Isidora’s Page
水の道標
●映画になる小説・マンガになる小説〜文学を読む②イメージについての補足

★細雪★
 この作品の冒頭を読んでいただきたい。そのままで映画になる……というよりも、私の場合、頭の中で、テレビもしくは映画の映像にしかならない。台詞はママで、地の文はト書き・演出の示唆に見える。すごく押しつけがましく映画的だ、と私は思う。私は映画には詳しくないので、これを映画化しようと考える映画人が、どれほど、原著者に抵抗しようと考えるのかはわからない。また、この作品の映画を観たことももちろんないので、どうしているのかは知らない。この冒頭部分などは無視しているのではないだろうか。私ならそうしたい。
 映画風の映像になる場合も、芝居と同じで、映画を見てきた蓄積が、頭の中に展開する映画に影響を与えている。また、小説を読みながら現実の俳優に演じさせることもできる。
★ブラックハウス★
 もう一つ続、映画オタクの作品。押しつけがましさ、ということでは、スティーヴン・キングの方が谷崎潤一郎よりはるかに上だ。まず俯瞰で町並みを撮って、町を通りすぎてからいきなり一件の家だけを映す……とか。別に映画にしろと言っているわけではないだろうし、キングの映画は今一つ評判が良くないのだけれど、とにかく映像をいちいち指示するような感じである。素直に時間をかけて読んでいればまったくその通りには頭の中に見える。ただ、キングの作品では、集団の立ち位置、タバコの吸い方、マッチのつけ方に至るまで描写がある。あまりにもうるさいので、私はキングが嫌いだ。読んでいるときに、映像はある程度作品には書かれていないことも含みながらフレキシブルに広がるのだが、それをいちいち指示されていると、読みが滞って仕方がない。書かれていれば細かいところまで文章に従って画像化されるからである。例えば酒場の描写が薄ければ、瞬間的に人物に相応しいと私が思うような場所をセッティングできるが、いちいちどんな場所かを説明されていると、それを読むに連れてイメージしていくことになる。スローモーションで映画を観ているような印象? あるいはすごくゆっくり移動するカメラの映像。ワンシーンなら効果的でも、ずっとそれをやられると苛々する。キングが売れっ子の作家だということは、このうざい描写が、アメリカでエンタメ小説を読むような読者層(どのあたりなんだ?)には受けが良いということである。映像化するような想像力に乏しいのか。あるいは細かく説明されないと状況把握ができないほど理解力に乏しいのか。
 日本では奥泉光が時として、この過剰描写でうんざりさせてくれる。

★村山由佳『すべての雲は銀の…』★
 この作品は、文章や話の展開からくるイメージがまったくの少女マンガである。ラヴ・コメによくありそうなシチュエーション、キャラクター、台詞。従って、私は終始頭の中で少女マンガを読んでいる。それなら、別に小説で読む必要なんかない。少女マンガを読んだらいいのである。上手い少女マンガ家が少女マンガにした方が、よっぽど優れた作品が出来そうだ。ただ……これを小説で書くのは短時間かも知れないが、マンガで描くとなったら相当大変かもしれない。それを考えれば、マンガの代替物としての小説という考え方も、無理がないのかもしれない。


★これらの作品を読みながら、小説を小説として読む楽しみとは何なのか、ということを考えずにはいられなかった。少女マンガのラヴ・コメが好きなら、小説でも少女マンガ的なラヴ・コメを読むのを欲するのか? SFを読むのは、萩尾望都の『スター★レッド』を読んだときの興奮を再び味わいたいからなのか?
 私に限って言えばそれはどちらもノーだ。ある特定の少女マンガ作家のラヴ・コメは大好きでも、それを小説で読みたいとは思わない。私にとってマンガのラヴ・コメはファンタジーだが、小説のラヴ・コメはバカバカしいものになってしまうようだ。要するに、絵がファンタジーだということなのだろう。SFは映画でもアニメでもマンガでも小説でも好きだが、小説とヴィジュアルなものとは、楽しみが異なるような気がする。アニメの代替物としてジュヴナイルのSFを読んでいるわけではない。だいたい、自分の頭の中でアニメにしても、そのアニメ自体はとりたてておもしろくはない。それは今まで知ったことの集積にしかならないからである。例えば『イノセンス』を観たときのような、「すごーい」という感覚を、自分の頭の中で作り上げたアニメに対して持てるかと言えば、持てるわけがない。『イノセンス』を観た後にはその映像センスは取り入れられるだろう。だが、自分ではそれを作ることができない。CGを観るまではCGなどというのは思いもよらなかったのだから……。
もとにもどる

★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★