【ブックガイド】 神秘文学への誘い4
●彼方への移行●神秘体験は、束の間、彼岸を垣間見ることだとも言うことができる。ついに彼岸へと到達することは、神秘的合一が完全に成就するということでもあり得よう。もっとも、物語においては、彼岸への到達の象徴として神秘的合一が描かれることは多くないようだ。それはむしろ、死、異界への参入、別様の現実への覚醒などとして表現されることになる。
ウエルズ「塀についた扉」、ラヴクラフト「銀の鍵」などの作品は、彼方を垣間見た人間を描く小品である。現世的には惨めな死も、本人にとっては彼岸への到達であり、神秘的世界への再生なのである。
ジョージ・マクドナルド『リリス』(荒俣宏訳・ちくま文庫)は、彼方の世界の存在を知った人間が、恐れと喜びをこもごも抱きながら、何度もその世界へ立ち返ろうとする物語だ。
図書室で不思議な人影を見たヴェインはそれを追ってこれまで見たことのない屋根裏に入り込む。そこには鏡を通っていける別世界があった。ヴェインはその世界で、さまざまな不思議な体験にをする。やがて死者の家で眠りについたヴェインは、何度も目覚める夢を見る。最後には現実に目覚めるが、やがて本当の目覚めが訪れることを確信して物語は閉じられる。
夢としての現実を描いた作品とも言えるが、現実とあちらとは実際には融通無碍なのだという感覚が、この物語の神秘の核心であると私は思う。管理者は往来を容易には許さないが、そこには結局のところ行き着くことができる。そこはここでもあるからだ。そのことがさまざまな象徴的詩的イメージで語られていく。例えば、森の木々は鏡の間になり、高い樹木は噴水になる、というように。宗教的世界観も縷々語られるが、それさえも詩的に響くほどに彼方を思わせるヴィジョンが頻出する、神秘文学の傑作である。
日本文学には、神秘文学らしい神秘文学はあまりないのだが、この彼岸への希求、彼岸への到達というテーマで、いくつか描かれることがある。日野啓三はおそらく、現代日本で最も神秘文学に近い位置にいる作家だろう。宇宙飛行士が極限的な体験を経て現世に適応できなくなる姿を描いた『光』(文藝春秋)は、一種の神秘体験物語と言ってもよいのではないかと思われる。最初期の「向こう側」(読売新聞社『日野啓三短篇選集』)という短篇から既に、ヴェトナム戦争の特派員記者(日野自身も同じ境遇にあった)が向こう側へと離脱するという物語である。「彼岸へと焦がれながら、手探りで道をさがし続けながら迷っている、そんな人々、そういう生き方への共感を持たない人々は日野啓三の良い読者にはなれない」という池沢夏樹による解説が当を得ていよう。また、同時にこの解説は、池澤自身のことを語った言葉ではないかという気もする。池澤の短篇「帰ってきた男」(文藝春秋『マリコ/マリキータ』)では、彼方へ行ってしまった男について、その手前で引き返した男が語るという形式で、神秘的な世界観を語りつつも、そちらへと行くことへのためらいを表現している。近年の池澤は、そうした世界にむしろどっぷりと浸かっていることを隠さない。沖縄の神事に共感を寄せるような短篇もそうだが、長篇『花を運ぶ妹』(文藝春秋)では、ニューエイジ風の神秘思想をあからさまに披歴しており、その直接性はオカルト・ロマンスに近い。
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神秘的な彼方への憧憬は、時に非在のユートピア幻想と重なることがある。その中でも山を舞台にした三つの作品を特に紹介したい。一つはデュ・モーリア「モンテ・ヴェリタ」(務台夏子訳・創元推理文庫『鳥』)である。親友の妻アンナが山に呼ばれて、不思議な修道院にこもってしまう。主人公もそこへ行く契機があったのだが、結局は行かずに終わり、ただ一度だけアンナと再会する。
山と神秘なものの関係を綴った、非常に印象深い作品である。アンナは言う「山はとっても要求が厳しいわ。自分の持つすべてを捧げなければならないの」。マザー・テレサは山をキリストに変えた、まったく同じ言葉を語っているが、まさに神秘家たちは、さまざまな言い回しで、同じ言葉を口にしているように思われる。この物語では、山は神そのものであり、山にこもるということは、神と共に彼岸にいるということにほかならない。
神秘文学からはいささか逸れるが、ミシェル・セールの『天使の伝説』から、山をめぐる男女の会話の一部を引用しよう。山の上には現実には神はいない。しかし神は頂上であると比喩的に言うことが出来るから、「神はあなたとともに山のてっぺんに棲む」とは女性は言う。男は答える。
「夏の聖ヨハネ祭のために、若者たちが近くの山頂に登り、大きな火を燃やすのをふもとで見ていたことがあったね。そのとき山全体がまるで天使のようになった。
いつでも天使を人間の姿で描くのは大きな間違いだ。天使はぱっと広がって世界の美しさにひとしくなるんだから。あの美しい民間の祭りは、感覚的、身体的、日常的ヴィジョン、つまり神のヴィジョンを裏打ちしてくれる」
アンリ・ボスコ『ズボンをはいたロバ』(多田智満子訳・晶文社)は、少年コンスタンタンが、ズボンをはいたロバに導かれて、山上に密かに築かれた楽園に入り込むという少年小説だ。ここでの山は隔絶された異界ではなく、人界との交流がある。しかし、招かれなければ入ることの出来ない閉ざされた不思議な世界であることは確かだ。コンスタンタンのそこでの神秘体験が描かれているわけではないが、山の楽園は神秘の雰囲気に浸されている。
さて、三つめの山の物語は、ルネ・ドーマル『類推の山』(巖谷國士訳・白水社)である。
神話に現れる山の象徴を研究していた登山好きの私は、この象徴の山を「類推の山」と名付ける。通常の手段では近づけず、しかし地を天に結ぶ。ということは麓には近づけるが、峰には近づきがたく、唯一のもので、実在するはずだ。この考えに共鳴する者が現れるに及んで、私たちは探検隊を組織し、山を発見するが……。類推の山の麓で語られる神話は、神秘主義の要諦を示す、美しい物語である。
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さて、ここでいささか時代をさかのぼり、十九世紀のロマン派の文学を見てみよう。ロマン派の時代は、前にも言った通り、オカルティックな考え方が流行したと同時に、さまざまな現実的な変革が試行錯誤された時代でもある。そこでは、彼岸を望むということが真剣に考えられはしたけれども、それは現実的ではないということも同時に意識された時代だった。時に現代はロマン派の時代と通じるものがあると言われたりもするが、オカルティックなもものの流行は、現代はより表層的で、表面的に信じられ、受け入れられ、だからこそ現実的ではないことへの歎きは薄いのではあるまいか。
ロマン派の文学の中でも、あちら側とこちら側という意識が特に強く出ているものを挙げる。まずは、ホフマンの『黄金の壺』(神品芳夫訳・岩波文庫)。何をやってもダメな男アンゼルムスがクリスタルの声を持つ美しい金緑の小蛇(火の精霊の娘)を愛し、神秘の国アトランティスに至るという物語。
アンゼルムスは現世的な出世や恋人も差し出されないことはないが、「自然の神秘」が現れている世界へ入っていくためには、そうしたものは捨て去らねばならない。現実的な恋人は手に入れられないのだ。その代わりに至高の愛が得られる。これは詩人となることとの寓話でもあるが、一度神秘的な世界を目にした者の成り行きを描いたものとも言える。最終話のアトランティスの描写を含め、美しい詩的な文章がちりばめられた愛すべき小品である。ホフマンは、自身が作家、音楽家、役人という二重生活を送ったせいか、世界を二重に見る感覚が著しい。「ブランビラ王女」はその最も際立った作品だろうが、『セラーピオン朋友会員物語』の中の有名な一話「くるみ割りとネズミの王様」のような童話も、「蚤の親方」のようなファンタジーも、現実と真の世界との二重構造を生きる人間の物語となっている。ただし、神秘的な表現という面ではあまり見るところがない。
シャルル・ノディエもまた、真の世界と現実との対立とを描き出す。彼の場合は、神秘的なるものは狂気という形でしか現実には受け入れられないのではないかという主張になっている。例えば、「青靴下のジャン・フランソワ」(篠田知和基訳・岩波文庫『ノディエ幻想短篇集』)では、たいへんな優等生であった青年が恋のあまり魔術などに狂って精神に変調を来す。だが実は彼は幻視の能力も持っていて、現実とは異なる相を見ているのである。
中篇「パン屑の仙女」(広田正敏訳・創土社『ノディエ幻想作品集』)は長い二本の牙の生えた小人女に愛された純朴、清廉、高潔な大工のミシェルが、紆余曲折を経てパン屑の仙女と結ばれるまでを語るものだが、精神病院に収容されている青年の恋物語を、書き手が聞くという設定になっている。やはり現実的に見れば狂気であるものの中に、神秘への扉が隠されているのだ。
ミシェルの目は、世界を二重に捉える。その不思議な感覚は、マン島の代官との出会いから、裁判の場面に最も顕著に現れていて印象的だ。それはやがてパン屑の仙女の夜の甘美な夢の中へと溶けていく。
時代がやや下り、オドーエフスキイの短篇「シルフィッド」(望月哲男訳・国書刊行会『ロシア神秘小説集』)ともなると、精霊との交流、つまり神秘の世界を垣間見ることはもっと悲惨な結果を生む。
亡き伯父の蔵書から魔術レシピの手稿本を見つけた主人公は、ついに風の精霊を見ることに成功する。精霊の乙女に、この世界を捨てて高次の世界へ行こうという誘いを受けるが……。狂気の治療という形で現実に適応させられてしまう主人公は、精神病院から逃れられるミシェルとは比べ物にならぬほど無惨である。とはいえ、これもまた神秘の一面であることは、神秘体験の項で見た通りである。
●現実の中に神秘が顕現する●
神秘的なものは、ほとんど常に現実の中に顕現するのだから、この項目はあまりにも適当だと自分でも思うが、私個人の感覚としては、ここで取り上げるものは、この言葉にぴったとくる作品なのである。この際だから、要するに、自分の好きな作品を集めたのだ、と言ってもよい。
カレル・チャペックの短篇「足跡」(石川達夫訳・成文社『受難像』)は、一点の汚れもない新雪の上、野原の真ん中に孤立して存在するただひとつの足跡を見つけるという小品である。どこから来たのでもなくどこに通じてもいない足跡。ホレチェクは神的なものの通った跡だと言い、それを追うことで救われるはずだと確信する。続編「悲歌」では足跡を見た一人、ボウラがアリストテレス学会で発表している。彼はしかし何か無力を感じている。というのも、神秘体験のようなものがあったのだが、それを理論化する過程で何かを失ってしまったからだ。そこにボウラの兄が突然登場し……。
神秘的なものに対する理知的理解の勝った作品ともみなすことができるのだが、どの翻訳でも、それだけでは割り切れない余韻が伝わって来る。
ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリャサ通りで』(直野敦訳・法政大学出版局)においてもまた、このような、神的なものの跡を思わせる、理解不能の出来事が起こる。
ムントゥリャサ小学校のファルマ校長が、過去の物語を断片的に語っている。彼の物語の中には、水のたまっている地下室から消えた少年、天空へ向けて放たれたま落ちてこない矢などのエピソードが並び、伝承は現実のものとなり、魔法が起きる。殊に地下室のエピソードはあまりにも美しく衝撃的で、すばらしい。
同じエリアーデの短篇「ダヤン」(野村美紀子訳・筑摩書房『ダヤン・ゆりの花蔭に』)は、さまよえるユダヤ人が主人公の天才数学者オベロデの前に姿を表すもので、やはり伝承が現実化する物語と言える。神秘はユダヤ人自身ではなく、オベロデとユダヤ人とが過ごす不思議な時間の中に現れる。
オベロデは最終方程式を解き、時空を越えた存在になる。時空の錯乱は、『妖精たちの夜』に特徴的に現れるが、『19本の薔薇』(住谷春也訳・作品社)と「セランポーレの夜」(直野敦・住谷春也訳・福武文庫『ホーニヒベルガー博士の秘密』)でも、似たような形で描かれており、エリアーデの一種の強迫観念であろうと思われる。
「ダヤン」は終始神秘の気配がみなぎる傑作である。かつて私は、この作品の良さがわからない人とは、文学を語ることはできないと言ったことがあるが、今もその思いは変わらない。
伝承が現実のものになると言えば、グスタフ・マイリンク『ゴーレム』(今村孝訳・河出書房新社)が思い浮かぶ。
宝石・貴金属の細工職人をしているペルナートは記憶をなくしている。とある美しい女性に助けを求められたことから、ゲットーの複雑な人間関係の中で起きる陰謀と事件とに巻き込まれていく。市役所の文書係ヒレルが導師の役割を果たしたり、その娘ミルヤムが魂の伴侶となったり、オカルティストであったマイリンクらしい、オカルティックな世界認識を直接的に語る部分もあるが、サスペンスフルな物語展開の方がはるかに勝っているため、ほとんど気にならない。
この物語の中では、三十三年ごとにゴーレムが出現するという伝説も語られている。それに付随して、ある建物の、どこからも行き着けない格子窓の部屋の話が語られる。ゴーレムは思いもかけぬ形で現実のものとなるが、この部屋もまた、伝説以上の存在として出現し、この部屋をめぐって、神秘の顕現するシーンが描かれるのである。
もう一つ、伝承が現実になる物語を挙げよう。アラン・ガーナー『ふくろう模様の皿』(神宮輝夫訳・評論社)は、マビノギの伝承が現代に蘇る物語である。
その伝承とはギディオンによって作られた花の女プロダイウィズと彼女の夫フリュウ、恋人グロヌーの三角関係の物語だ。グロヌーは殺され、花の女は夫を裏切った罰としてフクロウに姿を変えられてしまう。その呪いが現代にまで引き継がれており、青年たちに降りかかるのである。ファインダーの中に過去の幻影が見えるシーンを始め、印象的なシーンが多い。全体は惑乱的な恋愛小説だが、ラスト・シーンには神秘的な雰囲気が漂う。
神秘的文学とは何の関係もなさそうだが、三角関係というテーマで少し作品を挙げる。
まずはイスマイル・カダレ『砕かれた四月』(白水社)。アルバニア辺境の高地では、「仇討ち」が至上命令となっている。身内を殺された者が殺し返し、また殺された者が殺し……と倦むことなく続けられ、一族どころか村が滅びてしまうこともある。青年ジョルグは仇討ちを終えたばかりで、一ヶ月の休戦の後に、次は自分が狙われることを知っている。新婚旅行で高地を訪れた作家の若い妻ディアナは、一目でジョルグに恋してしまうが……。
ディアナは作家に心を開くことなく、高地では血の復讐者だけに許されている塔の中に入り込んでしまう。この部分では、何が起きているのかわからない、しかし一種の神秘体験を思わせるものがあったことを予想させるようなところがある。政治的な寓意を読み取るならば、それはそれでわかりやすいだろうが、そうした読みを超える緊迫感がある、不思議な作品である。
デヴィッド・リンゼイ『憑かれた女』(サンリオSF文庫)は、婚約者と共に新居を探していた女性が、由緒ある館を下見に訪れる。そこで彼女は別空間へと通じる階段を見つけ、そこで高次の意識の体験を味わう。婚約者は捨て去るべきものとなり、真の恋人が見つかる。だが、階下へ降りると、彼女はまた平凡な存在に戻ってしまう……。
メロ・ドラマ風に描かれた作品だが、リンゼイの神秘的な思想は明らかに現れていて、間違えようもない。物語中で最も印象に残るのは、古い音楽を奏でている異空間の存在と触れ合うあたりであり、この部分の深い神秘性は、地上の三角関係を天上的な愛に変換してしまうのである。
エリアーデ『令嬢クリスティナ』(住谷春也訳・作品社)は吸血鬼ものだが、クリスティナという死者と、クリスティナの姪のサンダとのあいだで惑うエゴールを描いている。エゴールはクリスティナの魅力に何度もくずおれながら、ついにはそれを打ち倒すが、決定的に大事なものを失ってしまう。
すみれの香りと共に登場するクリスティナの存在感は圧倒的で、そのエロティシズムからポルノだと非難されたのも故無しとしない。随所に、見えない世界がこの世とのあいだにあるように描かれており、その点では迫力がある。
同じエリアーデの『妖精たちの夜』(住谷春也訳・作品社)もまた二人の女性のあいだで惑乱する男を描く三角関係の物語だ。
夏至の夜には空が開くという言い伝えがあるという。その夜に若い女性イレアナと出会ったシュテファンは、幻影を見て彼女こそが運命の人だと深いところで思う。しかし妻ヨアナのことも愛しているとシュテファンは強く思う。二人を同時に愛せるのではないかという強迫観念がシュテファンをがんじがらめにしていく。
この主筋に、さまざまなエピソードが差し挟まれていくエリアーデ最大の長篇で、『クリスティナ』のようなシンプルさは持ち合わせていない。第二次大戦を挟む十三年にわたるルーマニアの人間群像であり、神秘的な表現としてはほとんど成功していないが、神秘体験そのものは数箇所で描かれている。秘密の部屋サンボーの発見、春が来たとイレアナを散歩に誘う場面の、甘美で稀有であえかな光。ビリシュの拷問の夢幻に出てくる船と光。そしてシュテファンがポルトガルで代表部を出て空を見上げると、異様な幸福感を覚えたというシーン。
三角関係という緊張関係の中で、死へ向かう疾駆のほかにまだ何かがあるのではないかと、歴史と時間から抜け出る道があるのではないかとシュテファンは思う。ここに挙げて来た三角関係の物語は、みな、シュテファンの思いを共有しているもののように思われる。「われわれのそれぞれが何か他のものを秘めている」。魂の奥深いところからのなにものかの表出。それもまた神秘として描かれるときに神秘となる。
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最後に、魂の覚醒を描いた印象的な作品を挙げて、このガイドを終えたい。
ルネ・ゲノンに大きく影響されたというアンリ・ボスコには、フランスの地方の、夢を見る一族メグルミューなどを描いた一連の作品があるが、その一つ『シルヴィウス』(天沢退二郎訳・新森書房)は、精神的な転身を描いた短篇である。
裕福な食糧買付人シルヴィウスは、独身の六十男。旅嫌いの一族の例を破り、六十になってからさまよい歩くようになった。雪の夜、死んだ馬に導かれるように旅芸人の一座に邂逅したシルヴィウスは、そのまま一座の御者兼作者になってしまう。
直接的には描かれることはないが、なんらかの神秘体験があったろうことを感じさせる気配がある。ボスコの作品には、その気配は漂うのであるが、実際には神秘の顕現そのものが描かれることはない。
ボスコ作品の中で、最も直接的な形で神秘を描こうとしたのが『骨董商』(天沢退二郎訳・河出書房新社)であろう。
バルーディエルはマルセイユの町で偶然に入った骨董店で奇妙な双子の主人に歓待される。店の地下道から港へ出たマティアスは、そこから任地の砂漠に向かうが、そこにも双子が出現し……。
なぜか惹きつけられる悪魔的なシュラックとの哲学的対話、塔の中に聖域を築いているリュシルへの恋など、一連のエピソードがバルーディエル自身によって語られるのだが、至るところで謎めいている。そしてバルーディエルも姿を消し、すべてが晦冥に沈む。随所に神秘的な言説が見られ、神秘体験めいたものも語られはする。しかしここでも神秘の顕現ははっきりとはせず、訳者が「影に浸されている」というように、その影のイメージばかりが揺曳するのである。
チェスタトン『木曜の男』(吉田健一訳・創元推理文庫)は、不思議な契機から刑事となった詩人のサイムが、無政府主義者のグループに潜入し内偵を進めていくが、やがて世界はサイムが思っていたのと、まったく別の顔を見せ始める……。
世界は目に映るありのままの姿ではなく秘められた別の顔をもっており、そして人もまたその局面では現実の生とは別の使命を与えられている。神秘的な認識が、象徴的な形で描かれている。冒頭の郊外の夕焼けの風景や、影と光が入り交じりあう自然の描写が、世界そのものの神秘性を強く表現している。
『木曜の男』は、どんでん返しに次ぐどんでん返し、あるいは意外な真相の連続で、サイムを惑乱させ、新たな認識に導く。そして全面的に宗教性を帯びた作品であることを、日曜というキャラクターによって示している。『マゴット』でシェーカーというカルト的な宗派を扱ったジョン・ファウルズは、『魔術師』(小笠原豊樹訳・河出書房新社)では、既成の宗教性には拠らずに、どんでん返しの内に惑乱し、新たな認識を得る青年を描いている。語り手である主人公は、大がかりな芝居によって意識の変革プロジェクトのようなものにはめ込まれるのだが、いったい、どうして、何のためにこのようなことがなされるのかは、わからない。というよりも、小説の次元では問題にされていない。ただ、現実が二転三転し、青年の体験は、まさに言語を絶するものになってしまう。神秘体験のような恍惚はないが、徹底した惑乱があり、ついに青年が過去の自分を捨て去るに至る過程は、神秘体験的であると言える。
もう一つの生、新たな使命といったものが、死の後に明らかになる場合もある。チャールズ・ウィリアムズ『万聖節の夜』(蜂谷昭雄訳・国書刊行会)は、オカルト・サスペンスの形で、死後の世界を扱い、その中での新生を描いている。
傀儡を死の国に送ってあの世をも支配しようという野望を持つ魔術師サイモン。レスターは半死者となって死後の世界に送り込まれた友人を助けるため、自らゴーレムの中に入り込むが……。
レスターのあの世からこの世への出現――人々の前に姿を現すシーンや、そしてそれに伴って「都」のイメージが現れてくるところが圧巻。神秘の顕現の表現の中でも、空間的な広がりを感じさせるウィリアムズのそれは、通常とは異なるインパクトを与える、特異なものであろう。(終わり) ★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★