【ブックガイド】 神秘文学への誘い2
●世界の秘密●《イメージの博物誌》(平凡社、原典はThames & Hudson 社のArt and Imagination)は、世界における秘教的、神秘的、神話的なものをさまざまに集めたシリーズで、神秘思想とも深い関わりがある。『占星術』『神性舞踏』『夢』『魔術』『霊・魂・身体』『錬金術』『螺旋の神秘』『タントラ』『タオ』『魂の航海術』『ユダヤの秘儀』『時間』『龍とドラゴン』『時間』『地霊』『生命の樹』『スーフィー』『マーシャル・アーツ』『エジプトの神秘』『天地創造』『神聖幾何学』『アーサー王伝説』『眼の世界劇場』『シャーマン』『ミステリアス・ケルト』『ネコの宗教』『聖なるチベット』……といったラインナップのほとんどは、自然の神秘を理解することやこの世の秘密を解くことに関わる内容を持っている。
思うに、神秘的なものは、世界を解釈することと不可分なのである。即物的な解釈すら、神秘的だと見做される場合があるので、どのような理解が神秘的だと一律には言うことができないが、この世を人間的現実を超えた超越的なものとして解釈することが、神秘につながっている。そして神秘的な世界観がなければ、神秘文学も成り立たない。
そのような神秘的な世界観をあからさまに描いてしまう作品がある。まず、詩の中からいくつか紹介しよう。
まずはヴィクトル・ユーゴー「闇の口の語ったこと」(『静観詩集』『ヴィクトル・ユゴー文学館1詩集』辻昶・稲垣直樹訳)を挙げよう。降霊術に凝ったユゴーがその成果(?)を詩にしたもので、万物は魂に満ちている、目に見えぬ存在となって輝く世界に入っていく……というような、垂直的世界観を見せている。また、悪とはすなわち物質である、というグノーシス主義的な考え方も見える。ロマン主義の時代に位置するフランスの文豪は、ナポレオン三世の支配に伴う政治的不遇の中で、自らを支えるために神秘的世界観にのめりこんだのかもしれない。この時代にはまだ、こうした直接的表現は、インパクトを持ちえたものと思われる。
ウィリアム・ブレイクは幻視的な詩人であるとされるが、彼の詩にも直接的な思想の表明がしばしば見受けられる。中でも、「天国と地獄の結婚」はオカルト詩と言ってもよいもののように思われる。「六千年の後に世界が火で焼かれるという……」では、ケルビムが解き放たれて「万物が焼き浄められて、無限に、神聖になる」「知覚の扉が拭い浄められたならば万物はありのままに、無限に見える」(土居光知訳『ブレイク詩集』による)といったフレーズが見え、自ら幻視したものを表現したというよりは、思想を感じさせるものになっている。
ブレイクの詩は象徴性も高いので、その解読いかんによっては、かなり興ざめな感じがすることは否めない。例えば鈴木雅之によるブレイク研究『幻想の詩学』(あぽろん社)における、隠喩的な言葉の解析などはその一例だろう。この、同時代の思想界の状況に目配りした、ある意味では興味深い解析を読めば、ブレイクの詩は思想詩以外のものには見えなくなる。隠喩解読の当否はさておいて、ブレイクの詩が知的に組み立てられているのは確かだ。しかし、なお言葉としてのインパクトを強く持っているように私には思われる。
時代は一気に下ってしまうが、ジェイムズ・メリル『イーフレイムの書』(志村正雄訳・書肆山田)は、現代のアメリカ合衆国の詩人が、オカルト的な世界観をあからさまに表現したものの代表と言えるだろう。ウィジャ・ボードによる霊との交流を、そのまま詩の形にしたところは、百五十年の隔たりがあるが、ユゴーにも通ずるところがある。もっともこちらは降霊会の実録に即していて、そのような交流のおもしろみも詩の中に含んでしまおうとしている。語られている内容は、天の位階とか、天界の仕組みといった、オカルト的なもので、こうした点も、ロマン主義の時代との隔たりを感じさせる。
●秘儀参入小説●
神秘的あるいはオカルト的思想があらわに語られている小説を続けて紹介する。
ここではその中でも特に、秘儀参入という形で、主人公の試練や成長を描いたものを取り上げてみたいと思う。
著者自身がオカルティズムの結社などと関わりを持ち、その教義を広めるために作品が書かれたというケースがある。時代的にはあまりにも古く、突飛な感じはするけれども、アプレーイウス『黄金のろば』(呉茂一訳・岩波文庫)は、そのような文学の一つと見做すことが出来る。
魔術の横行するテッサリアで、ルキウスは魔法の軟膏によってロバに変身してしまう。荷物運びの労役をこなしながら流浪するルキウスは、世界創造の大母神イシース女神の教えを受け、やがてイシス女神の神秘体験(言葉には到底出来ぬ美の化身たる女神の出現とありがたい救いの言葉)を経て、人間に戻り、教団の一員となる。最終的なイニシエーションとして、黄泉の国に降り、あらゆる要素を通り、神々の顔をじかに見たとなっている。この作品は数々の挿話を含み、中でも『愛と魂』(エロスとクーピドー)の物語が名高い。これもまた、神秘主義的な寓話としても読むことが出来るものだ。なお、C・S・ルイスは『愛はあまりにも若く』においてこの作品の読みかえを試みた。愛や信仰といった人間の精神における根源的なテーマを取り扱い、神秘色は薄いものの、論理的なC・S・ルイスの特質が活かされた物語であったためか、成功した作品となっている。
薔薇十字思想の基本文献の一つとされるヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ『化学の結婚』(種村季弘訳・紀伊国屋書店ほか)もまた、教義を語るための物語で、イニシエーション的ストーリーとなっている。
私は、たくさんの目のついた翼を持つ、金の星をちりばめた青い服の女性から手紙を渡される。それは待ちに待った結婚式への招待状だった。山上の結婚式場にたどりつくと、さまざまな試練が私を待っている。秤と分銅の試練に、己を低くして耐えたわたしは、そこで楽しくすばらしい時を過ごすものの、その後にもまだ厳しい試練が待ち受けていた……。
一六一六年に世に出た本書には、錬金術的な象徴をちりばめられており、同時代のヤコブ・ベーメなどにも通じる自然神秘主義的な思想を見せて。現代の目からすれば奇妙な表現も、キリスト教(神秘主義)的に解読可能、数学的な問題を挟み込むなど作者の遊び心が横溢しているのは確かだが、これもまた自然神秘主義の文脈で考えることが出来るだろう。
なお、次のようなキリスト教神秘主義に連なる詩が中にある。
美しく気高い愛にもまして、
良きものぞ地上になし、
我らこれにより神にも等しくなる
愛により他の人を悲しませるものはなし。
これは、ゲーテの「シュタイン夫人へ」の本歌である。
メイベル・コリンズ『蓮華の書』(西川隆範訳・水声社)は、神智学に基づく寓話。エジプトの神殿に見習い僧として入った私は早々に蓮華の女王様の化身を幻視する。女王は神殿の改革を私に課すのだが……。魂を「私」に擬して、魂の取るべき道を教えるが、小説としてははなはだつまらない。
オカルティスムの教義に絡んだ作品で、おもしろいものは稀だろう。二十世紀で最も名前の知られた魔術師アレイスター・クロウリーによる魔術小説「アイーダ・ペンドラコンの試練」(江口之隆訳・創元推理文庫『黒魔術の娘』)もまたその例に漏れない。男女の出会いと結社の秘儀とが重ね合わされた奇妙なストーリーで、一種の探求小説ではあるけれども、あまりにも索漠としている。
ウィリアム・べッグフォードの若書きである『十七歳の幻想』(柄本魁訳・雪華社)は、自身を主人公にしたイニシエーション小説で、小説としてはおもしろいものでも何でもないが、興味深いところが多々ある。
華やかな会合に虚無を感じて抜け出した青年ウィリアムは険しい山の峰に登り、さらに深い谷を越えて森の中の洞窟にたどり着く。そこで聖者モアサスールやその弟子の美女ヌーロニハールに出会い、婆羅門の神聖な『シャスタア』の書による秘儀を受けることになるというもの。
まず、「山の雪は天国の光に似ている」といった山岳幻想の見られるところ。マージョリー・ニコルソン『暗い山と栄光の山』によれば、トマス・バーネット『地球の聖なる理論』(1681)を境に地球の疣であった山は崇高なものへと変化を遂げるという。しかし変化は急ではない。山を愛したヘンリー・ヴォーンも山の表現については、聖書とそれに基づく神学哲学などに依拠し、それまでのものを踏襲しているという。決定的な変化は、十八世紀から始まるグランド・ツアーの流行によってもたらされる。トマス・グレイは、一七三九年にウォルポールとともにアルプスを越え、山々を崇高なものとして、歌の対象にした。その後、山の荒々しい自然を称えることは流行してクリシェと化すのだが、本書はそのはしりの一つとも言えるわけである。また、東方趣味が既に顕著であること。さらに、自然神秘主義的であると同時に、かなりの程度SF色があること。ウィリアムは超能力を手にするのだが、それは地球外の生命体からもたらされたものなのである。これもまた後世のパターンを先取りしてしまっていると言えるだろう。なお、作品自体は未完となっている。
マイナーな趣味的作家、要するに素人であったベッグフォードと同様に、ノーベル賞を受賞した世界的詩人であるウィリアム・バトラー・イェイツも神秘思想に魅入られた作家であった。一時ゴールデン・ドーンにも所属していたイェイツは、『幻想録』にそのオカルト研究の成果を残しているが、小説の形で神秘的世界観を披歴してもいる。秘儀的な世界に入り込むオカルティストを、その世界に憧れながらも入りきらない語り手の目を通して描いた連作短篇集『錬金術の薔薇』(大久保直幹・井村君江訳・国書刊行会『神秘の薔薇』)である。作品の中の神秘性は、語り手のアンビバレンツな感情を反映して、朧であるが、オカルティスムの反映は明瞭に窺える。
アルジャノン・ブラックウッド『ケンタウロス』(八十嶋薫訳・月刊ペン社)は、地球は一つの生命体であるというフェヒナーの哲学に基づく自然神秘主義的な思想をあからさまに見せる長篇小説である。やはり一つの原型となるようなパターンを持っており、このパターンはSFにはよく受け継がれている。
アイルランド青年のオマリーは万物に霊的なものを感じるタイプだった。ドイツ人医師シュタールの招きで汽船に乗り込んだ彼は、そこで奇妙な巨大さを感じさせるロシア人の親子に出会う……。ストーリーはあってなきがごとしなので、説明するのも虚しい。人間の肉体という牢獄を逃れ、原初の生命体、ケンタウロスとなって大宇宙と溶け合う世界へと誘われたオマリーの、不安と恍惚とを描くのが作品としてのテーマだろう。しかしその描写が今一つであるせいか、作品としてあまり成功しているとは言えず、どうしてもおもしろみに欠ける。繰り返すようだが、オカルティズムや神秘主義の思想を描いておもしろい小説というものは稀なのである。辟易させられるものも数多く、退屈ぐらいですめば、むしろ上出来と言えるだろう。
●オカルト・ロマンス●
秘儀参入小説とどう違うのか、と言われてしまいそうな項目分けだが、より小説的なものをここでは並べてみた。神秘的思想がメインで、小説そのものは付属的であるという本質は変わらないが、物語的な工夫は凝らされて、普通の小説として読める場合が多い。なお、オカルト的なものをガジェットとして使うのみで、その神秘的側面に本気でないものは挙げていない。
ユゴーと同世代の巨匠バルザックにはいくつかの怪奇幻想小説があるが、中でも『セラフィタ』(沢崎浩平訳・国書刊行会)はきわめて直接的なオカルト的思想、というかスウェーデンボリ思想を披歴した作品である。すなわち、光の国へ行こうとしている両性具有者セラフィタ/セラフィトゥスを描いている。セラフィトゥスに焦がれるミンナ、セラフィタに焦がれるウィルフリッドを彼/彼女が拒絶し、奇跡を見せて一段と高い世界へ去っていった、という恋愛ものらしきストーリーがあるが、結局のところ、単にオカルト思想が説明されるに過ぎない。とは言え、このように一般的な小説の形で神秘思想を述べ伝えることも出来るという先蹤ともなった。
前掲書に比べれば、やはりオカルティズムを奉じたブルワー=リットンの小説などは、はるかにロマンスらしいロマンスとなっている。『ザノーニ』(国書刊行会)では、フランス革命を背景に、清純無垢な歌姫と超人ザノーニの恋愛物語が繰り広げられる。『放浪者メルモス』におけるメルモスとイマリーのエピソードを思い出させるが、ザノーニは悪魔との契約ではなく、修行、悟りによって不老不死を得ている点が異なる。そして愛に目覚めてその道を捨てるのである。各登場人物には、寓話のように「知恵」「現世的愛」などが割り振られているが、そうした点は、気にしないで読もうと思えば読めないことはない。その後に書かれた『不思議な物語』(国書刊行会)は、当時の科学思想と薔薇十字的神秘思想とが一体となったラヴ・ロマンス。現実主義で催眠療法などは否定する医師フェニックスは催眠療法を使うライヴァル・ロイド医師の臨終を看取り、彼らの子どもたちの密かな後見人となる。その頃、精神的に巫女体質で、感じやすい女性リリアンと知りあい、恋に落ちる。しかし、快活な青年で、時として人間の感情を知らぬ気な残酷さを示すマーグレイヴと知りあいになり、彼の影響でリリアンはおかしくなってしまう……。サスペンスにもなっているラヴ・ロマンスなのだが、そこに長々しくオカルティズムの説明が入ってきたり、さまざまなほのめかしがあったりと、奇妙なアマルガム状態。私は、ブルワー=リットンを読むと、オカルト小説を読んでいるという以外の気分にはなれない。
グスタフ・マイリンクもまたオカルティストとして結社に加入して実践的な活動を行なった作家である。『緑の顔』(佐藤恵一訳・創土社)は彼の神秘思想を披歴した、典型的なオカルト小説であるが、リットン作品よりはよほど文学的で、おもしろく読める。
ハオベリッサーはシドヘール・グリューンという手品小物の店でさまよえるユダヤ人の話を漏れ聞き、緑の顔に出会う。そして友人たちを通して、実験的な神秘家の世界に参入していくのだが……。
やはり登場人物はすべて、オカルティックな配置と観念によって彩られている。ラヴ・ロマンスの形で、高次の世界が確固として存在することを描いた作品と言える。
同じマイリンクの短篇集『ナペルス枢機卿』(種村季弘訳・国書刊行会)には、魔術的な色彩の色濃い短篇が三編収録されている。フィラデルフィア兄弟会の一員だった祖父の奇妙な墓碑銘(VIVO 余ハ生キテイル)を見て、その手記を読んだ私が、祖父の友人オーベライトに生命の秘密を聞く「J・H ・オーベライト、時間-蛭を訪ねる」、血を与えることで青トリカブトを育ててその毒を食らう秘密結社「青の結社員」だった語り手をめぐる表題作、月に熱中する伯爵たちを描く「月の四兄弟」。ここで顕著なのは、分身幻想である。分身は私の血を吸い、その生命を蕩尽して肥え太っている。すべての人類がそのような目に遭っているが、気づかないのだ……という主張が見える。
このほかにもジョン・ディーをネタに使った『西の窓の天使』(国書刊行会)があるが、これはかなりくだらない。とはいえ、マイリンクは、オカルト小説の書き手の中では、優れた作家ということが出来るだろう。『ゴーレム』のような傑作も残しているが、この作品については、後で取り上げたい。
オールダス・ハクスレーもまた神秘主義思想に染まった作家である。彼の友人であったD・H・ロレンスなどもそうなのだが、彼らのその系列の小説は、あまりにも寓意性が強く、時として読むに堪えない。ハクスレーの最後の小説『島』(片桐ユズル訳・人文書院)は、タントラ思想などにも影響されて出来た作品である。
イギリスのジャーナリスト、ウィルは別れ話を告げた妻が事故死したことで心に傷を負っていたが、難破によってインド洋上の小島に漂着した……。「いま、ここでだぞ」「気付きなさい」と叫ぶ鳥たち、心理学的ヒーリングを多用する治療師、タントラ・ヨーガを実践する若い男女、現代文明に毒されずに良いところだけを取り入れた生活態度など、東洋的(と著者が信じる)ユートピアが語られている。彼一流の文明批判的なシニカルな視点も忘れられてはいないものの、全体にちりばめられた神秘思想的主張は、ほとんど説教でしかなく、読めたものではない。
オカルト小説をざっと眺めてきたわけだが、小説としてのていをほとんどなしていない『セラフィタ』から、ロマンスとしてのおもしろさのうちにオカルト思想をはめこもうと努力した作品を経て、現代に近づくと再び、生な形で思想を直接的に見せて平気な作品が現れてくる。現代のスピリチュアル・ファンタジーなどと呼ばれている作品群は、このオカルト・ロマンスにおける百五十年の振幅をさまざまな度合で見せていると言えるだろう。つまり、一応物語めかしてはいるが、単にニューエイジ思想を羅列しているだけのもの(『第十の予言』)から、きちんとしたファンタジーの体裁ではあるが、時として教説がそのままの形で噴出してしまったり、あまりにもあからさまに寓意的だったりするもの(例えばパウロ・コエーリョの『アルケミスト』などの作品群)まで、いろいろである。現代の日本では、そのようなわかりやすいものが、受けるようだ。あるいは現代、日本、には限らないのかもしれないが。ともあれ、そのような作品の一つとしてベン・オクリ『見えざる神々の島』(金原瑞人訳・青山出版社)を紹介しておく。
見えない一族の出身である私は、一族を捜す旅に出る。七年の船旅の後、人々は見えないけれども、美しい島に着き、さまざまな体験をし、また師の教えを受ける。
この物語では、比較的凡庸な神秘的世界観が、師の言葉というあまりにも直接的なもので語られてしまうがゆえに、何とも興ざめな作品なのだが、イメージ的に斬新で美しいところがあって救われている。白と銀に輝きながら空中高く浮かんでいるいくつもの大きな物、エメラルドの角のユニコーンや虹色の翼でまばゆいばかりに輝きながら疾く天へと向かう天使たちなどを映し出す鏡の通廊などが印象に残る。
次につづく
★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★