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水の道標

●記憶とは何か①五感を想起する〜文学を読む・補論●

「記憶とは何か」というのは、脳のしくみがどうなっているのか、そして人間とは何かにつながる大テーマである。一般論に深入りする気はない。参考書もたくさんある。一箇所だけ記憶関係のリンクをつけておく。何をやっている人か知らないが、ベストセラーについてのメモがおもしろかった。
 ここでは、文章を読むということの大前提として、私自身の記憶とイメージとについて説明する。意味記憶、身体記憶については扱わず、イマジネーションに関わる分野、つまり出来事(エピソード)記憶、感情記憶についてだけ述べる。あまりにも当たり前、ということもあるだろうが、そう思われた方は読み飛ばしてほしい。前提条件が常に等しいという保証は全くないのだから、あらゆることを当然視しないで書いている。

◆五感を想起する◆
 想起する、というのは、思い出すということとほぼ同義であり、記憶を引き出すことの一つの形である。単に立方体を視覚的に想起する、三角形を視覚的に想起する、という場合、そのイデアを想起するというよりは、以前見たものを思い出しているという方が近いように思える。ただしその検証を厳密にする気はない。ここでは想起を記憶の想起の意味で用いることにする。

 私は視覚的な人間であるようだ。しかし、極端にそうかと言えば、そうでもない。
 心理学におけるイメージ調査*では、7段階や5段階にイメージ想起能力を分けているが、私は上から2番目くらいの感じである。五感のすべてを想起することができるが、現実そのまま、とはいかないのである。
 例えば味覚なら、どんな味かを思い出すことはできるが、それを今、脳の中で想起したことによって味わった気分になることはできない。匂いも、思い出せはしても、かいだつもりにはなれない。以前、井辻朱美さんが、翻訳したイメージ・ワーキングの本の後書きで、訓練したら薔薇の香りが本当にリアルにかぎとれた、と書いていたことがあったが、そのような感じとは明らかに違うのである。
 また、味覚でも嗅覚でも、時間が経てば、間違いなく紋切型になってしまう。つまり、ガトーショコラの味なら「いわゆるガトーショコラの味」でしかなく、どこの店のガトーショコラとか、バレンタインデーに作った作ったガトーショコラというような違いがない。嗅覚なら、昨日の夕方に隣の家から匂ってきた煮物の匂い、などは、煮物一般の匂いになってしまい、区別がつかない。薔薇の匂い、百合の匂いなども平均化されているようだ。薔薇も種類によって違うのだろうが、かぎ分けることはできても、思い出すのは難しい。要するにある程度の抽象化がなされているということなのだと思う。その抽象化の程度は、人によって異なると思われる。
 触覚も似たようなもので、やはり平均化される。アザラシの毛皮とうさぎの毛皮は違っても、高級なのと安いのとでは差がない。現実に触ってみれば、これらはもちろん違うものである。触覚とはややずれるが、痛みもまたリアルには思い出せない。包丁で切ってしまった痛みと、足をくじいた時の痛み、頭痛など、すべて感じることはできるが、かすかな記憶のエコーといったところだ。もともと、あまりリアルに想起できるようには、人間はできていないのではないたろうか。
 聴覚の場合も平均化される。例えば、鶏の鳴き声、犬の吼え声などは、現実に聞き分けているほどには再現できないのである。人の声も、4月20日に会った時の声と、25日に会った時の声の区別を頭の中でつけられない。音楽の場合でも、一般化は起きる。例えばバッハのマタイ受難曲を想起する場合、最も何度も聴いた演奏、例えばBCJならBCJの演奏を頭の中でそれなりに鳴らすことはできるが、それがほかの演奏の影響を受けたり私自身の好みが入ったりして、歪んだものになっていることが考えられるのだ。同時に、かなりパーフェクトに演奏をそのまま再現できる音楽もある。ただし同じ曲のほかの演奏をまったく聴いていない場合に限る。とすると、単に最新のものを思い出しているという可能性も否定できない。味覚にしても、どれか一つ、おそらくは最も現在に近いものを覚えているという可能性もありそうだが、もうわからなくなっているわけだから、判断のつく話ではない。
 視覚はどうだろうか。視覚も平均化されることが考えられるが、同時に、最新の記憶に塗りかえられるという可能性も高い。毎日子供たちの顔を見て過ごしているわけだが、そうすると、三年前の子供の顔(あくまでも顔の話。雰囲気などは別)が思い出せない。幼い時の顔などはさらに無理だ。私の記憶のストックにあるのは写真の顔だけである。写真なら、かなり鮮明に個別の写真を思い出せる。写真なかりせば、実物を覚えていられたのだろうか? それも怪しい。一方、今日の朝起きたときの子供の顔などというのも、そのままに思い出せるという自信がない。この数日間の平均の顔が思い出されているのではないかという気がしてならない。あるいはここ一ヶ月くらいで最も典型的な朝の顔のどれか。顔を見て確認した瞬間に、記憶も変わってしまうから、やはりどうにも確かめようのない話である。

 さて、このような五官の記憶のうち、私の場合、最も強いのは映像記憶である。例えば、篠田さんと一月に会った時のことを思い返す。すると、いろいろな映像が最も多く、次にしゃべっている声、それから食べたものの舌触りで、味覚・嗅覚はほとんど思い出せない。紅茶やコーヒーを飲んだが、それこそ、「あの時のコーヒーの味」を思い起こすことはできない。何を話したかという抽象的なことは、映像に伴って、本の話をした、記憶の話をした、というふうに言語変換できるだけ。どんな話をしたのか、具体的に、と考えると、篠田さんがしゃべっている声をそのまま断片的に思い出し、そこから抽象的に再構築することになる。そして、一旦それをして、書き留めてしまえば、そのようなプロセスを経ずとも、書いたものを思い出すことでどんな話をしたかを話せる。ただ、「篠田さんがしゃべっている声をそのまま断片的に思い出し、そこから抽象的に再構築する」ことは、非常に短い時間の中で行われるため、ほとんど同時に抽象的なものが想起されるというように感じることもある。だが、それは言語として蓄えられているのとはまったく異なる。要するに私は、出来事記憶を言語に凝縮するというようなことをしていないのだ。
 私は、人間というのは、普通はそのように雑駁に世界を生き、ぼんやりと出来事が流れるままにしているものではないかと思っている。そのように何となく記憶にとどめたものを思い返すこともなく忘れ去る。だが、篠田さんや西村有望さんは、記憶の多くは言語的に蓄えられていると言っている。決して誰もが映像的記憶に頼っているわけではないのだ。
 篠田さんは、味覚や触覚の記憶の方が視覚よりも強いとも言っている。イメージの記憶と言っても、情景はぼんやりしつつ、その時の大気の粘度、温度などはよく覚えているということもあるのだろうと思う。私の場合は、もしも味覚や嗅覚が思い出せるとしたら、視覚や聴覚が抜け落ちるということはない。つまり、非常に鮮明な臨場感ある記憶が蘇るわけで、そのことからも、ともかくも映像優先であるということがわかる。私のように、映像的な記憶力が突出している人間もまた、多数派ではないだろう。

 だいたいにおいて、人間は自分の体験を絶対視しがちだ。だが、自分にとって当たり前のことが普遍的であるとは、まったく限らない。もしも哲学者が、自分の特性を特殊であると自覚することなく論を展開したら、どういうことになるか。「人間の記憶は主に言語的なものだ」という観点から得られる人間理解と、「人間は言葉や画像、イメージなどを雑多に記憶している」という観点から得られる人間理解はだいぶ異なるだろう。例えば前者からは、言語にかかずらって生きる理性的な人間像が描けるかもしれないが、後者からは、動物的な人間像が描けるかもしれない。あるいはもっと違ったものが。

 感情記憶についても少しだけ触れておこう。ある人から、感情の記憶だけが思い出されることがある、という話を聞いたことがある。何かを思い出し、それに伴っていた感情を思い出すのではなく、感情だけが突然、きっかけなくわき上がるというのだ。何か理解しがたいものがあった。
 プルーストの『失われた時を求めて』ではないけれど、出来事記憶は匂いに触発されるのだという。匂いは感情とつながっており、出来事記憶は感情を伴っているので長期記憶として残る、という論理らしい。私の出来事記憶はかなりでたらめに雑多なことが含まれているので、出来事記憶が常に感情を伴っているとはあまり思わないが、匂いによって感情が呼び覚まされるということは、現実にしばしばあった。でも、それは思い出しているという感じではない。感情だけが思い出されるというのは、それとは明らかに違うことなのだろう。果たしてどんなことなのか、これはわからない。私の場合、感情記憶は、やはり何らかの思い出と共にわき起こる。思い出は例によって言語的なものではない。例えば、何か文章を読んで怒りを感じたとしよう。その文章の内容が思い出されるのは最後だ。何か不愉快なことが書かれた文書の存在を、イメージ的に思い出し、それで怒りがわき起こる。画像を思い出すのではなく、文書を読んだときの状態を思い出しているのだと思う。もちろん活字に触発されたものではなく、現実の状況から生まれた感情を思い出すときには、その状況が映画的映像となって思い出され、そこに感情が伴っているのである。



●心理学的なイメージ調査から見るイメージ喚起力●

 イメージ喚起力を人がどれほど持っているか、個人差はどんな具合か、というようなテストは、19世紀の記録もあるぐらいで、結構古いテーマのようだ。心理学では、イメージの鮮明度を7つの段階に分けたものがある。自分の机の上をイメージせよ、というような複合的なものをイメージするときの評価である。(5段階もある)ここでは視覚的なものを話題にしているが、イメージの想起とは五感すべてに関わるもので、普通のイメージ・テストも視覚的なものだけではない。

1 実際に眼の前にあるのと同じくらい鮮明
2 かなりはっきりしているが、実物というほどではなく、部分的に不鮮明。
3 実物より若干暗く、全体を思い浮かべるには注意を次々と別のところへ向けていかなければならない
4 50~70%くらいの明るさで、明確さには物によって違いがある。
5 ぼんやりしていて、明らかに実際の場面には及ばない。別々に考えなければならないし、混乱してしまう。
6 イメージは偶発的にしか再生されない。
7 イメージは何も浮かばず、見ることが出来ない。ただその言葉について考えているだけ。
(5段階の場合は3と6が抜ける感じになる)

 果たして1や7の人がいるんだろうか、という疑問がわかないでもない。いるとするなら、1の人と7の人との世界観には、随分と大きな差があるのないだろうか。だいたいが345のあたりにいそうだと思うのだが、どんなものだろう。
 現実のようなリアルさ、ということは現実と間違える可能性があるということではないのだろうか。もしもそういうものだとすれば、夢の中以外ではそのようなイメージには出会えない。
 夢と現実を混同することは、私にとっては珍しいことではない。あるリアルな夢を見るとする。起きたあともずっと現実だと思っているのだが、その記憶を何となく思い返し、現実的にはありえないということに卒然と気づく。そこで、現実だと思っていたことが夢だったことに気づくということがあるのだ。そのようなリアルな想像は、残念ながら現実の中では出来ない。

 イメージの喚起能力には、かなりの個人差がある。これは井辻朱美さんが書いていたことだが、さまざまなヴィジュアル機器の登場によって、私たちのイメージの世界はずいぶんと可塑的になっただろうと推測される。井辻さんはビデオの巻き戻し、早送りなどを例に挙げていたが、現在ではコンピュータ・グラフィクスが脳のイメージ操作に与えた影響にはきわめて大きいと言える。CGを現実に見ることで、CGに出来ることが私たちの脳内でも容易に再現できるようになるから、CGに親しんでいる人は、相対的にイメージを喚起するのが容易になったはずだ。イメージ喚起力が弱く、映像的なものに親しんでいない人と、その逆の人とでは、その格差は、以前より一層開いてしまったと言えるだろう。
 例えば、今プジョーのエンブレムを思い浮かべ、それをCG的に立体映像にしてから回転させて裏側から見られるようにし、好きな空色で塗って下さい、と言われて、きちんとイメージ操作ができるか、ということである。自分では簡単にてきそうなことをわざわざ言ってみたのだが、こういうようなことには、得手不得手というものがあるだろう。
 私にしても、数学の中では、ある立体を切断したとき……というようなものがいまいち得意ではなく、ルーディ・ラッカーの『四次元の冒険』を読んだ時も、本当に空間四次元がイメージできたかどうかはかなり怪しい。全般に幾何より代数の方が好きだ。イメージ喚起能力がさほどでもない証拠である。

 また、イメージを想起することと記憶を思い出すことはほぼ等しいから、記憶のストックが多ければ多いほど、イメージは豊かになるはずだ。例えば、世界各地を旅行して、その風景や大気をじかに感じたことのある人と、テレビで世界旅行気分を味わうことすらしたことがない、という人では、砂漠の描写を読んだ時に想起されるものはずいぶん違うだろう。場合によっては、砂漠というものが思いつかず、砂浜にしかならないかもしれない。このような認識もまた、読むという場面では重要なことだ。
 ただし、記憶は視覚的だが、小説は視覚的には読めない人、またその逆の人などもいるだろう。これも一般化は容易にはなしがたい問題である。 次につづく

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