文学を読む◆終りに◆ (2004.06)
評論が変われば、先鋭的な小説も変わっていく。フェミニズム批評やポスコロ批評が誕生して後、小説を書く側もそうしたことに無意識ではいられなくなった。エンタメ、大衆小説でも差別表現に意識的にならざるを得なくなったように。レイシズムがにじみ出ている作物でも、18世紀に書かれたものとただいま現在書かれているものでは、作者の意識も違えば、作品の受け手の意識も異なるだろう。私なら、昔の小説はまだ我慢できるが、現在の作品ならば、不愉快さは何倍にもなる。作家は自分の書きたいものを書くのだろうが、自分を取り囲む世界に影響を受けざるを得ず、また、読者を意識しないで済むこともない。どのように読まれるのか、何の意識もせずに書くことはできないだろう。
だが、現実には各レヴェルで、またさまざまな方法で読まれているのであり、そのすべてを意識することはもちろんできるはずがない。というよりも、第一読者は常に自分自身であるから、自分自身が読める以上の読みを想定して書くことができない。作家自身がどのような読者であるかということもまた、作品の個性を形作る。
作家が読者として想定していた作品を、作家以外の読者は、恣意的に読み、作品を変質させる。読まれれば作品は端的に読者のものになり、生身の作家は消え去る。作者が残り続けるのはただ幻影としてのみであり、それも読者が生じさせた幻影に過ぎない。そのような現実がありながら、作家は読者に、かくかくのように読んでもらいたいと考えるのであろうか。私は少なくとも私の日本語を理解してもらいたいという願望を抱いているが、それさえもかなわない場合があることを知っている。
作者にとって最良の読者とは何だろうか。自分が想定したように読んでくれる読者なのか、思いがけない読みをする読者なのか。あるいはどのように読んだにしろ、それを良いとか好きだと思ってくれる読者なのか。それもまた作者によって異なるのだろうが、しかし作者の思惑通りになるのであれ、そうはならないのであれ、そうした作者の思いは、作品にとっては問題にならない。
書かれたものが読まれることで、作家が意図したことにせよしなかったことにせよ、何かが読者の中で起きる。作品の価値、あるいは意味、あるいは真実とは、本来、この起きたことの総体である。そしてそれは決して、誰にも知られることがない。どんなに理論を駆使しようが、あるいは歴史的な展望をしてみようが、それは全能の神以外は知ることができないのだ。
文学同士の影響関係すら、客観的には測りがたいような現実があるのだから、一般の、物言わぬ読者に与えた影響を測ることなどはまったく不可能である。どれだけヒットしたかしなかったか、どんな評判を呼び、どれほどくさされたかといった、外に出る結果だけでは、それを推測することすら困難だ。
しかも、世の中には、言語化を阻むような体験が少なからずある。本を読んだときに起きることが、そのような種類の体験だったなら、意味を取るとかイメージがわくとか何かを考えさせるとかいったことではなく、作品そのものが誘発する心身的な体験そのものだったなら、それは内面化されるだけで、外には出てこない。それこそが作品の真価であるのに、それは知られることがなく、世間的には無かったのと同じようなことになる。しかし世間的には存在しなくとも、あるものはあるのである。そして、やがてはそれがまったく別の形で外に現れ出ることもないわけではなかろう。あるいは作家になる、ということなどがその一つの形であるのかもしれない。
読んでいる時に何が起きているのか、人はどのように読むのか、ということについてつらつらと思い巡らしてきた。読むこととは何か、何を求めて読むのかといったことについても考えてみたかったが、すっかり息切れしてしまった。考えたことはいろいろとあったが、忙しさに追われるうちにすっかりどこかに紛れてしまった。それだけのものだったのだろう。
本当にまとまりのないものになってしまったが、ここまで御付き合い下さった方に御礼申し上げる。(終わり)
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