『アムネジア』――あなたはそれを探してはならない◆ (2010.08)
Ⅲ 満ちあふれる謎
右の一連の読みから、ここでさらにもう一つ、別の仮説が浮かび上がってくる。
『アムネジア』は、このように、さまざまな読み方を読者から引き出させる装置ではないか? という仮説だ。読者はそれぞれの物語を読み取る。その読み取る範囲を最大限にするため、限度ぎりぎりまで曖昧な物語にする。そのような、実験的な装置なのだ。しかし装置であると思わせたら失敗なので、著者は〈ドライブ感を失わないように努めた〉(『ダ・ヴィンチ』のインタビューによる)のだろう。
いやはや、とんでもない小説である。こうした小説を一般には、「深読みを誘発する」などと言うのだが、その程度が半端ではない。中には、こんな書評もあった。『アムネジア』の紡ぐ妄想と、妄想と現実の間で揺れ動く主人公を的確に捉えつつも、「稲生は後半で、彼らの背後に宇宙からの意志の働いていることを暗示する」と論を展開するものだ(巽昌幸『論理の蜘蛛の巣の中で』二〇〇六・講談社)。そしてこう評する。「その構図はきわめて脆弱なものだ。死んだ老人のうらぶれた住まい、喫茶店で放言するブローカー、「電器屋の二階」の異常者たちといった、生々しい場所と肉体の記憶が、そうした構図によって支配され、落ち着きどころを見出すとは到底いえない。低俗な言葉が、無数の枝分かれを示しながら、濁った水のように流れ、あちこちにわだかまる妄想たちを結んでゆく、それこそが世界の実相であって、宇宙からの意志なるものは、その流れが一瞬見せる水面のゆらめきにすぎないのではないだろうか」
巽は、平たく言えば〈宇宙人の介入〉が語られていると読み取って、興ざめしたのだろう。あの、入院に到るまでのリアリティはどこへ行ってしまったのか、という思いだったのではないだろうか。
しかし……〈宇宙からの意志〉? そんなもの、どこにあったろうか? 推測するに、著者が腐心したという謎めいた記号〈丰〉に目を眩まされたのではないだろうか。オカルト好きな人からは、〈王〉の字に似ているという記述から、これが〈ウンモ星人〉のマークではないか? という謎解きが示されているのだが、その説に従ったのではないかと思われる。『アムネジア』に描かれる〈世界の実相〉をもしっかりと見据えながら、〈宇宙からの意志〉を読み取ってしまうあたりは、私には何とも不可解だ。まるで、見えない条理を探し求める伶のように、巽も見えない糸をつかんでしまったかのようだ。そもそも、私が〈丰〉で代用してきたこの記号は、私には、百歩譲っても〈王〉には見えない。この記号について著者は、〈そんなに難しいものではない、ある意味で見たままだ〉と述べている(著者からの直接の伝聞)ので、それほど難しく考える必要はない。〈本〉。それ以外、何に見えるというのか。――別のものに見える、というのであれば、それはそれで一向にかまわないが。
〈宇宙からの意志〉はまさに、稲生が見せたいと思った〈その流れが一瞬見せる水面のゆらめき〉にほかならない。脆弱もなにも、〈宇宙からの意志〉は昆野たちの妄想の一部を成している可能性はあるが、もっぱら読者が諸々の細部から読み取る幻想=物語に過ぎない。しかし、そう読むのが間違いだとも言い切れない。もしも、この説に従って読み切るならば、〈本〉はちょうど『MYST』の本に似たものになるだろう。我々より優れた存在から手渡される、異次元への招待状である。
それにしても私たちはいったい、何を読んでいるのだろう? 『アムネジア』はエピローグで、これが伶、もしくは伶の代理人によって書かれた手記であることを示す。もしかしたら小説なのかもしれない。これまでの体験や読んだものから伶が組み立てた、あり得べき物語。しかし伶が壊れているので、物語も壊れている。あるいは混乱した、眠りの中で見る夢のような話。夢みている間は真実であっても、目覚めてしまえば消え去ってしまう、はかない記憶。あるいは〈信頼できない語り手〉が語る、隠蔽だらけの語り。そこからはいくらでも謎を読み取ることができる。その中には、解けない謎もいくつもある。
例えば、時間の流れ。最も客観的であるエピローグは、伶の失踪時日を一九八二年四月十七日としている。入院中の伶の時間感覚は明らかにおかしく、事故から二週間しか経っていないことになっているが、実は一ヶ月半が経過していると宇多川は言う。とすれば、爆発事件は三月の初め頃だ。しかし、伶の体験は初夏の出来事として語られているのだ。徳部の家を訪ねたときには、季節は晩春から初夏と推測される。カブトエビが水の張られた田んぼにいるのだから。その後、昆野のところへ出向く時も、理絵の服装から、夏の前後が予想される。定期試験という語から、夏休み前とも取れる。そして昆野のところから帰った直後に、爆発事件が起きて伶は入院する。
また、徳部の家に上がり込んだ伶は、まだ納骨がんでいないはずだ、と断定する。すぐに納骨してしまう場合もあるのだから、断定する根拠はないのだが、まだ初七日のうちであればその考えは不思議ではない。保険金が未払いなのも納得がいく。その発言が自然な期間はせいぜい延長できても四十九日だろう。とすると、理絵との会話の最中に、「三月初め、それとも二月の終わり?」の「時季外れの大雨」と共に回想されている徳部の死についての記事との整合性はどうなるのだろうか? ちなみに、伶の語りの中では、春夏秋冬や梅雨など、時季を示す言葉はいっさい使われておらず、月への言及があるのも、このただ一度きりだ。
この時間のずれはなんだろうか。一つの解釈を試みるなら、「時季外れの大雨」も含めてすべては、冬の間に進行して、三月の初めか二月の終わりの爆発事件に到ったのだが、伶は、それを初夏の物語として書き変えた、ということである。話中話の児童文学が初夏の物語であるのに合わせたかのように。あるいは作中作「記憶の書」との季節的な近似を避けるために。雑誌の記事の部分を除けば、すべては伶の視点から語られたものであり、その記述になんら信を置くことはできないが、少なくとも、〈伶〉にとって主観的な真実を語っているのだと考えるなら、冒頭の記憶の揺らぎを除いて、伶にとってすべては夏の物語に見えていたのだとも言えるかもしれない。
また、別の解釈をするなら、伶にとっては、六週間が二週間だったように、すべては一年以上の時間をかけてゆるゆると進行したのだが、語りはそれを隠蔽しているということもできる。さまざまな要素を考え合わせれば、いささか無理な仮説ではあるけれども。
また、「三月初め、それとも二月の終わり?」については、別の解釈もある。「時季外れの大雨」と共に回想されているのは徳部の死亡記事ではないということだ。徳部とは別のひとりの老人が横死して、戸籍喪失者だとわかったという記事だったのかもしれない。なにしろ冒頭では徳部の名は出てこず、「男」「ひとりの老人」としかなっていない。戸籍に関する記事に目を留めるめぐりあわせにあるのかも、という奇妙な感想がそのことをわずかに裏打ちする。そしてその老人の戸籍は、神戸を出生地とするものらしいが、徳部は東北の出身であるらしい。年齢も少し違う。この部分は伶の記憶が――語りが曖昧になっているということをしょっぱなから暗示するギミックなのかもしれない。しかしわからない。断定する手がかりは何もないからだ。
そして、いずれにせよ、こうしたことは断定する必要がない。むしろ積極的に、断定してしまうことは避けなければいけない。なぜなら、『アムネジア』はそのような固定化を周到に避けた作品だからである。著者の意図を尊重するというのではない。固定化を避け得て、しかも形を保っている稀有な作品だからこそ、それを断定によって損なうのは、もったいないからだ。「水面のゆらめき」でしかない「宇宙からの意志」を、氷らせて固めても、ゆらめきがもっていた玄妙な味わいはどこかへ行ってしまうのだから。
それならば、私がこれまで書いてきたことは何か?
それは、可能性である。『アムネジア』という作品の奥行きに蔵(しま)われている、さまざまな可能性にほかならない。
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★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★