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水の道標

書物の王国15『奇跡』解説

 奇跡とは、暗闇の中に射し込む一条の光である。
 ユダヤの創造神話によれば、神が初めに作り出した世界は渾沌として、闇に覆われた深淵というありさまであった。そこで神は「光よあれ」と言い、闇の中に光を生みだした。神は光を見て、これを善しとされた。光と闇は昼と夜とに分けられ、ここに創造の一日目が始まったのである。
 世界の創造そのものというよりも、闇の中に光が現われたことこそ、この世のすべてを決定づけた奇跡なのだ。
 闇もまた我々の生の一部をなすが、それがあまりにも濃く、長く続けば、人は人であることができなくなるだろう。そのような闇に閉ざされた人を救うためにこそ奇跡は訪れる。あるいは恩寵によって闇から抜け出ること、そのことをしも奇跡という。
 さて、本書の編集に当たっては、宗教的な意味を含む奇跡からはずれないことを心がけ、「奇跡的な」という形容詞から考えられるような物語や、奇跡を感じ取ることのできないようなただの神秘的な作品はでき得る限り避けた。また、聖書や仏典など宗教の聖典となっているものや、実録・ドキュメンタリーの類は採らないという方針を貫き、伝説と物語に選択を絞り込んだ。
 苦しみのうちに希望を、悲しみの中に慰めを与えられるような物語――それが私の最も意図したところである。
 配列は『今昔物語集』を範とし、聖人伝を手始めに、少しずつ関連のある物語を二話一類風に(完全にはうまくいかなかったのだが)つなげていくという形にしている。そして冒頭と末尾に、神の奇跡としての世界を称える詩を置いてみた。
 それでは、収録作品に沿って若干の解説を加えておこう。

 奇跡という言葉が最も重く扱われるのは、数ある宗教の中でもキリスト教であると言われている。『新約聖書』の福音書にはイエス・キリストの起こしたさまざまな奇跡が綴られているわけだが、その中でも、死からの復活という最高の奇跡が、キリスト教そのものを支える信仰の核心にほかならないからである。それゆえ奇跡はキリスト教ではたいへんに重要視され、奇跡を現前させることができれば、キリスト教では聖人と見なされる。ただし悪魔も奇跡的に見えるわざを行うとされるので、その判定基準はきわめて厳しく微妙なのだが。ともあれ、キリスト教で聖人と認められた人々の事績を集大成した伝説集『黄金伝説』にはさまざまな奇跡が鏤められていると言ってよい。本書では、東洋起源と目されている短めの話を、その元となったとおぼしい伝説と併せて採録したが、むしろこのようなものは傍流に属する。歴史に名を残した聖人の現実的な事績と奇跡的な伝承とが絡みあい、いわば伝説的な伝記となっているものの方が一般的だ。『黄金伝説』は全四冊での完訳本が出ているので、興味のある方は通読することもできよう。
 ヨーロッパでは、この『黄金伝説』をはじめとする聖人伝をもとに物語を書くということが、中世から現代に至るまで行われている。中世でよく知られているのはチョーサーの『カンタベリ物語』中の「尼の話」などだが、近代で最も有名なのは、シュペルヴィエルと同じ聖アントワーヌを扱ったフロベールの長篇『聖アントワーヌの誘惑』であろう。もっともこのアントワーヌは悪魔に手もなくやられてしまうので、奇跡譚とは言い難い。フロベールなら『三つの物語』の中の「聖ジュリアン伝」の方が、聖者を扱った奇跡譚らしいと言える。
 小鳥に説教したという伝説を持つアッシジの聖フランチェスコは圧倒的に人気のある聖者で、その名前は文学・映画の中にもよく見られる。ジュリアン・グリーンが重厚な伝記(あまり奇跡的ではない)を書いているほか、チェスタトンにも評伝がある(カトリックへの改宗者であるチェスタトンは、ほかにも『聖トマス・アクィナス』などを書いている)。しかしフランチェスコを聖人らしい聖人として扱って最も魅力的なのはクリスティアン・ボバンの『いと低きもの』だろう。
 また、トーマス・マンが、鎖で自らを縛め、岩の上に留まり続けた聖グレゴリウスの伝承をもとに長篇『選ばれし人』を書いている。この作品には字義通りの奇跡が現前するのだが、シニカルで諧謔的な描写が頻出、敬虔な感じはあまり与えない。にもかかわらず聖者伝としての超越的な雰囲気はなおも保たれていて、魅力的な作品である。ヘルマン・ヘッセにも『中世説話集』という聖人伝・奇跡譚をもとにした宗教説話集がある。
 また聖女を描いたものとしてはユイスマンス『腐爛の華』、マーク・トウェインの『ジャンヌ・ダルク』などを挙げることができる。
 日本でも『黄金伝説』をもとにした小説が書かれていて、有名なところで、聖クリストフォルスの奇跡をもとにした芥川龍之介の「きりしとほろ上人伝」がある。また山村暮鳥は、『旧約聖書』の「出エジプト記」に描かれる奇跡を借用し、架空の聖人を主人公とした長篇童話『鉄の靴』を残している。
 トルストイ「三人の隠者」やヴァッケンローダー「裸の聖者」は創作された聖人の物語で、それに類するものとしては、ヴァーノン・リー「聖エウダエモンとオレンジの樹」という美しい作品がある。本書に採録したいとも思ったが、筑摩書房『小さな吹雪の国の冒険』の一篇として邦訳が出たばかりなので転載するに忍びず、編訳者の西崎憲氏に相談したところ、同じヴァーノン・リーの「七短剣の聖女」を訳していただけることになった。『アラビアン・ナイト』を思わせるような豪奢な建築幻想を含み、ゲーテの『ファウスト』的な奇跡を語るかのごとき逸品を、綺羅を尽くした翻訳で掲載できることを編者としてはもちろんのこと、一読者としても嬉しく思う。
 アジアにも聖者伝は数多くある。イスラームでは、例えばアッタール『イスラーム神秘主義聖者列伝』(抄訳)が《スーフィーの黄金伝説》ともいうべきもので、実に興味深い一冊だ。しかし、イスラームでは奇跡はキリスト教のように中核的な存在ではない。中でも女聖者ラビアの奇跡に対する徹底して懐疑的な態度にはまったく驚かされた。奇跡など何ほどのことか、というようなアンチ奇跡譚とでも言えばいいのだろうか。本書では、このラビアの事績をイギリスの研究者が語った『神秘家ラビアの生涯』から奇跡を扱った一章と、イスラーム独特の雰囲気を持つ聖人伝のいくつかを、イスラームの神秘主義に造詣の深いミステリ作家の小森健太朗氏に訳していただいた。
 インドにももちろん聖者伝があり、「ウサギ本生譚」を含む『ジャータカ』はさまざまな生における菩薩伝であるし、仏と仏弟子の事績は経典の中であまた語られている。たぶんヒンドゥーの行者の奇跡譚集などもあるのだろうが、私はまとまったものを読んだことはない。もちろん種々の『ヴェーダ』や『マハーバーラタ』の中に現れる奇跡的な物語は容易に読むことができる。中国では神仙伝・高僧伝の類が聖人伝にあたろう。
 本邦の聖者伝は中国の往生伝『瑞応伝』などの影響のもと、慶滋保胤の『日本往生極楽記』を筆頭に、多く往生伝という形で書かれた。あるいは『大日本国法華経験記』のような人物別に分類された仏教説話集や、寺社ゆかりの聖人の物語が語られる縁起絵巻の形でも書かれている。それらの話は、やがて『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった説話集にも採られ、時には御伽草子のような物語にもその話柄が取り入れられていくことにもなる。江戸時代に入っても、往生伝は一種の流行のように書き継がれた。本書では『大日本極楽往生記』から浄土観のおもしろく感じられる「智光曼陀羅」と日本の聖人の中でも私が最もシンパシイを感じる中将姫の伝説、江戸時代の往生伝から幾篇かを須永朝彦氏に選訳していただいた。なお本シリーズ『美食』には、どことなく聖フランチェスコを思わせる「清徳聖の奇特」が『宇治拾遺物語』より採られている。日本の聖人伝として秀抜なこの作品も本集と併せて読んでいただければと思う。
 ところで往生伝を含めた日本の仏教説話を読むと、日本の聖人の第一位を占めているのは聖徳太子であることが分かる。太子が仏教の強力な推進者であったことからそう位置づけられるのであろう。往生伝等の太子伝はおおむねおもしろみに欠けるが、中勘助の「いかるの話」は聖徳太子の妃(往生伝では太子に殉教したとされる)にもスポットを当てていて、楽しく読める一話であろうと思う。本篇を収録する短篇集『鳥の物語』には、ほかにもユーモラスな中将姫などの奇跡譚が含まれている。どれを取っても魅力的なファンタジー短篇集なので、できれば全篇を読んで欲しい。
 マッケン「兵隊の宿」「聖体顕示台」は第一次大戦の戦場で起きた奇跡を綴った短篇集『弓兵・戦争伝説』から採った。聖ジョージ率いる射手が疲弊したイギリス軍の前に現われて兵士らを救う「弓兵」は、実話であってマッケンの創作ではないと断定されてしまい、マッケンが怒ったというエピソードで有名。マッケンはほかにも「大いなる来復」のような聖杯をめぐる奇跡譚を書いている。ついでながら、聖杯をめぐる奇跡の物語はクレチアン・ド・トロワの『ペルスヴァル』を嚆矢として中世から書き継がれ、決定版とも言うべき『聖杯の探索』や、ジョゼファン・ペラダンの短篇「パルジファルの復活祭」などの傑作が残されている。
 マクラウドやマッケンに見る通り、奇跡と死とのあいだには深い関係がある。その関係のありようはさまざまだが、「小さなせむしの少女」や「小さな皿洗い」のように不幸な者たちが現実を逃れ天国へと迎えられるという構図の物語は、奇跡ものの中ではいちばんありふれた単純なものと言えるだろう。ここに採った作品群のほかにも、ハウプトマンの戯曲「ハンネレの昇天」、ドストエフスキーの短篇「キリストのヨルカに召された少年」などがある。アンデルセンも「人魚姫」をはじめとしてその類の話を多く書いた人だ。なお「小さなせむしの少女」を収録するレアンダーの童話集『ふしぎなオルガン』には、表題作や「錆びた騎士」など奇跡譚が多く含まれている。「錆びた騎士」はオスカー・ワイルドの「星の子」を思い出させるような作品で、子供の時にはとにかく感動させられたものだ。
 ケラー「聖母と修道尼」は聖母が顕現する奇跡譚七篇を収録した短篇集『七つの伝説』から選んでいる。ケラーは十九世紀のフェミニストと言ってもいいのではないだろうか。『七つの伝説』はいずれも女性性や女の生のあり方そのものを諾い、愛や生を奇跡の域にまで高めている。聖母譚はとにかく数が多く、あまりにも有名なアナトール・フランスの「聖母の曲芸師」をはじめとして、ここには採らなかった作品がいろいろとある。口承文芸の方にまで枠を広げていくと、キリストの奇跡譚より数多くなるのではないかと思われるほどだ。聖母が常に包容力を示し、異端と見られるもの排斥せずに慈しむのは、彼女が実は大地母神であるからなのだろう。
 孝行息子に観音が褒美を与える「蛤の草子」は、日本の聖母譚と見ることもできる。御伽草子には天界の女神が地上に顕現するという物語が数多く見られ、「毘沙門の本地」「梵天国」などをその代表とする。本地ものには苦難に遭った女が神となって顕れるという話も数多く見られ、女性と宗教と奇跡の関係の探求へと心がそそられる。
 聖母は日本の切支丹の伝承にも多く登場するが、「聖母のかご」は『キリシタン伝説百話』の中でも、小品ながら最も美しい一篇だと思う。奇跡譚がめじろ押しの同書を読むと、同じ奇跡的な業が、場合によっては神の威力として崇められ、時によっては伴天連の邪法として忌避されたり恐怖されたりするということがよくわかる。本質は変わらないのだが、それを見る者が奇跡か、悪魔の業かを決するのである。
 聖人とはほど遠い、罪深い人間やごく一般的な市井の人々に奇跡が顕現する物語も数多くある。キリスト教とはあまり縁のない日本の物語には、そうしたタイプの物語がことのほか多く、秀逸な作品がいろいろとある。古典では、音楽の奇瑞に仏の奇跡が加わる『宇津保物語』の「俊蔭」、畸形が実は神の化身であるという「子易物語」など、いずれも既に須永朝彦氏によって訳されており、『伝綺』で読むことができる。また『説経節』などの教導文学は基本的に本来的な奇跡を扱う物語であり、「をぐり」を初めとして見るべき作品が多い。
 日本では、近現代ともなると、宗教的な奇跡を正面切って書く文学者はあまり見かけられなくなっていく。鴎外の「山椒太夫」や芥川の「蜘蛛の糸」などを見てもわかるように、児童文学という別の枠で主に扱われるようになってしまうのである。これは、明治時代以降のヨーロッパ文学の移入と、近代日本の意識の生成に関して大きな示唆を投げかけるもののように思われるが、詳しく論じられるほどの能力が私にはない。ともあれ、浜田広介、花岡大学など、宗教的な奇跡譚は、書かれるとすれば童話の形で表現されることが主流となっていくのである。
 さて、カリール・ジブラン「神の道化師」以下には、神秘的な傾向が強い、寓話風の作品を並べた。ジブランはイスラム神秘主義系の詩人で、寓話的な散文詩集『預言者』の翻訳もある。三田誠広「鹿の園」は《菩薩本生譚》という副題がつけられた連作短篇集『鹿の王』から選んだ。全体で一つの物語ともなっている作品なので、全篇を通読するのとこの一篇だけを読むのとでは味わいが異なる。本篇をきっかけに原典を全部読んでもらえるようなら、とても嬉しい。
 サン=マルタンはフランスの哲学的神秘主義者。グノーシス的な傾向を持つ教団エリュ・コーエンの教祖マルチネス・ド・パスカリと錬金術的神秘主義を開拓したヤコブ・ベーメとに影響されたと言われている。採録した「主の奇蹟」は散文詩集風の作品『渇望する人』の冒頭の一章である。奇跡をめぐる神学的なエッセイはいろいろとあるが、こうしたものは宗教そのものに興味のない人間にはことのほかつまらなく感じられるものだと思うので、詩(のようなもの)を選んだ次第。
 チャペック「足跡」は奇跡の本質をめぐる寓話として末尾に置いた。この作品に匹敵しうる奇跡をめぐる物語は、ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』ぐらいではないかと私は思う。

 奇跡はない。神は死んだ。
 今世紀はそれらの言葉が、ホロコーストという窺い知れぬ深淵を通して激越に印象づけられた世紀であった。ブレヒト(ジャンヌ・ダルクをパロったアンチ奇跡ものの戯曲も書いている)をもじって言えば、「奇跡の物語などに心を奪われているのは感受性欠乏の徴」なのかもしれない。それでもなお、私は、これらの物語を愛さずにはいられない。いまだ深淵の底を見通すこともできない人間の、感傷なのではあろうが、奇跡の物語に一抹の希望を感じずにはいられないのである。


【補遺】
神秘文学ガイド中にうまく入れられなかった、奇跡をテーマにした作品を二つ挙げる。いずれも現代的な奇跡を感動的に描いたもので、「悲しみの中に慰めを」というこのアンソロジーのテーマに合致する傑作である。
 ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』(由良君美・富山太佳夫訳・思索社)
 日本人の軍曹ハラと、捕虜だった将校ロレンスの魂の触れ合いを描く「影さす牢格子」、ジャック・セリエの死を描く「種子と蒔く者」、マレーでのロレンスのつかの間の恋を描く「剣と人形」の第三部から成る作品。三話それぞれに奇跡的なものを感じさせるが、殊にセリエの物語が素晴らしい。美しく優秀なセリエが、せむしで鈍重だが、大地と言葉を交す能力がある弟と和解する物語。弟が兄のために歌う声が、素晴らしい魔法の音楽となって瀕死のセリエに届くシーンは、忘れがたい美しさである。
 ワシントン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』(中野圭二訳・新潮社)
 主人公のオウエン・ミーニーは、小人で、生涯変わらぬ高い声を持っている。手先が器用で、天才的な頭脳に恵まれたオウエンは、自分を神の道具であると信じ、自らの使命を果たすためにすべてをかける。ついには犠牲となって死んでいくオウエンを、今は英文学の教師をしている幼なじみのジョンが、時間を行きつ戻りつしながら回想していく。訳者は、大仰に言えば救い主オウエンの行状を語るヨハネの福音書だと述べているが、そのように読むとき、この長篇はひとつの美しい宗教的奇跡の物語となるだろう。

【奇跡収録作案】現実には*のものが省かれた。
1 タゴール『渡り飛ぶ白鳥』33
38 サン=マルタン『渇望する人』より
11 ヴァッケンローダー「裸の聖者」
24 ゴットフリート・ケラー「聖母と修道尼」
* クライスト「聖ツェツィーリエ」
22 リヒャルト・レアンダー「小さなせむしの少女」
* リヒャルト・レアンダー「錆びた騎士」
* ヘルマン・ヘッセ「騎士と聖母」
34 ヘルマン・ヘッセ「ファルドゥム」
* アナトオル・フランス「聖母の曲芸師」
32 アンリ・ド・レニエ「エルマゴールの物語」
2 ジュール・シュペルヴィエル「沙漠のアントワーヌ」
25 マルグリット・ユルスナール「燕の聖母」
21 ベアトリ・ベック「小さな皿洗い」
5 アレクサンダー・ネフスキイ伝
3 レフ・トルストイ「三人の隠者」
17.18 アーサー・マッケン「兵隊の宿」「聖体顕示台」
13 オスカー・ワイルド「わがままな大男」
15 ヴァーノン・リー「七短剣の聖女」
16 フィオナ・マクラウド「漁師」
* ウォルター・デ・ラ・メア「桶」
20 メアリー・ウィルキンズ=フリーマン「遠く遙かな調べ」
27 マーガレット・セント=クレア「街角の女神」
36 カレル・チャペック「足跡」
* ガルシア・マルケス「聖女」
* 「清徳聖、奇特事」
* 「産み生せる肉団の作れる女子、善を修し人を化する縁」
* 陸奥国神、報守平維叙恩語
19 『日本往生極楽記』11
* 「朱雀大路の野干」
* 『拾遺往生伝』下27
10 「当麻曼荼羅寺縁起」
23 谷信介「聖母のかご」
29 室生犀星「尼」
* 小川未明「町の天使」
33 浜田広介「五匹のヤモリ」
* 幸田露伴「伊舎那の園」
28 芥川竜之介「南京の基督」
14 中勘助「いかるの話」
35 三田誠広「鹿の園」
6 「清辯の旧跡」
31 宮沢賢治「マグノリアの木」
12 「ウサギ本生物語」
* 釈慧▼『高僧伝』より「杯度」
4 イスラムの聖者伝(ラビア)
7 ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』より「眠れる七聖人」
8 神谷養勇軒『新著聞集・往生篇』
9 イードリス・シャー『イスラムの奇跡譚集』
26 「蛤の草子」
30 カリール・ジブラン「神の道化師」

(1999年11月執筆)

★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★