんど遊び心といってもいい感覚で、書いたもののように思われてなりません」と述べるように、全体に軽いタッチで書かれている。フェミニスティックなものを盛り込んだ寓話にしようとローレンスがことさら身構えているという雰囲気もない。登場する女たちの意識も、また男たちの意識もかなり現代的であるし、時代に即した抑圧の様子を描こうとなどは一切していない。作品全体のトーンは比較的自由なものだ。最初に私が触れた女の立場がどうのこうのといった面はかるくいなされている。全く無視されているわけではもちろんない。ただ、深刻に扱われてはいないのだ。
例えばガウェインの裁判の場面において、女たちがささやく。「女の申し立てる苦情は決して正当に裁かれることがないのよ」と。あるいは莫大な財産を継ぐ予定の伯爵令嬢はは言う。「女だということは、頭が痛くなるほど退屈なことよ!……だれかの持ちものになって一生をおくるのが楽しいですって? 贈り物の包みかなんかのように、『たしなみのよさ』とか『評判』というばかげた小さなリボンで結ばれて、家族から家族へ手渡されることが?」と。そして女が欲しいものは『自由』だと言う。それは女が持ったことのないものだから。彼女は自分の財産も結婚すれば夫のものに、結婚しなければ、従兄弟だのなんだのの血縁の男たちに取られてしまうことを知っている。そういう意味で自由でありたければ、修道院へでも行くしかない。
修道院にはガウェインの妹フローレイがいて、彼女には医者になりたいと考える程度の自由がある。彼女はモーガンに代表されるコーンウォールの魔女たちの力を受け継ぐ最後の女性の一人で、魔女のうちの賢女の面を見せている。モーガンの権力志向を嫌い、人の手助けになりたいと本草学に親しんでいるのである。しかし修道女になるということは女の性的な側面のほとんどを捨ててしまうということだ。ごくごく限定された中での自由でしかない。だが、この時代には貴族階級の女の選択肢はそんなものだったということをさりげなくローレンスは語る。
そのほかにも、「女と犬とクルミの木、打てば打つほどなおよろしい」ということわざがあることや、父としてのグリムの横暴さなどに、当時の女性の扱われ方がさりげなく示されている。(ところで、このことわざは、今でも使われているのだろうか。日本にも、女性差別的なことわざはたくさんあるが、ことわざの使用そのものの衰退に伴って、現代ではあまり使われなくなっているのだが……。)
さて、《すべての女が最も望んでいることとは何か?》の答えが読者には分かったろうか。原典では「男の手綱を取ること=男の支配」なのだが、もちろん、そんな答えであるわけがない。私は「自由」だろうか、しかしそれではあんまりだ、などと考え続けた。老婆の教える答えを耳にし、ガウェインは「それは、だれもが望んでいることではありませんか?」と言う。つまり「女が」という限定が引っかけだったのだ。女と男、人間としての違いはない、人間なら誰でも望むこと、それが答えだったのである。ここでは答えは明かすまい。フェミニズムを論じる上では、つまり女も男も人間として生きていく上で最も望むことが答えだったのだ、という逆転の視点さえあればよいのだから。
この作品は今まで述べてきたように、さりげなく女たちの立場や欝屈が語られる。また触れなかったけれども、女であり、主婦であることに充足して生きている庶民の女性も登場する。女たちはそれぞれにさまざまな答えを出す。女が望むこと、つまり女の幸せとは……。物語を読んでいくうちに、すっかり作者の術中に陥り、女が女が、とばかり考えていた。けれども、女であることも、人間にとっての属性の一つにすぎないのだ。女が女がと女自身者えすぎること、それが生き方の限定にもつながることを、答えの逆転性によってローレンスは鮮やかに示したのである。
ただ一つ気に入らないのは、老婆の描き方である。魔法をかけられた老婆、実は美女はどうしてわざと下品にいやらしく振る舞うのだろう。魔法が解かれる条件の一つに、「醜い姿にもかかわらず喜んで結婚をしてくれること」があるのなら、なぜ賢女としての姿を見せて、少なくとも、尊敬を得ようとしないのだろう。ガウェインは花嫁があまりにも下品なのでうんざりしている。命を救ってもらって感謝はしているだろうが、「おりこうさん」で礼儀正しい彼は義務感から堪え忍んでいるだけで、けっして喜んではいない。口では喜んで結婚したのだと言っているけれども。たとえ彼女が醜く年寄りでも、賢女であって威厳があれば、ガウェインが喜んで結婚したのだと口にしても、読者は納得するだろう。この結末では、魔法が解かれるのはおかしい、という感じを読者に抱かせはしまいか。
ボーモン夫人のお伽話では、時には醜女は醜女のままである。だが、知恵があることは美しさに上回るので、そのうちに醜さなど気にならなくなってしまう、との教訓がついている。『美女と野獣』でも呪いは解かれるが、野獣のままの醜い姿のものをベルは愛し、それゆえに魔法が解かれるのである。いやな相手でも結婚さえすれば魔法が解けるというのは、女はどんなに不公平に見える結婚でも我慢しなければならない、というような封建的な結婚観の産物ではないのか。
ガウェインは、結婚は家同志の問題であって、結婚相手が一度も会ったことのない女性でも、結婚した後で愛するようになればいい、というような貴族らしいクールな考えを持っているが、自分が理想とする美女に変わった妻を見ると、とたんに恋に落ちてしまうのだ。これはどう見ても、不公平である。老婆の知恵は、若い女の美しさの前では、全く意味をなしていない。ガウェインがいくら誠実を装っても、空しい。せめて老婆に尊敬心を抱き、そして彼女が知恵あるままに美しくなったことを知ってから、彼女の美しさに感動するのであったら、どんなによかったかと思う。
ガウェインは誠実で高潔な騎士で、女性にも優しい。すばらしい女性を、知恵も若さも美しさもある女性を妻とすることは誰にも、すべての読者に祝福されるだろう。だが、あの下品に振る舞った老婆はどうなるのだろう。美しければ、下品ではなくなるのだろうか。そうガウェインに、そして読者にも思わせるものは何か。もちろんそれこそが私たちの中に培われている文化的な差別意識にほかならない。
いったいなぜ年寄りで醜いということ以上のところを見せてガウェインを苦しめるのか、それが魔法の解かれる条件であるということはどこにも記されていないから、ラグニルドの意志なのであろう。そうすると、彼女の性格は、はっきり言って悪いのではないだろうか。それともそれも魔法の一貫なのか。いや、そんなことは一言も書かれていない。彼女は自分の意志で行動しいるのである。要するに、ローレンスはここだけは深く考えずに、お伽話の紋切り型に従ってしまったのだろう。せっかくの楽しい話が、老婆の、そしてラグニルドの性格の悪さのせいで、後味の悪いものになったように思えてならない。そしてそれは女に対するステレオ・タイプの見方でもあるように思われてならないのである。
★アン・ローレンスにはこのほか、やはりフェミニスティックな短篇集『幽霊の恋人たち』(偕成社)がある。
★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★