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水の道標

批評理論について〜文学を読む③補足

 丹治愛編『批評理論』(講談社)という本を、今回、アンケートにも参加してくれた大久保譲さんも書いている本なので、せっかくだから買ってみた。
 この序章は、批評的な読み方をすると読みの可能性が広がる、という私と似たようなことを言っているのだが、その書き方が何だか控えめである。「批評理論は有用で必要なものか」と言われたら、イエスとは言えない、などと言っている。しかも、それに続けて、そもそも必要・有用ということを言い始めたら、〈ふだんの生活とはまったく縁のない二次関数や微積分をかかえる数学だって立つ瀬がないでしょうし〉(原文のまま)と言う。
 日々、新聞などを読んで驚くことは多いが、この発言にもすっかり驚かされた。いったい誰を読者対象として想定しているのだろうか。誰を対象にしているにせよ、数学全体を敵に回しているのはいかにもまずい。二次関数も微積分も、有用・必要という点では、批評理論の比ではない重要さである。現代の科学的産業が何を基礎に成り立っていると思っているのか? もちろん数学であり、中でも二次関数や微積分はあまりにも根源的なところにある数学の基礎分野なのである。物理学(電気・力)はこれらを基礎に成り立っているので、必要かどうか考えるまでもないものなのである。ここでは役に立たなそうなものの例としてこの二つが上がっているのだが、現実にはこの文脈では、数学そのものは有用性という点から見て立つ瀬がない、と言っている。噴飯物とはこういうことを言うのである。数学が発展してこなければ、いったい社会がどうなったと思っているのか。たぶん丹治氏が原稿を書くのに使ったに違いないパソコン、この書物を作る際にも使われたはずのコンピュータは数学を大基礎に置いている。数学全体をこのように有用性という点からバカにするのは、馬鹿げている。
 わざわざこんな馬鹿げたことを言い出すからには、東大大学院教授という世間的に見てすばらしい肩書きを持つ丹治氏にも、数学者に含むところがあるのではないか、などと想像される。個別の数学者が、有用性・必要性という観点から、優れた仕事を現実にしているかどうかといえば、それは明らかではない。同僚に、愚にもつかない研究をやっている(ようにしか見えない)人間がいて、そいつが性格は悪いくせに、研究費をかっさらってくるのは上手かったりして、何だか腹に据えかねる、というようなことがあったのではないか、と臆測したくもなる。そうでなくとも、現代数学の有用性は、確かに、見えない。世界にその理論を理解できる人や、証明が正しいかどうかを判断できる人が数人しかいないというような、何だかわけのわからないことをやるのが有用なのか、というのはごく一般的な気分だろう。丹治さんもフェルマーの大定理を証明するのが必要だとは思えない、とでも言えばまだしもだったのである。そうした裾野の広い基礎研究あってこそ、真に有用なものがうまれてくるだろうという反論はすぐにもされるだろうが、それでも数学全体を非有用的なものと見て、私のような人間にまでバカにされることもあるまい。
 もともと有用性の問題は、理科系では、あらゆる基礎研究につきまとう問題であろう。今はとにかく結果を出せ、実用性を見せろ、そうでなければ補助金は出さないなどと言われているのだろうから、有用性・無用性の議論の切実さは文学の比ではないはずだ。なにしろ理科系の研究は金がかかる。だが、何のために有用なのかはわからない研究も大事なのだということは、理科系の研究では前提的なことにちがいない(それでもゴミのようなものはたくさんあると思うけど)。
 それに対して、文学は、根源的に有用だとは言えないという負い目がある。政治学・法学・経済学とある他の文科系に比しても役に立たないという気分がみなぎる。もともと法学というのはまったくの実学だから、生活の役に立たないなら存在意義がないのだが、ほかの二つは、別に必要性などがあるわけではない。現実認識には役立つだろうが、それを言うなら、歴史・哲学・文学だって同じことである。世界に関する知識と分析の方法を手に入れるのであって、世界をどの面から見るかが異なるだけだ。現実への応用の程度も似たり寄ったりで、現実的には役に立たないことが多い。
 テリー・イーグルトンによれば英文学(つまりギリシャ・ラテンの古典ではない近現代文学)そのものは、愛国心の涵養など、下層階級や植民地人の馴化に好都合であるとみなされたらしいから、イデオロギー支配の道具として有用だったわけだが(今でも文学[的なるもの]がその機能を失っているわけではないので、そういうふうに使おうと思えば使えるはずだ)、文学研究となると有用性からは遠くなる。イデオロギー支配の道具としては高校までで充分だ。とすると、教師育成という有用性しか大学教師には残されていないことになる。実際、大学の文学研究者などというものは、その他の学問の有用性・必要性に比べたらはるかに低いので、だからこそ志望者も年々減っているのだろう。むしろ文学などは有用ではないし、役に立たないと開き直るべきではないだろうか。そして身を低くして、余剰で食わせてもらってますと言ったらいいのである。国文学のように、国策に寄与して有用性を誇った、などというみっともないことをしたいのか? したくはないだろう。いや、もしかしたら、人知れずそうしたいのかも……。
 私がこのようなものを書いて、文学に関わっている自分を何とか正当化しようと苦闘していると、道楽だと認めればいいだけではないか、と横山さんは言う。大学の教師なんて社会の寄生虫なのだとも横山さんは言っている。文学の教授がそのように自己認識するのは、私はごくまともな感性だと思う。そう言い切ってしまえる人だから尊敬しているのだろう。
 まあ文学研究はともかく、文学そのものは有用性や必要性をはるかに越え、きわめて大きな影響を社会に与え続けてきた。文学が描く内容も文学の言葉そのものもである。もっとも、検証は不可能ではないだろうが、きわめて難しいものになるだろう。しかし、文学の重要性を社会にアピールしたいなら、そしてそのことによって文学研究をしている自分を正当化したいなら、文学テクストに関わることなんかさっさとやめて社会学をやり、テーマを文学にすればよい。また、物語とは何か、人間にとって物語とは何か、というような形でも文学の重要性は論ずることが出来る。やはり文学はやめ、文化人類学でもやって、物語をテーマに調査してみればよい。文学が与えた影響を本気で考えたいなら、精密な歴史である。歴史学をやれば良いのだ。思想史の中に文学を組み入れることも出来る。文学が言語表現に与えてきた影響は、人間観に影響を与え、哲学とも密接な関わりを持つから、文体史というのは、唯一文学プロパーでもいけそうだ。これにしてもいわゆる文学テクストだけを見ているわけにはいかないだろうが。詰まるところ、文学の内部から、文学の重要性は証することができないのだ。それは数学と一緒だ。技術に応用されて初めてその重要性がはっきりとする。数学者と文学研究者の違いは、数学者は数学を創造する専門家なのに、文学研究者は文学を創造する唯一の専門家ではないということに尽きる。
 ああ、まくらが長くなってしまった。ともあれ、本書では有用かどうかはわからないが、批評理論を使って読めばおもしろい、という論法を使っているが、それこそ「何かを言うために読む」なんて、ちっともおもしろいことじゃない。読者はただの読者であった方がずっとおもしろい。だが、本を長年読んでいれば、ただの読者ではいられくなることも多い。批評理論などなくとも、批評的に読んでしまうということは先にも述べた通りだ。そして、批評理論的な読み方なども、さまざまな分野の本を読んでいれば、誰に教わる必要もなく、自然に出て来てしまうものである。
 例えば、本書でも取り上げられているフェミニズムの批評理論は、フェミニズムという思想に触れれば、否応なく出て来てしまうものであって、世界をフェミニズムという思想で見るというのを文学にも応用しているに過ぎない。同様に、ニュー・ヒストリシズムや脱構築批評などの批評の方法論も、歴史や心理学や哲学など、別分野の応用に過ぎず、そのような分野に興味を抱いた者なら誰でもやってしまうことでしかない。
 だがそんなふうに読んで、文学がおもしろくなるかと言えば、まずそんなことはない。むしろ普通に読みたい時にもそういう観念がうるさかったり、自分から進んで読んでみても教条主義的な読みに陥ったりというのがせいぜいのところだろう。例えば「ニュー・ヒストリシズム」の項で、推奨本として大久保さんが挙げているジリアン・ビアの『ダーウィンの衝撃』という本がある。これは非常におもしろい本ではあるものの、あくまでも冴えてる研究者が時間をかけて資料収集と分析を行なったからおもしろい本になっているのであって、普通の読者が「進化論の影響」という視点から本を読んだとしても、別におもしろく読めるわけではないのである。そういう影響に気づくことは気づくだろうが、それだけのことだ。そのうちに、そういうことがやたら目に付きだして、目障りになるだけのことである。また、研究者なら誰でも、ユニークでおもしろい視点を持てるわけではなく、誰もがそれを興味深いものとして読者に伝えられるなどいうことはさらにない。
 この『批評理論』という本は、ある方法論に則って、現実に作品を分析、または評論してみせるというものだが、個人の力量というものをあからさまに見せて辛いものがある。例えば、読者反応論では上田敏訳「山のあなた」を取り上げているが、サブカルへの言及なしにこの詩について語ってしまうのは、それだけで狭い感じがしてしまう。筆者は私より10歳上だが、先ごろ亡くなった三遊亭圓歌(歌奴)の「山のあなあな……」という落語を聞いたことがないのだろうか。あるいはコマーシャルでこの詩が使われたこととか、この詩を響かせた歌詞があるこなどについては? さらに、ここで私が問題にした「読むときに脳内で何が起きているのか」、ヴィジュアルのイメージはどうなっているのか、それと言語の関係はどうなのか、などといったことはまったく視野に入っていない。読者反応論というのは、実は単にテキスト本位に精密に読むという形にしかならないのだろう。読まれた時代と書かれた時代を読者反応論の中に盛り込めるというけれど、現実にはちっともやれていなくて、そんなことは簡単にできるようなことではないということを証明しているかのようだ。
 私は『批評理論』全般で述べられていることを批判したいわけではない。似たようなことをここでたくさん言ってきたのだし、批評に当たっては、私も自分なりに構築した理論に従っているわけだから、非難するいわれがない。ただ、〈批評理論〉的な読みが、読者の味方かと言えば、そうではないということを言いたいのである。繰り返すようだが、研究・批評的読書は読者を幸福にするわけではない。だが、批評理論的な読み(批評理論的でなくても良いのだが、ともかくも研究・批評的な読み)を駆使した論考を読むことが読者を幸せにすることはある。
 しかし読者を幸せにする論考を書くのは難しい。おもしろい小説と同じように難しいのである。

 批評理論を駆使して書かれた評論集『文化と精読』(富山太佳夫著/名古屋大学出版界)などを読むと、その感を深くする。富山さんは英文学界一頭の良い方なのだそうである。知識も豊富で、批評理論を使うにふさわしく、実際に使いこなしてはいる。しかし、この評論集は、かなり魅力的ではない。学生向けの入門書のようなものとして書いたということで、理論の概念の説明もわかりやすいし、一見するととてもよく出来ている。だが、読んで幸せになるどころか、どんどん不愉快な気分になっていく。
 まず、随所にルサンチマンが噴き出している(ように私には見える)のが、何とも後味が悪い。批評理論を使おうともしない権威主義的な愚かな学者どもめ、いや、その前にお前らの頭じゃあの難解な英語を読むこともできやしまい……(なーんちゃってこの本にもそれとはっきりわかる誤訳がある。英語が理解できていないからではなく、日本語がぐちゃぐちゃ)。いや、あからさまにそう言っているわけではないが、何だか恨みがましい、愚痴っぽい口調は何なのか。学会の長になれず、頭が良いからかえって東大を追い出され、青学の教授で我慢しなければならないという怨念なのか? などと思わず勘ぐりたくなるような、どうでもいい英文学会批判があったりする。だいたい大学教授などというものはなどというものは旧態依然としていて権威主義的であるだろうに。このような本で書くことか。
 およそ、大学という制度内で、根本的にラディカルであることは不可能である。そのことには著者はちゃんと意識があるらしく、大学内で教授が考えた手法は規範になるというようなことを言っている。ならば、学者という立場からポストモダン的批評、カル・スタの発想を発信するとはどういうことなのかをもう少し突き詰めて考えてもよろしいのではあるまいか。自分は文学を制度化する権威主義の権化のようなところにいて、権威主義を批判するなど、なんと滑稽なことか。自分の方がちょっとばかり意識的だからと言って、威張れるようなことか。文学そのものを問い直すところに来ているのなら、それで飯を食っている自分というものの存在がまず真っ先に否定されるべきではないか。
 実際には否定されるどころか、学生向けという意識があるからなのか、随所で権威的な口調になる。例えば、いやしくもフェミニズム批評をするからには、既に辞書で分類もされているフェミニズムのタイプに無自覚なのは許されないというような言い方をする。そういう断定そのものが、フェミニズムに抵触する。どんな立場(といっても「辞書にも書かれているいくつの立場」(辞書ってのがまず権威でしょ?)は相互に関連しあっていて、どれか一つの立場を取るというようなものではなく、すべて統一的な視野の元に眺められるようなものだと私は思う)を取るのか旗幟を鮮明にすることを迫るのは、権威主義もいいところだ。さらにフェミニズム批評の存在そのものを認めない奴がいる、許せん、と、かなり現状にうんざりした、もしくは怒りを込めた調子で語っている。怒る気持ちはわからないでもないが、教科書的作物で怒りをまき散らすのは恫喝に近いということを意識しているのだろうか。とにかくこの調子が至るところで目に付くため、批評理論なんぞどうでいもいいではないか、という気分にさえなるのである。
 さて、「私自身が学生時代に学んだイギリス小説史は崩壊した」という一節がある(「最初は女」)。文学の批評理論が先鋭化したこの30年の間にそうなったのだ。だが、富山さんが幻想文学にも関わっていたことを考えると、このようなことはもう30年前に、既にわかっていたことではないのか。読み方を変えれば文学史は書き換えられる。どんな基準によってそれをするのか、問題はそれだけだったはずだ。幻想文学というジャンル立て自体がそうなのである。どうしてこの道からは撤退したのか? 興味を持てなかったから? それは確かだろうが、主流にいたかったからなのでは?……などと言うのはひどく意地の悪いことだろうか。ポス・コロ的視点は幻想という視点よりもすばらしいのか。女性が見えるような文学史はSF文学史よりも価値が高いのか。カル・スタはそういう順位付けを本来否定するものではないのか。だが、現実には、「アカデミズムさまが出してきた新しい視点がすばらしい」ということにしかなっていないのではないか。結局、それは別の規範になっただけではないか……という頭にはならないのか。
 ほかにも、「一体イギリスとはどんな神経をした国なのか」というような、どうしてこんな無神経な言葉を使うのかと思うようなフレーズもある。老人と王室を笑いのめす極悪な小説をめぐっての感想だが、一個の小説からイギリス人(たぶんスコットランドやアイルランドは入ってない)全体の精神を推し量ろうとするのは、理論にそぐわない乱暴さである。もちろんただレトリックなのだが、私はこうしたレトリックの中に、文学者の引け目よりも自負を見てしまう。後半ではこの言説はそんなに簡単には国民性を推し量れないという言葉へと回収されていき、全体としては非常によく出来たエッセイのように見える。だが、私の違和感はぬぐえない。詳述する余裕はないが、説明がないままの称揚や、感慨的記述が、精密であるべきカル・スタ的なエッセイの成り立ちと齟齬を来しているように思えてならないのである。
 もしかすると、趣味的に文学をやりたい、それは立場上絶対に出来ない、という富山さんのアンビヴァレンツな心持ちが露骨に出ているのかもしれない。一般的な見地からすると優れた批評のように取られるであろうこの書物は、私などから見ると、大学教授という特権的な立場に居るくせにぐだぐだ言ってんじゃねえよ! と怒鳴りつけたくなる。人のルサンチマンを聞かされていると、自分もそうした殺伐な気分になってくる。これではどうしようもない。
 カル・スタはある意味では、良心的な「文学」研究者を精神的に追い込むものであるのかもしれない。どこへ向かって? それはもちろん沈黙へ向かってである。
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