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水の道標

●記憶とは何か③言語と記憶〜文学を読む・補論●

 記憶と言語にはやはり密接な関係があるので、言語の問題に触れないわけにはいかない。記憶は何らかのインデックスによって引きだされてくるのだが、やはりそのインデックスは言語であることが最も多いだろうと考えられるからだ。「匂いが出来事記憶につながっている」という脳科学の考え方もあるのだが、現実的な回数では、言葉にかなうわけがない。記憶を引きだすものが言語である。同時に、引きだされた記憶がその言語を構成するとも言えるのではないだろうか。
 言語は人間の本質の一つ、誰でも言語を獲得でき、コミュニケーションの用に供することができる。そして人間は何か一つの言語を獲得していれば、言葉を自然に覚える時期を過ぎても、ほかのどの言語をも習得することができる。
 問題はコミュニケーションということだが、これが〈真の〉という冠をつけられたり、可能性・不可能性として論じられたりするようなしろものだから、扱いに困るが、それでも言語は伝達にまず用いられるのだと私は考える。なにごとも、絶対的、いついかなる場合にも、完全な、ということは、現実的には成立しない。イデア的空間の中で行われる数学とは違うのだ。
 さて、チョムスキーの生成文法理論によれば、人間の言語の構造には、すべての言語に共通なものがあり(モジュール性というのはその一つ)、また、言語のヴァリエーションも限定的である、ということだ。これはどういうことかというと、人間が作り出す人工言語のようなものも、モジュール性を有するということ、また人間は言語という面でも普遍性、あるいは共通の基盤を持つ、ということである。実証されている論ではないけれども、わかりやすくて共感できる説。このチョムスキーの理論に従うと、例えば耳の聞こえない子供には一日も早く手話で接してあげるべきだということになる。手話は人工言語だが、生まれつきそれが手に入れられるなら、それはクレオールのような自然言語になるというのだ! つまり手話は単に聾唖者に便利に使われるコミュニケーション・ツールではなく、聾者の第一言語となるのである。(本題とは関係ないが、健常者が聾者を産んだとき、そのような言語獲得を目的とした手話使用者を派遣するような福祉制度ってあるんだろうか? もしもあるなら、医療機関はそういうことを知っているんだろうか?)
 この生成文法理論を提唱するチョムスキーは自分の理論以外には言語は科学的には分析できず、あとは文学にでも任せたほうが良いと言っている。生成文法理論というのは、例えば、言語のさまざまなヴァリエーション(印欧語属とかトルコ語属とか)の差異を無視して共通項だけに着目するようなものなので、扱えるものが非常に狭い部分でしかない。いわゆる言語学はかなり全面的に無視される。チョムスキーからすればそんなものは科学ではなく、文学だというわけだ。例外の多過ぎる規範は確かに科学的とは言いがたいので、チョムスキーの気持ちもわからなくはない。だが否定された方はたまったものではないので、反撃に出、認知科学言語学とか言語哲学は今もなお盛んである。
 それはさておき、チョムスキーの『言語と思考』(松柏社・大石正幸訳)にはこのようなフレーズがあった。「ロンドンはいろいろな意味で存在しうる」。もちろんこの場合チョムスキーが言っているのは英国の都市のロンドンに限ったことで、キャバレーのチェーン店の名前だったりはしないのだが、そのように意味を限定してさえ、ロンドンが含んでいるものはあまりにも膨大であり、何か一つの意味を持っていたり、現実に存在する一つの対象を指示していたりするわけではない。人それぞれがイメージするものは違うだろう。音韻的な問題もあるだろうし、その言葉に込める思い入れも、言葉にまつわる知識も違うのだ。
 そのような多義的でその一語の周縁にいろいろなものをまとわりつかせている一つの言葉を考える時、〈誰でも捉えている「意義」がある。ロンドンなら都市の名前ということ。ロンドンに関する思考のうち共有されているその部分は言語の客観的で「公的な部分」だと言える。そのうえで客観的意義と結び付いた独自の心象を持つことができる〉という見解が一般的ではないかと思う。
 チョムスキーはそれに対して〈根本的な共通理解はないのだ。人はみな独自の言葉しか持っていない。個々の言葉は別々である。ただあれこれの推測からなんとなく、いささか似たような意味を捉えるにすぎない〉という意見を出す。赤ん坊は類推によって個々の言葉を獲する契機を得るが、その過程を冷静に判断すれば、確かにそのようにも言えそうだ。「コミュニケーションとは近似的なもので、その相手が口にしたり思っている事柄についてのそこそこの推定値を探すことなのです」とチョムスキーは述べている。
 こういうのが科学的な態度というものなのかもしれない。チョムスキーは言語科学者だと自分をとらえているようだし。だが、そのような意味で、言語は主観的にしか存在しえないなどということを言っても、ほとんど利益はなく、科学的厳密性はただの詭弁とえらぶところがなくなるだろう。
 「ロンドンはいろいろな意味で存在しうる」ということについて、私はこう考える。ロンドンという言葉で喚起される記憶の総体が私にとってのロンドンである。ロンドンという言葉の意味するもの(と便宜的に言うが、言語的なものはそのうちのわずかに過ぎない)は、そうであるならば私が生きている以上変化し続ける。死んでしまえば認識できないからロンドンの意味することを考えようがない。従って私にとってのロンドンの意味するものは固定化されることがない。私のロンドンとあなたのロンドンが同じである可能性は限りなく低いが、共通する部分がないわけではないだろう。私がロンドンという言葉を聞いた瞬間、ロンドンロンドンロンドンとお姉さんがたが連呼するCMをまず最初に思い出すのだとしても、行ったことはないが写真では見たことがある英国の都市だという理解が一般的だろうと推測する。その確からしさは、科学的に数字を上げることはできないが、かなり確かなことだと思う。そのような時、ロンドンという語における共通理解が成り立っていると考える。それを「公的な部分」と言ってもいいだろう。そのように考えなければ言語が言語であることの価値がない。
 単語一つ一つの意味はそのようになっているし、言葉が何か流れの中で使われると、その意味はより一層はっきりとし、確からしさは100%に近くなる。類推だろうが、絶対的な確実性ではなかろうが、かまわない。それを言うならば客観的と称しても良い(主観と客観の話はさらに補説で述べたい。)言語はこうして伝達の役には立つのだ。
 だが、もちろん文学上においてそれが一筋縄で行くのかどうかはまた別の話である。私たちは伝達のために言語を使うが、言語そのものの意味とは別なことを伝えるために言語を使用する例があるからである。これを詩的言語というのだと私は思っているが、この問題は本論で論じるべきことだろう。


類推による語彙の獲得

子供の発語は喃語から始まり、これがこちらにも容易に意味の通じる単語へと変化する。
特定の猫を見て、にゃんにゃんという言葉を覚えたとする。すると他の猫を見てもにゃんにゃんと言い、犬を見てもにゃんにゃんと言う。彼なりの類推がきちんと働いているのである。お母さんお父さんと猫との暮らしなら、両親以外の動くものは全部にゃんにゃんかもしれない。あるいは四本足のもの、例えばイスなどがにゃんにゃんかもしれない。背が低いのに強いものがにゃんにゃんかもしれない。人間は分類して世界を理解しようとする生きもなのだ。
 人類学のある見解では、この類推能力が、人間を進化させたという見方がある。言語が類推能力を育んだのか、類推能力があるから言語がこのように発展してきたのかはわからないことなのだが……。類推によって理解しあうというのは、人間を人間たらしめている能力なのだと私は考えている。それこそが人間の本質的な部分なのに、それをマイナス評価として捉えるということは、結局、人間であることに飽き足らぬ、と言っているに等しいことなのではあるまいか。書きながら、これはもしかすると絶対神を措定したりする宗教のなせるわざなのではないかという気がしてきた。まあ、これはちょっとした思いつきに過ぎないけれど。人間は、自分があまりにも不完全な存在であることがいやだという、変わった生き物なのである。では完全とは? という問いにも実は答えられない。ならば、まずは意味なく自己否定することなく、次には単なる現状肯定に陥らず、類推という能力を最大限に活かして生きることが肝要であろうと私は思う。 もとに戻る

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